第17話 一枚のストーリー
狂乱の〝思いで〟から飛び出したピートの顔に、狭い階段の先から午後の日差しが当たります。ピートは光に視界を奪われないように足元を見ながら階段を駆け上がると、裏路地を駆け抜け、通りに停めていた自転車に飛び乗ります。
「待て、ピート。はぁ、はぁ、待てったら」
すっかり息の上がったトニオが、ピートの後をふらふらした足取りで追いかけてきます。
「トニオ、お前は先に音楽堂に行ってくれ。ベルは僕が連れていくよ」
そう言うと、ピートは全身の力を込めてペダルを踏み込みます。雨の日も嵐の日も共に配達してきた相棒は、ピートの気持ちに応えるようにシャリシャリと軽快な音をたて一息にトップスピードまで加速します。
「待ってくれよ、ピート。せめて駅まで送ってくれ」
あっという間に遠ざかるピートの自転車を見ながら、トニオは手近のベンチにもたれかかって雲一つない真昼の空を仰ぎました。
音楽祭の人出で、街の通りはどこも大混雑しています。ピートは車と人の間を縫うように走り抜けていきます。車と車の間、人波の切れた歩道、誰も通らない裏路地、ピートは配達で覚えた道を組み合わせながら、フローリスト・ベルまでの最短の道を探し出します。
連日の騒ぎと睡眠不足でピートの肉体は疲労の限界にきているのですが、どういうわけか、少しの疲れも感じないのです。
いえ、今のピートには目の前の街の景色すら見えていません。
ピートには。
ピートには、一つのストーリーが見えています。それは、ベルが書いた一枚の手紙から始まったストーリーです。そのストーリーの中に、知らないうちにピートも巻き込まれていました。
ベルが揺れる心の内を書いた手紙は、ピートに運ばれリッテンバーグの元へ、宛先不明の棚にあったリッテンバーグの心もピートを通してベルの元へ、ベルの心も再びリッテンバーグへ。そして、今、ピートはリッテンバーグの伝言を受け取って、ベルの元に走っています。
一つ一つはバラバラで、組み合わないはずのパズルのピースでした。しかし、幾つもの奇跡が、理屈を越える力が、それを繋ぎ合わせてきたのです。
「そうか、僕が運んでいたのはインクのついた紙じゃないんだ。誰かの人生を、物語を運んでいたんだ」
ピートは自分が郵便屋であった事の意味を知ります。
一人が通るのがやっとの狭い路地を、ピートはスピードを落とさずに駆け抜けます。噴水広場のステージ演奏の音が耳に入ってきました。フローリスト・ベルはすぐそこです。
「僕は必ずベルを連れていく。このストーリーを最後まで届けるんだ」
昼下がりの公園にナラの木が一人ぽつんと立って、斑のタイルで舗装された路面に木漏れ日を落としています。
傾きかけた陽光はナラの葉の間をすり抜け、フローリスト・ベルの屋号のペイントされたウィンドウを通り、困惑した表情でカウンターに座っているグラント氏の足元まで届きます。カウンターの上では、白く細い湯気を伸ばしている二つのティーカップと少々焼き目のつきすぎたスコーンが、時計の秒針が小さな音をたてる毎にゆっくり冷めていきます。
午後のこの時間、いつもならベルが、外側に弾力を残しながら中はふっくらとした絶妙な焼き加減のスコーンと、ハチミツを一匙入れた香りたつダージリンティーのカップを持ってキッチンからやってきて、仕事中のグラント氏を休憩に誘うはずです。ところが今日に限っては、用件を告げずに家を出た娘は、帰って来るなり何も言わずに自分の部屋に閉じ籠り出てくる気配もありません。
〝いったい娘に何が起きているのか〟
花柄の小さめのカップに注がれた紅茶から立ち上がる湯気は次第に薄くなり、今やすっかり消え去ってしまいました。
グラント氏は一つため息をつくとカウンターの椅子から立ち上がり、冷めてしまったスコーンの皿を持って階段を上り始めます。二階に上がると短い廊下の先に二つの扉があります。突き当たりの扉がグラント氏の寝室、その手前の扉がベルの部屋になります。グラント氏は閉ざされた扉の前に立つと、掛ける言葉を一度頭で確認してから、扉を小さく二回叩きます。
「ベル、スコーンの焼き加減を見てくれないか。お前みたいに上手くいかないんだ」
グラント氏はノックした手を下ろさずに返事を待ちますが、扉の向こうからは物音一つ聞こえてきません。スコーンの皿を手にしたままグラント氏は扉の前に立っていましたが、しばらくの後、足音をたてないように階段を下りていきます。グラント氏が階段を下りたところで、柱にかかる振り子時計が3時の鐘を鳴らします。
