第16話 思いでの夢

祭の喧騒も地下にある〝思いで〟の店内には届きません。客のいないカウンターにティアナが肘を乗せてうたかたの夢をみています。

夢の中のティアナとリアナは若く、美しく、トップスターになる野望を胸に、幌馬車に乗って街から街へと旅をしています。馬車の手綱を取りながら、陽気な鼻歌を口ずさんでいるのは若かりし頃のリッテンバーグです。強いカールのかかった髪を撫で付け、艶やかな口髭を風に揺らしています。二人の美女と簡素な家財道具、そして、古いピアノを荷台に積んで、幌馬車が乾いた大地の上を走っていきます。

「ねぇ、ジェフ。本当に道は合ってるんだろうね。こんな荒野で野宿は勘弁しておくれよ」

「何言ってくれんだ、俺が間違ったことあったか。任せておけよ」

「あんたに任せて上手くいった事なんて一度もないよ」

リアナとティアナが幌から身を出して、馬車の進む先に目をやります。一直線に伸びる道の両側には、葉の少ない低木の茂みと赤土の小高い丘が続いています。

「そんな事言えるのも今の内だぜ。何しろ次は音楽の都だからな。俺の指が鍵盤を叩けば、あっという間に人だかりができるぜ」

リッテンバーグが幌の中のピアノを振り返り、自信たっぷりに口髭を揺らします。

「人だかりもひも男も結構だけどさ、酔って喧嘩するのはやめてくれよ。それで何度街を追い出された事か」

ティアナが呆れ顔で皮肉をいった時、道の先の丘の間から突き抜けるような青の空と同じ色の海が見えてきます。

「いやっほぅ、見えて来たぜ」

道が丘を越え下り坂になると、目の前に海が広がり、眼下の海岸線に街が見えてきます。

「どうやら野宿はしなくてすんだみたいだね」

リアナとティアナも御者席の後ろまでやって来て、遠くの街に目を凝らします。

「おい、見ろよ。祭りの最中みてぇだ」

徐々に大きくなる建物の間に垂れ幕と提灯の影が揺れて、三人の気持ちを高揚させます。

「はっはー、いいタイミングじゃねぇか。旨い酒、旨い飯、たくさんの音楽好きの連中が俺達を待っている。さぁ、派手に騒ごうぜ」

リッテンバーグが手綱を振って馬車の速度が上がります。幌馬車が三人の夢と古いピアノを乗せて、乾いた路面に土煙をあげます。それはずいぶん昔の思い出の夢でした。


「よぅ、リアナ、ティアナ。俺様の登場だぜ」

呼び鈴を激しく揺らして、トニオが扉から入ってきます。

つかの間の夢から現実に戻されたティアナには、一瞬、トニオの顔に若い頃のリッテンバーグの姿が重なって見えます。

「なんだい、今日は賑やかな日だね」

ティアナの反応とカウンターの上に置いてある空のグラスを見て、トニオは先客がいたことに気がつきます。

「俺の前に誰か来てたのかい」

「ああ、ジェフがさっきまでいたよ。あんた、その辺りで会わなかったかい」

「さあね。そんなやつ知らねぇな」

リッテンバーグと会った事など、トニオの記憶からはすっかり抜け落ちているようです。

「あいつ、あんた達の事誉めていたよ。めったに他人を誉めたりしないんだけどね」

「へぇ」

トニオはティアナの話には一切興味を示さずに、生返事をしながらカウンターの空のグラスに勝手に酒を注ぎ始めています。

「昨日の嬢ちゃんにもまた逢いたいね。今度、連れてきな」

ベルの話しが出たところで、景気良く酒を煽っていたトニオの手が止まります。

「また、ベルの話かよ。どいつもこいつも二言目にはベルだな。俺はもうあいつらとは関わらないぜ。会いたきゃ勝手に会いに行きな」

「あら、まぁ、ずいぶん機嫌が悪いじゃないか。喧嘩でもしたのかい。どうせあんたが何かやらかしちまったんだろ」

「おい、何で悪い事はいつも俺のせいなんだよ。そもそもこいつはピートがな…」

子供みたいに口を尖らせたトニオがピートの名を出した時、入り口の扉の向こうから何かに躓いて大きな音を立てながら階段を下りてくる騒々しい足音が聞こえてきます。ボーリングの玉のように空き瓶を倒して、階段を転げ落ちながら扉から入ってきたのはピートです。

