第14話 跳ね橋の上
一時間前の話です。
リリーは四階の窓辺で困惑していました。
昨日の夜、遅くに帰ってきた主人は、自分への挨拶も水やりも忘れて部屋中の棚をひっくり返していました。そして、その後部屋に侵入してきた破廉恥な輩と喧々諤々の議論を交わして、二人とも疲れきって床の上で寝入ってしまっています。
昨日が非番であれば、今日は出勤日のはずです。しかし、当の主人は朝日が射し込んでも起きる気配はなく、始業時間を告げる9時の鐘が鳴っても、床の上で死んだように転がったままです。
生真面目で、どんなに体調が悪くても仕事を休む事などなかった主人が、このところ妙な連中とつるんで、飲んで、騒いで、おまけに仕事を無断欠勤しようとしている。
〝これは少々お灸を据えてやらねばならない〟
リリーは全身の力を込めて重たい陶器の鉢から放射状に伸びている葉先を丸めると、一気に解き放って、部屋の対角線上にあるキッチンまで葉を伸ばします。そして、綺麗に整理されたキッチンから壁にかかっているフライパンとお玉を葉先で掬いとり、床に転がっているピートとトニオの耳元に持っていくと、一呼吸置いた後、けたたましい音で打ちならします。
ガンガン、ガンガン。
「うわぁ」
「何だ、何が起きた」
たまらず飛び起きた二人の寝ぼけ顔に向かって、リリーは葉をテニスのラケットのように振り回して、鉢の横に置いてある目覚まし時計を打ち飛ばします。
「いってぇっ」
目覚まし時計は綺麗な放物線を描いてトニオの頭に命中し、跳ね返ってピートの手の中にすっぽりと収まります。
「こらぁ、ピート。てめえ、どういう起こしかたをしやがる」
「ぼ、僕は何もしてないぞ」
「何を。この部屋に俺とお前以外誰がいるってんだ」
そう言われて不思議に思ったピートは部屋を見回しますが、何も変わらない見慣れた部屋の景色に首を捻りながら、手にした時計に目を落とします。
「おい、トニオ、それどころじゃないぞ。時計を見ろ。もう昼前じゃないか」
「何だって、もうそんな時間かよ」
ピートの手の中の時計を見て、トニオも声が上擦ります。
「あぁ、ヤバい、いよいよヤバいぞ」
「慌てるな、まだ間に合う。こうなりゃ昨日話した作戦通りにやるぞ」
トニオはパニックになるピートの肩を揺さぶって強引に立ち上がらせると、玄関に向かって駆け出します。ピートも床に落ちている上着に袖を通しながら、トニオの後ろに続いて走り出しますが、急に立ち止まってトニオに尋ねます。
「それで、どんな作戦だっけ」
「何ぃ、お前、覚えてないのかぁ」
トニオが振り返ってピートに文句を言ったあと、天井を見上げながら呟きます。
「どうするんだ。俺も覚えてないんだぞ」
玄関で立ち尽くす二人。
〝覚えているはずがない。何も決まっていないのだから〟
昨晩の出来事を一部始終見ていたリリーは呆れ返ります。
昨夜、確かに二人は明け方まで、どうやってベルとリッテンバーグを会わせないようにするかについての議論を交わしていました。しかし、すぐにパニックを起こすピートと、話を脱線させるトニオの事です。議論は一向に煮詰まらず、挙げ句の果ては二人で酒を飲みはじめ、そのまま正体なく寝てしまったのです。
〝もし私が人間に生まれ変わっても、あの二人と付き合うのだけは止めよう〟
玄関の扉の前で互いの顔を見つめて立ち止まっている間抜けな二人を、リリーは窓辺の定位置から眺めながら、今日も水を貰えないことを覚悟しました。
「はっはー、俺の言った通りだろ。簡単に忍び込めたじゃないか」
それから一時間後、ピートはゲストルームのふかふかの絨毯の上で、安っぽいスーツに身を包んだトニオの膨らんだ鼻の穴を見ていました。
「バカ、お前は声が大きいんだよ。誰かに聞かれたら摘まみ出されるぞ」
はしゃぐトニオを諌めるピートも、黒いスーツに黒縁の眼鏡をかけ、まったく似合わない付け髭までつけています。
「バレるもんか、俺の演技は俳優並みだ。どこから見たって音楽祭の関係者に見えるだろ」
トニオは胸ポケットから取り出した色眼鏡をかけて、斜め45度の目線でピートの前でポーズをとります。
「問題はお前の方だ、ピート。焦ってベルの前でしっぽを出すなよ」
トニオは心配そうな顔をしているピートの付け髭を引っ張ってからかいます。
〝あぁ、一体、僕はこんな所で何をしているんだろう〟
