第15話 リリーの憂鬱

午後の日差しの入る四階の窓辺で、リリーは憂鬱な表情で街を見下ろしています。

町外れの丘の上からは街の様子がよく見えます。リリーはこの窓から少しずつ変わっていく街の景色を眺めてきたのです。当然、一年に一度この季節に行われる音楽祭の事についても知っています。坂道の建物の窓に飾られる季節の花の香りと、街中に流れている音楽が、風に乗って四階の窓まで運ばれてきます。

〝あぁ、私が人間になれたら、こんな日は絶対に家にいない。可愛い服を着て街中を飛び回って、美味しい食べ物に舌鼓を打ったり、音楽に乗ってダンスしたりしているだろう。それなのにウチの主人ときたら〟

リリーはため息をつきながら振り返ります。散らかった部屋の中では幽霊みたいに白い顔をしたピートが、そこら中をふらふらと歩き回り、時折ぼけっと突っ立って自虐の言葉を呟いて、ちっともはかどらない荷造りをしているのです。

〝どうせ相手の女に嘘がバレて嫌われたのだろう〟

窓辺から全てを見ていたリリーには、大概の察しがつきます。

〝これだから男ってやつは。バカで単純、その上鈍感〟

自分の事を放って他の女に目移りしていた主人の落ち込む姿を、リリーが胸のすく思いで眺めていると、視線に気づいたピートが何かを思い出したかのようにキッチンへと入っていきます。

〝浮気相手に振られた男の行動なんて簡単に予測がつくわ。元のパートナーに泣きつくのよ。手にいっぱいプレゼントを抱えながら、僕がバカだったとか、君が必要だなんて言うのね〟

リリーの想像通り、ピートはたっぷり入った水差しを持って窓辺にやって来て、からからに乾いた鉢に差し口を傾けながら、リリーの美しい花弁を見つめて語りかけてきます。

「リリー、僕が間違っていたよ」

〝それ見たことか〟

久しぶりの水を細密に枝分かれした根から勢いよく吸い上げながら、リリーは勝ち誇ったようにピートを見上げます。

「僕はただ、あの娘の夢を応援したかっただけなんだ」

〝言い訳がましいわ。その女の前でいい格好をしたかったんでしょ〟

リリーは一言も発せずに、花茎を凛と伸ばしてピートに冷たい視線を向けます。

「だけど、僕は、本当に、余計なことばかりして、彼女を傷つけて…」

〝しょっぱい〟

そこで、リリーは異変に気がつきます。根から吸い上げる水に、わずかばかりの塩分が入っているのです。

心が深く傷ついている人の注ぐ水はしょっぱい、リリーは種だった頃に親株に聞かされた話を思い出します。

〝この人は本当に傷ついているのだろうか〟

葉の上に落ちる悲しい味のする水滴を吸い上げると、リリーも葉脈が縮む気持ちになります。空になった水差しを片付けて荷造りの続きを始める憐れな主人の背中を見て、怒りも渇きも治まったリリーは葉先を組んでため息をつきます。

〝これだから、男ってやつは仕方ない〟

リリーは今一度葉脈中に力を込めると、背を向けているピートの背中越しに茎を伸ばし、部屋の反対側にある物書き机の引き出しを開けて、ベルが書いた手紙を取り出します。そして、出窓の鍵を外して窓を薄く開けると、手紙を入りこむ風に乗せてピートの背中に飛ばします。

手紙は意思を持ったように、部屋の中を舞って、小物を片付けている木箱の中に滑り落ちます。無意識に手紙を拾い上げたピートでしたが、見覚えのある宛名に、それが老人が落としていったベルの手紙だと気付きます。

〝何でここにあるんだ。引き出しにしまったはずなのに〟

ピートは違和感を感じながらも、苦い記憶しかない手紙を机の引き出しにしまい直して荷造りに戻ります。

しかし、どういった事でしょうか。

ピートがリリーに背を向け作業を始めると、またあの手紙が宙を舞って、ピートの前に舞い下りて来たのです。困惑したピートが顔を上げて部屋中を見回し、薄く開いている窓に目が留まった時、ここ数日間に起きた不思議な出来事の断片が思い浮かんできます。

リッテンバーグの手紙を探した事、ベルの返信の手紙がなくなったこと、不思議な夢、聞き覚えのあったハーモニカのメロディ、開いている窓、花が嫉妬したと笑うトニオ。記憶の断片はピートの頭の中をぐるぐる回りながら、パズルのピースのように一つ一つ繋がって、大きな一枚の絵を作り出そうとします。

ピートは繋がらないピースを探すように、手の中の手紙に目を落とし、そして、切手に押されているこの街の郵便局の消印を見た時、最後のパズルのピースがぴたりとはまり、この数日の全ての出来事を理解しました。