「トニオ、ここにいたか」

床の上を回転してソファーにぶつかり停止したピートが、カウンターに座るトニオを見つけて声を上げます。

「こりゃ、また、騒々しいのが来たね」

「ピート、お前、」

そんなに急いでどうしたと言いかけたトニオですが、先ほどのもやもやした気持ちが振り返して言葉を替えます。

「ふん、今さら話す事なんてねぇぞ」

「さっきは僕が悪かった。謝るよ、トニオ。でも、今はこれを見てくれ」

わざとヘソを曲げて見せるトニオの前にピートがやって来て、ポケットから取り出した手紙を差し出します。そもそも生真面目なピートから真正面から見つめられると、その曇りのない瞳の奥に吸い込まれていくような気がします。

〝そうか。ベルがピートに気を許したのも、これか〟

トニオは、自分には変える事の出来なかったベルの気持ちを、ピートが変化させた理由を理解しました。先刻までの心のわだかまりも消え、怒る気もなくなってしまったトニオですが、口だけは尖らせたまま突き出された手紙を目で追います。

「手紙がなんだってんだよ」

「ここだよ。ほら、消印が押してある」

ピートは切手に押してあるこの街の音楽堂がデザインされた消印を指差しますが、話しが見えてこないトニオはその消印をじろじろ見ながらピートに聞き返します。

「だから、何だよ」

「だ、か、ら、この手紙は配達済みなんだよ。手紙はリッテンバーグ本人に配達されたんだ。あの老人はジェフリー・リッテンバーグだ」

ピートの言葉に〝思いで〟の空気が固まります。

「はははは、そんな、バカなこと…」

空笑いを吐き出しながらトニオはピートの目を見ますが、その瞳は真剣そのものです。次いで、トニオはカウンターのリアナとティアナに目を向けますが、二人は一つも驚いた様子もなく、むしろ呆れた顔でトニオを見返してきます。

「マジか」

急速に酔いがさめて、トニオの頭の回路がようやく繋がり出します。

「あんた達、相手が誰かも知らずに騒いでたのかい」

二人のママ達は、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしているトニオを見て、大きな体を揺らして笑い出します。

「ちょっと待て、ちょっと待てよ。だってよ、写真とずいぶん違うじゃねぇか」

トニオはポケットに突っ込みっぱなしにしていた、しわくちゃになった音楽祭のチラシを取り出して、紙面の端に乗っているリッテンバーグの写真を食い入るように見ます。そこには、確かに昨日の老人より一回り以上は若く、豊かな髪も黒い艶やかな髭も蓄えたリッテンバーグの姿があります。

「あぁ、そいつはずいぶん昔の写真だね。まだ髪もある」

「あいつ、見栄っ張りだからね。最近の写真は使いたがらないのさ。ほら」

リアナは壁に貼ってある写真を指差します。そこには二人の美女が歌う横で、しっかりとした黒髪を撫で付けた若かりしリッテンバーグがピアノを弾いている姿が写っています。

ついで、リアナが隣の写真に指を移すと、そこには女盛りを越え大人の色香を身につけた二人の女性と肩を組んで写る、髭も髪も伸びて来たリッテンバーグ。そのさらに隣には、ずいぶん体型もふっくらしてきてドレスがキツそうな二人のママ達と、白髪交じりの髪に巻き髭をつけたリッテンバーグが新装した〝思いで〟の店内でボトルを開けている写真。チラシの写真もこの頃のリッテンバーグのようです。