絡みつくトニオの手を払いのけながら、ピートは自分の置かれている状況を悔やみます。あの後、何の解決案も持たずに部屋を飛び出した二人が、リッテンバーグのいるであろう音楽堂に向かう道中で考え出した案は、コンテストの関係者の振りをしてベルを追い返すという子供でも思いつくような幼稚なものでした。
ピートは猛反対したものの、他に有効な手も思いつかずに、結局トニオに引きずられる形で、トニオの知り合いの劇団員から変装用の衣装を借りて、関係者になりすまし、この部屋でベルが来るのを待っていたのです。
「お、見ろよ。年代物のコニャックがあるぜ」
「止めろ、トニオ。勝手に棚を開けるな」
仕事を無断で休み、他人になりすまして音楽堂に忍び込み、さらに、またベルに嘘をつこうとしている。罪悪感で押し潰されそうなピートに比べ、そんなものどこ吹く風のトニオは滅多に味わえないスリルに子供のようにはしゃいで、ゲストルームの調度品を物珍しそうに物色しています。
「そんな事より廊下にいなくていいのか。こうしてる間にもベルが来ちゃうかもしれないぞ」
「一般客の入場は正午からさ。ベルが来るのもその後だ」
トニオがスーツのポケットから、どこから持ってきたのか、音楽祭のプログラムを取り出して、ピートの顔の前に突き出します。
〝こんな所だけ妙に気がつく奴だな〟
ピートはトニオの機転に一瞬感心しますが、すぐに不安が振り返して、豪華な調度品の間をうろうろと歩き回ります。
「なあ、やっぱり止めよう。関係者の振りをしてベルを追い返すなんて、上手くいきっこないよ」
「そんなに心配すんなよ。何しろこのトニオ様がついているんだから、お前は後ろで黙って突っ立ってりゃいいんだ」
「でも、またベルに嘘をつくことになる」
すっかりしょげかえっているピートを見て、トニオが肩に手をおいて、優しく励まします。
「なぁ、ピート。俺たちはあの娘のためにやってるんだ。嘘をつくなら、最後までつきとおすのが優しさだ。今さら手紙を書いたのが実はお前だなんて知る方か辛いだろ」
顔を上げたピートが、ウィンクするトニオの肩越しに、開けっ放しの扉の向こうで呆然と立っているベルを見たのはその時でした。
ベルは。
ベルは開いた扉の前でまばたき一つできずに立ち尽くしていました。
友達だと思っていた二人が自分を騙すために滑稽な変装までしている現実から、目を背けることもできないまま。信じていた奇跡が嘘で作られたものであった事実を聞かされても、耳を塞ぐこともできないまま。心の奥で膨らみはじめたバラの蕾のような情熱が、瞬時に腐り落ちていくのを感じながら。
リースを入れたバッグが小刻みに震える肩から滑り落ちて、ピートが氷ついた表情で名を呼んだ瞬間、ベルは弾かれたように残酷な冷たい深紅のカーペットの上を駆け出します。
大声で非難したり、泣き叫んで悲しみの感情をぶつける事が出来たら、心に芽生えた情熱の欠片も残せたかもしれません。でも、ベルはそれをする事ができませんでした。
逃げたい。今いる場所から。残酷な現実から。弱すぎる自分から。
ベルは、ただ、ただ走って。
溢れ出た涙の粒が足跡のように、赤いカーペットに、石畳の上に、水玉の跡を作って消えていきます。気がついた時には、フローリスト・ベルの二階の自分の部屋にいました。音楽堂から家までの記憶は途切れ途切れで、どうやって帰って来たのかは思い出せません。
開きかけの窓からは心地よい日差しが入り、公園のナラの木は微笑みかけるように、ベッドの上に木立の影を落とします。ベルはすっかり暖かくなったベッドに倒れこむように身を投げ出すと、そのまま力尽き、寝入ってしまいました。
「やい、こら、ピート。いい加減にてめえで歩きやがれ」
音楽堂へと続く跳ね橋の上でトニオが悪態をついて、抱えていたピートの体を橋桁の上に投げ出します。音楽堂のゲストルームから跳ね橋まで、腑抜けになってしまったピートを引きずってきたトニオの体力はとうに底をついていました。
支えをなくしたピートは、ベルが落としていったリースの入った麻地のバッグを抱えたまま、糸の切れた操り人形のように座り込みます。
「あぁ、あ」
ピートの喉から嗚咽とも、ため息ともとれる音が漏れます。頭に血が上がったトニオも、しょげかえるピートを見て怒りの矛先を見失います。
正午を回った跳ね橋は、コンテストのステージを見るために音楽堂に向かう人で溢れています。運河の橋の欄干にもたれかかって座り込んでいるピートと、途方にくれた様子で見下ろすトニオの陰鬱な空気を避けるように人の波が通り過ぎていきます。