〝そろそろ仕事に戻らなければ〟
諦め顔でスコーンに手を伸ばしたグラント氏の耳に、金属の擦れる甲高い音が聞こえてきます。グラント氏が窓の外に目をやると、後輪が浮き上がる程の急ブレーキをかけて、店先に自転車が停まります。自転車に跨がる男の顔には見覚えがあります。
〝あの郵便屋か。非番の様だが何をしに来た〟
私服で来た郵便配達員は、何やら相当に急いでいるようで、自転車から飛び降りると戸口までの短い距離を駆け足でやってきます。
〝いつもと違う娘と、いつもと違う配達員。関係があるのだろうか〟
何となく悪い予感がしたグラント氏は、店の入り口に背を向けるように座り直し、読みきった新聞を広げて店に入ってくるピートの姿を見ないようにします。
戸口を入ったピートは店内を見渡し、ベルの姿がないのを知ると、カウンターで新聞を読んでいる振りをしているグラント氏の横に立ちます。ベルの事を気にかけるグラント氏と、ベルの事を聞きたいピートが薄い新聞を挟んで立っています。
ピートは、いつまでも顔を上げないグラント氏に困惑します。本当に自分の事に気がついていないのか、それとも、ベルから事の次第を聞いていて、無言の抗議をしているのか。しかし、今のピートには時間がありません。
「あの、グラントさん」
「何だ。今日の配達ならとっくに終わったぞ」
本当はピートにベルとの関係を問いただしたいグラント氏でしたが、その気持ちを悟られないよう、新聞に目を置いたまま無愛想に答えます。
「ベルさんは帰って来ていますか。ベルさんに伝えなければいけない事があるんです」
郵便配達員の男の口から娘の名が出る事が、グラント氏の張りつめた感情を逆撫でします。グラント氏は乱雑に新聞を折り畳むとカウンターの上に放り投げて、眉間にシワを寄せピートを見上げます。
「娘は寝ている。用件は伝えておくから帰れ」
「グラントさん、時間がないんです。ベルさんを呼んでください」
食い下がるピートがベルの名を再び口にすると、グラント氏はカウンターを平手で打ちながら挑みかかるように立ち上がります。
「帰れと言っているんだ」
〝軽々しく娘の名を呼ぶな〟
グラント氏は娘と郵便屋の間に自分の知らない事情があるのが、腹立たしくて仕方ないのです。
〝このうらなり瓢箪め、次にウチの娘の名を呼んだら叩きだしてやる〟
内から沸き上がる怒りを込めてピートを睨みつけるグラント氏ですが、どういう訳か、目の前のうらなり瓢箪は身構えるでも、身動ぎするでもなく、飄と突っ立ったままぼんやりと真っ暗な瞳で自分を見下ろしています。
「グラントさん、この手紙をお嬢さんに渡してください」
ピートはポケットから手紙を取り出して、カウンターの上にそっと置くと、グラント氏の目を真正面から見据えながら穏やかな口調で伝言を伝えます。
「ジェフリー・リッテンバーグさんから、3時までにお嬢さんを音楽堂に連れてくるように頼まれました。昨晩の老人がリッテンバーグさんです」
それだけを言うと、ピートは深く一礼し、何事もなかったように店を出ていきます。その仕草は配達の時と全く変わりません。あんまりにあっさりと引き下がるピートに怒りの芯を抜かれてしまったグラント氏は、カウンターに置かれた手紙を見つめて考えを巡らせます。
〝いったい何だ、あの男は。ベルとはどういう関係なんだ。ジェフリー・リッテンバーグとは誰だ。何故、ウチの娘を音楽堂に呼び出すんだ〟
手紙の宛名書きの文字は見慣れたベルの字です。
〝郵便屋でも、ジェフリーって奴の手紙でもない。ベルが書いた手紙をベルに返すのか。そこに何か意味があるのだろうか〟
店を出て行った郵便屋の瞳が、グラント氏の心に引っ掛かります。一度は娘との関係を疑ったグラント氏でしたが、先ほどの郵便屋の態度を見ると、そんなに単純な話でもないような気がしてきます。
〝あの男、何故あんなに涼しげな目をしていたんだ〟
こうなるとグラント氏の心の奥にも、ベルの手紙に込められた真意を知りたいという好奇心が湧いてきます。
〝ウチの娘の事だ。今の騒ぎを聞いていたろう〟
男手一つで娘を育ててきた親の直感がそれを知っています。
「やれやれ、まったく面倒な事だな」
グラント氏ははしたない好奇心を隠すためにわざと一人言を言うと、カウンターの上の手紙を手にして、また階段を上がっていきます。
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