そして、最後に並んでいるのは、現在のリアナとティアナ、そして、すっかり髪が薄くなったリッテンバーグがカウンターの上に乗ってべろべろに酔っ払っている写真です。衝撃の真実と三人の変わりように、トニオの手からチラシが滑り抜けて床に落ちます。

「俺、今そこでリッテンバーグに会ってたぜ」

酔いが覚めたトニオの頭が映画のフィルムを逆再生するように数分前の自分の記憶にたどり着きます。

「そ、それで」

「ベルを音楽堂に連れて来いって言ってた。3時までに」

「コンテストだね。あいつ何かやらかすつもりさ」

店内の四人が一斉に紫色の壁にかかった時計の針を見ます。古めかしい時計の短針はとっくに2時の文字を越えています。

「ベルに伝えてくる」

ピートがすくりと立ち、戸口に向かって駆け出します。

「お、おい、俺も行くよ」

ピートの背中に続いてトニオも扉を飛び出していきます。

「何か楽しい事になりそうだね」

「あたしらも出かけるかい」

階段を勢いよく駆け上がる二人の足音に、リアナとティアナにも若い頃に感じた興奮が戻ってきます。ところが、二人のママが店を閉めようと動き始めると、またもや騒々しい音をたてて、出ていったはずのピートとトニオが扉から飛び込んできます。

「なんだい、あんた達」

どうしたとリアナが言葉を続けるところで、数人の人影が店内になだれ込んできます。

「よお、トニオ、ピート。二人ともお揃いじゃねぇか」

黒い影の一つがドスの聞いた声を出しながら釣り照明の下に来ると、薄く黄色い光に脂っぽいたるんだ頬を歪めて下品な笑いを浮かべている男が照らし出されます。取立て屋の連中です。

〝しまった。後をつけられていたのか〟

機を見計らった黒服の登場に、ピートはその事に気がつきます。おそらく悪党達はアパートからピートを尾行していて、二人が揃うタイミングを待っていたのでしょう。

「まったく今日は騒々しいね。今度は誰が来たんだい」

閉店の準備に店の奥に下がっていたティアナが、カウンターの戸口から顔を出して様子を伺います。身構えるピートに、ソファーの裏に身を隠しているトニオ、そして、初顔のきな臭い連中。どう見ても友達には見えません。その中の一番きな臭い奴が、ティアナとリアナを睨み付けながら葉巻を取り出すと、小さい男がすかさずライターの火を近づけます。

「あんた達、その灰を床に落とすんじゃないよ」

きな臭い奴らのボスは、ティアナの言葉を無視してピートの前まで来ると、吸い込んだ煙をピートの顔に吹きつけます。

「郵便屋、昨日はずいぶん恥をかかせてくれたじゃねぇか」

黒服のボスの顔は見る間に真っ赤になり、頭からは、湯気か葉巻か、白い煙がもくもく立ち上がります。まるで燃えさかる機関車の動力炉のようです。

「覚悟しろよ。俺の顔に泥を塗ってこの街を歩けた奴はいねぇぞ。追い込んでやるぜ、てめえも、てめえの身内も」

血走った目を息がかかるまで近づけてくる黒服のボスに、ピートは腹に氷を詰め込まれたような身震いが起きます。

「お前もだ、トニオ」

黒服のボスの怒りの咆哮は、ソファーの影に隠れてだんご虫のように丸まっているトニオをさらに小さくします。

「今はそれどころじゃないんだ。通してくれ」

〝一刻も早く、ベルに伝言を伝えなきゃいけないんだ〟

ピートは男達の横をすり抜けようとしますが、大男の丸太のような腕がピートの肩に振り下ろされ、ピートは床に叩きつけられてしまいます。

「くそっ、離せ」

大男に背中にのしかかられたピートは渾身の力で抵抗しますが、押さえつけられた体は鎖で縛りつけられたかのように動きません。黒服のボスは冷酷な笑いを浮かべながら、芋虫みたいに首だけをよじらせているピートを見下ろし、指を鳴らして痩せた男に合図を送ります。