それは一枚の手紙から始まったストーリーです。

ピートはその手紙の事を覚えていません。

しかし、ベルは震える指先でしたためた手紙を、注文書や伝票の間に紛れてピートに渡したのでしょう。そして、その文面からベルの心の痛みを汲み取ったリッテンバーグが返信の手紙を送ります。届かない返信の事をベルがピートに尋ねたのは、配達員というだけでなく、一度は自分の心を託した相手だったからなのでしょうか。

「僕はバカだ、郵便屋のくせにこんなことを見逃すなんて」

ピートは顔を上げて、窓辺に佇む美しい花を見つめます。

「ありがとう、リリー。君が教えてくれたんだね。それと、放っておいてごめんよ。やっぱり僕には君が必要だ」

そう言うとピートは跳ね起き、壁にかかる上着を掴んで、鍵も掛けずに玄関の外に飛び出していきます。

〝本当、男っていつまでもバカなのね〟

猛スピードであっという間に見えなくなるピートの自転車を四階の窓から見下ろしながら、リリーはまた呆れ顔でため息をつくのでした。


カランカラン。

ドアについた呼び鈴が揺れて、店の奥でタバコを吹かしていた二人のママが同時に振り向きます。

「なんだ、ジェフ、あんたかい。二日も続けて顔を見せるなんて珍しいね。おまけに、えらく気取った格好じゃないか」

「これから仕事があるんでね」

ジェフと呼ばれた老人は、店内を一目見渡すとカウンターの丸椅子に腰掛けます。

「あぁ、そういや音楽祭だったね。それじゃ、酒は止めとくかい」

リアナがいたずらな笑みを浮かべながら用意したバーボンを棚に戻すのを、老人が急いで止めます。

「おい、嫌みな事するんじゃねぇよ。あんな仕事、しらふでやってられるかよ」

老人はリアナが笑いながらグラスに注いだバーボンを一息に飲み干して、伺うようにリアナの顔を覗き見ます。

「昨日の連中はしょっちゅう来るのか」

「トニオかい、あんたと一緒で来たり来なかったりだね。他の連中は初顔だよ」

「昨日の連中は良かった。荒削りで洗練はないが、素朴で我欲のない純粋な音楽だった」

「あんたが人を褒めるなんて珍しいね。とっくに音楽に興味をなくしたと思っていたよ」

老人は掲げたグラスの先の壁に張ってある一枚の色褪せた写真を見つめます。写真にはタイトなドレスを着た二人の美女と、豊かな髪を後ろに撫で付けた男がグランドピアノの前でポーズを決めている姿が写っています。三人の会話は止まり、リアナが食器を棚に戻す音だけが響きます。しばらくの静寂が流れ、老人のグラスに次の一杯を注ごうとしたリアナを老人が目で制止します。

「迎えが着いちまった」

そう言って、老人がポケットから引き出したしわくちゃのお札をカウンターに置いた時、踵を打ちつける硬い足音が階段を下りてきます。

「相変わらず耳がいいね」

「一応、商売道具だからな」

カウンター越しに笑い合う三人の前で、原色の覗き窓のついた扉が開いて、ぴったりしたスーツを着こんだ三角メガネの女性が現れます。

「やはりここでしたか」

三角メガネの女史は足早にカウンターまでやって来ると、眼鏡の奥の表情を一ミリも動かさずに老人の名を呼びます。

「時間がありません。リッテンバーグ先生。さぁ、急いでください」


祭りの熱気に包まれた通りを、トニオが苦虫を噛み潰したような顔をして歩いています。

仲間達とバカ騒ぎする気にもなれず、かといって、アパートに戻って荷造りするピートと鉢合わせした時の気まずさを考えると、家にも足が向きません。結局、出店で仕入れたライム酒のボトルをちびちび空けながら、浮かれた人混みの中をふらりふらりと足の向くままに歩いています。

「畜生、ピートのやつめ。俺がどんだけ骨を折ってやったのかも知らないで」

この数日、トニオはトニオなりにピートの為を思って行動していたつもりでした。夜中にベルを噴水に呼び出したり、練習に必要な店を探したり、変装までして音楽堂に忍び込んだのも、結果はどうあれ、あの日自分を助けてくれたピートの友情に応えようとしてのことでした。

しかし、口論の中とはいえ、当のピートにそれを否定されてしまったのです。常に頭の中に陽気な曲が流れているようなトニオであっても、気持ちが落ち込むことが数年に一度あります。