「いつまでもそんな所に座ってたら、ケツが冷えちまうぜ」
投げかけられる視線に耐えかねたトニオは、水のもらえない朝顔みたいに欄干にしなだれかかっているピートの手を引いて起こそうとします。
トニオがピートの腕を吊り上げると、肩にかかっていた麻地のバッグの肩紐が下がって、フローリスト・ベルのロゴの入った包装箱が転がり落ちます。紙箱は硬い橋桁に角をぶつけて、形を変えながら跳ね上がり、ベルの作ったリースが飛びだします。
箱から飛び出したリースは、欄干の間をすり抜けて、まるでそれがリースの意思のように、傷ついたベルの心を宿したかのように、その身を砕いて空中に花びらを散らしながら運河へと落ちていきます。
「あぁ」
何をしても無反応だったピートがトニオを押し退けて、欄干から身を乗り出して手を伸ばしますが、ピートの手は宙を掻くだけで花びら一枚掴めません。黄色とオレンジの花を編み込んだリースは、瞬間、水面に水しぶきの王冠を描いて、緑色の濁った運河に沈んでいきます。
「危ねぇ、危ねぇって」
欄干を乗り越えようとするピートの腰をトニオが必死で掴みます。
水しぶきが落ちきった川面には、跳ね橋の大きな影と、二人の男の間の抜けた顔が写っています。まばたき一つせずに水面を見つめるピートの横顔を横目で見ながら、トニオが頭をフル回転させてかける言葉を探します。
「あ、あー、まぁ、これで荷物が減ったな。歩きやすくなったろ。さぁ、飲みに行こうぜ」
これでも最大限に気を配ったつもりのトニオがピートの肩に手をまわすと、手首を痛いくらいに強く掴んでピートが振り返ります。
「トニオ、お前ってやつは」
〝しまった。やべぇ〟
真正面から睨みつけてくるピートの瞳の奥に、トニオは恐ろしい怒りの炎を見ます。
「お前は、いつも、そうやって、何もかもめちゃくちゃにして」
力加減の出来なくなったピートに掴まれた右手に、ペンチで押さえつけてるかのような痛みが走ります。
「お前と会ってから、手紙はヤギに食われる、借金取りに追われる、僕の生活はめちゃくちゃになった」
「んな事大したこっちゃねぇ。退屈なお前の人生にスパイスを足してやったんだ。感謝はされても、文句を言われる筋合いはねぇぞ」
至近距離から怒りをぶつけるピートに、トニオは顔を背けながらも言葉を返してしまいます。
「誰がそんなこと頼んだ。僕は今までの生活で十分だったんだ。面倒ばかり持ち込んで、こんなことになるなら、あの時、お前の事なんて助けなければ…」
売り言葉に買い言葉。ピートだって、そんなことは思っていなかったはずです。
しかし、その言葉は毛の生えたトニオの心臓にもぐさりと刺さりました。
「そうかよ。俺だってお前に助けてくれなんて頼んだ覚えはないぜ。そもそもこんなことになったのも、お前が偽の手紙なんか書いたからじゃねぇか」
次の瞬間、ピートがトニオの腕を引き寄せ、トニオの目の前にピートの拳が迫ります。
〝殴られる〟
トニオは目をつむって、長い体を縮ませます。
「お願い、顔はなぐるな。でも、どうしてもっていうなら、グーじゃなくてパーでやって」
いかにも男らしい悲鳴を上げて防御の姿勢をとるトニオでしたが、いくら待っても拳は飛んで来ず、いつの間にか掴まれた腕も自由になっています。トニオが恐る恐る目を開けると、ピートはとっくにトニオから離れて、麻地のバッグを肩から下ろして橋桁の上に広げています。
「そうだな。まったくお前の言う通りだよ」
年老いた農夫のようなゆっくりした動きで中身のないフローリスト・ベルの紙箱を拾い上げたピートは、それを麻地のバッグに詰めると音楽堂に向かう人波と反対に歩き出します。
「じゃあな、トニオ。僕は街を出る。ベルに合わせる顔がないし、取立て屋にも追われてるしな」
人波の中に消えていくピートの背中を見送ってから、一人残されたトニオはリースの消えていった深緑の運河を覗きこんで呟きます。
「畜生、何処へでも行けってんだ。目のないサイコロめ」
橋の上に流れる人波からは明るい笑い声が聞こえ、音楽堂からはリハーサルらしき音合わせの演奏が聞こえます。トニオはしばらくの間水面に写った自分の間抜け顔を見つめて、その後、ピートの消えていった駅の方向へと歩き始めました。
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