「郵便屋。とりあえず昨日の件、落とし前つけさせて貰うぜ」

黒服のボスが指を2本立てると、痩せた男が胸ポケットから折り畳みナイフを取り出し、ピートの目の前で開いて見せます。小男がピートの手に乗りかかり、床に押しつけて力づくで指を押し開きます。

「利き手は残せよ。契約書にサイン出来なくなるからな」

少しも面白くないボスの言葉に、黒服の手下達が一斉に笑い声をあげます。

「やめろ、やめろー」

叫ぶピートの頭上で、痩せ男が振り上げるナイフが吊り下げ電球の明かりを反射した次の瞬間、光の軌道が空を裂き、ナイフを振り下ろそうとしている痩せ男の鼻先を掠め、鋭い音を立てて壁に突き刺さります。

フライパン返しです。

一体どれ程の力で投げれば、フライパン返しが壁板に刺さるのでしょうか。言葉を無くした痩せ男の手からナイフが滑り落ちて、鼻先にうっすらと血が滲みます。

「待ちな、あたしらの店で好き勝手はさせないよ」

オーバースローでフライパン返しを投げこんだティアナが、乱れた髪をかき上げながら腰に手をあて、カウンターの奥から鋭い目で男達を威圧します。

それは、まさしくヒーローの姿です。

ピートも、トニオも、黒服の男達も目を点にして固まってしまいます。

「てめえら、邪魔するなら容赦しねぇぞ」

いち早く我に帰ったボスが怒鳴り声をあげ、手下達が身構えます。

「いいねぇ、血が騒いできた。どさ回りで鍛え上げたルチャ・リブレの妙技、味合わせてやるよ」

リアナが、ピートの聞き慣れない単語を言いながら、嬉しそうな顔で左右にステップを刻みます。状況の分からないトニオがソファーの影からそっと顔を出すと、ボクサーのようにステップを踏んでいるリアナ目掛けて、黒服の小男と痩せ男が突進していくのが見えます。

「きぇー」

リアナは奇声を上げて襲ってくる黒服達をするりとかわし、素早い動作でカウンターの中からハバネロソースのビンを取ると、口に含んで男達の顔に一気に吹きかけます。

「ぐはっ」

「目が、目がぁ」

激辛のハバネロを顔に受けた男達は、もんどりうって転がり絶叫をあげます。

「いぃっやっはー」

今度はティアナが奇声をあげ、丸椅子、カウンターを踏み台に〝思いで〟の低い天井にぶつかりそうな程高く飛び上がって、ピートを抑えている大男目掛けて体ごと飛んでいきます。

「プランチャーだ」

両手を広げコンドルの如く頭上を飛翔していく姿に、トニオは子供の頃田舎で見た格闘技の興業士達の姿が重なります。ティアナの豊満な肉体は熊のような大男を吹き飛ばし、ついでにボスまで薙ぎ倒します。

「ここはあたしらに任せて、あんた達は先に行きな」

小男と痩せ男の頭を両脇に抱えて振り回しながら、リアナがピートに店を出るよう促します。起き上がったピートの横では、ティアナが大男の背中に乗って、足をとり、蠍のように反り返らせて関節を締め上げています。

ピートは一瞬迷い、すぐリアナの目を見返して強く頷くと、足元の黒服のボスを蹴飛ばして駆け出します。

「おい、俺を置いていくな」

トニオもソファーの裏から這い出し、ピートの背中を追います。

「てめえら、逃がさねぇぞ」

二人の動きに気づいたボスが起き上がったところに、手下達を小脇に抱えたまま飛び上がったリアナが落ちてきます。

「いぃっはぁー」

修羅場と化した〝思いで〟の店内を、皿と食材、そして二人のルチャの闘士が縦横無尽に飛び回り、黒服の男達が自慢のスーツをマスタードとサルサソースまみれにして狭い店内を逃げ回ります。

「はっはー、たぎるねぇ。こんなに楽しいのは久しぶりだよ」

ティアナが投げ飛ばした大男にラリアットを喰らわしたリアナが、大笑いしながらタバスコ混じりの熱い息を吐き出しました。

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