「ピートめ、街を出るだと。ショボくれて田舎に帰るつもりかよ。ふん、いっちまえ、いっちまえ。俺はちっとも寂しかないぞ。んっ、おぉっ」

通りの真ん中で立ち止まり奇声を上げているトニオに通行人の肩があたります。

「おい、あんた、前見て歩け」

「何言ってやがる。お前こそ、気をつけろ」

トニオとぶつかった相手は文句を言い合いながら、互いの顔に見覚えがあることに気がつきます。

「お、なんだ、お前さんか」

「ん、昨日〝思いで〟にいたじいさんじゃねぇか」

衝突の相手は〝思いで〟から連れ出されたばかりのリッテンバーグです。目の前の相手が大作曲家だと知らないトニオは、リッテンバーグの仕立ての良い服を不思議に思います。

「どうしちまったんだ、似合わねぇスーツなんか着て。葬儀屋みたいだぜ」

「仕事に決まってんだろ。まぁ、葬式みてぇに辛気くさいやつだがな」

どうやらこの二人、思考も嗜好もぴたりと一致するようで、あっという間に旧知の友人のように軽口を飛ばし合います。

「憐れだねぇ。仕事なんて辞めちまえよ、今日は祭りだぜ。俺の田舎じゃ、こんな日に働くバカはいないぜ。そうだ、ちょうどいい、〝思いで〟がすぐそこだ。じいさん、一杯引っ掛けて行こうぜ」

「はっはー、そいつは気が利くじゃねぇか、お前さん。ん、トニオだったか」

トニオに便乗して来た道を戻ろうとするリッテンバーグの襟袖を、三角メガネの女史ががっしりと掴みます。

「先生、時間がありません。車にお乗りください」

「なんだよ、お目付け役がいるのかよ」

三角メガネから敵意と嫌悪感剥き出しの目線を向けられたトニオに、リッテンバーグが肩をすくめて目配せを返します。

「そういうこった。またの機会にな。昨日の連中にもよろしく言っといてくれ」

昨日の連中にベルとピートが含まれている事にトニオの心がざわめきます。トニオはリッテンバーグに感づかれるのを嫌って、背を向けると肩越しに手を振ります。

「あぁ、またそのうちにな。ピートとベルにも伝えとくぜ」

〝もう会わないだろうけどな〟

トニオが心の中でそう呟きながら立ち去ろうとした時、急にリッテンバーグが腕を握ります。振り返ったトニオの顔をリッテンバーグが怖いくらい真剣な目で見ています。

「はっはっは、そうかそうか、こいつはうっかりしてたぜ。昨日の嬢ちゃんはベルか、ベル・グラントか」

一転、顔中のシワを緩ませて笑い出すリッテンバーグを、状況の分からないトニオが怪訝な顔で見ます。

「なるほど、それでお前がトニオ、あのしょぼくれた茄子みてぇなのがピートってわけだ」

どうやら目の前の老人は自分達を知っているようなのですが、トニオには老人の素性に覚えがありません。一頻り笑い終わった老人は、ニタリとした笑みを残しながら、高い位置にあるトニオの肩を掴んで、自分の顔の高さまで引き寄せ耳打ちします。

「おい、トニオ。昨日の連中を連れて俺ん所に来い。今日の3時までにだ」

「ちょっと、先生。何を考えてるんですか」

「うるせぇ、てめえは黙ってろぃ」

悪い予感のしたメガネ女史がすかさず止めに入りますが、リッテンバーグは割り込む女史を押し退けて言葉を続けます。

「この街の連中に本当の音楽ってやつを聞かせてやるんだ。とにかくベルを連れて音楽堂に来い」

「おいおい、葬儀屋の仕事にベルを呼んでどうすんだよ。念仏でも唱えさせるのか」

「ええぃ、分かんねぇ野郎だな。俺が、ほげっ」

理解の追いつかないトニオに説明しようとするリッテンバーグの顎に、メガネ女史の腕が回って喉を締め上げます。

「先生、時間です。いきますよ」

突然の荒技に呆気にとられるトニオの前で、鬼のような形相のメガネ女史はリッテンバーグの体を吊り上げ、通りに寄せてある黒塗りの車まで運ぶと、慌てて車から出てきた部下の男が開けた後部座席に押し込みます。

「何突っ立ってんの、とっとと車を出しなさい」

「は、はい」

ポカンとしているトニオに土煙を上げて去っていく黒塗りの車の窓から、リッテンバーグが身を乗り出して叫びます。

「3時までだぞ。絶対連れて来いよ」

「なんだよ、ありゃ。意味が分からねぇ」

鋭い音を立てて交差点を曲がっていく車を一つも納得いかない顔で見送り、ライム酒のボトルに口をつけたトニオは、ボトルに酒が残っていないことに気づきます。

〝そういや、思いでが近いな〟

先の会話からその事だけを思い出したトニオは、リッテンバーグの言葉など空のビンと一緒に道端に放り投げて、〝思いで〟のある路地へと足を向けました。

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