第13話 音楽堂へ

音楽祭の朝が来ました。

いつも寝ぼすけなこの街の人々も、この日に限っては朝日とともに動きだして、飾り付けの確認や、料理の仕込み、パレードの準備に追われる声が街のあちこちから聞こえます。

この街の人達にとって、音楽祭はクリスマスやハロウィンよりも特別な日です。通りには提灯や万国旗が垂れ下がり、広場には土産物や様々な料理の露店が立ち並び、花壇には色とりどりの花達が明るい笑顔で、遠くの街や村から音楽祭を楽しみにやってくる見物客を歓迎します。

フローリスト・ベルでは、いつもより2時間早い目覚ましの音で起きたグラント氏が、注文を受けているたくさんの花束や花籠、リースの制作にあたりながら、隣にいる娘の上の空の横顔を訝しげに見ています。

「ベル」

作業台で今しがた花籠を作り上げたグラント氏が、すっかり仕事の手が止まってしまっている娘の名を呼びます。

「何、お父さん」

夢から覚めたように大きな瞳をさらに大きくして見返す娘に、グラント氏が目線で花籠ができた事を知らせます。

「あ、今、新しい籠を出すね」

〝いつもなら何も言わなくても次の籠が用意してあり、すぐに出来上がった花籠の発送に取り掛かっているはずなのに。今日の娘はいつもと違う。どこか上の空だ〟

グラント氏は花籠が入っている棚の前で再び立ち止まっているベルの背中を眺めて、口髭に手をあて首を傾げます。

〝そう言えば、昨晩もずいぶん遅くに帰ってきては、夜通し起きていた気がする〟

いつもなら朝のうちに終わる制作と梱包の作業も、大量の注文とベルの不調で、今日は開店時間を大幅に過ぎてしまいます。朝の仕事を一段落終えたグラント氏が、カウンターに座ってお気に入りの素焼きのカップでコーヒーを飲んでいるところへベルがやって来て、左右に身をくねらせながらグラント氏の顔を見つめます。

〝この娘は願い事がある時は、いつもこの仕草をする〟

子供の頃から変わらない娘の癖を心の中でおかしく思いながら、グラント氏はわざと涼しい顔で素焼きのカップを口に運んだ後、おもむろに口を開きます。

「何か頼み事があるんだろう」

「あのね、お父さん。ちょっと出掛けてきていいかしら」

年に一度の掻き入れ時で、店が忙しい事が分からない娘ではありません。

〝それでも、出掛けなければいけない理由があるのだろう〟

普段から聞き分けが良すぎると思っている娘からの頼み事です。はなから引き留めるつもりのないグラント氏でしたが、娘が行き先を告げない事が心に引っ掛かり、すぐには言葉を返さずにカウンターの上のカップに手を伸ばします。

濃いめに入れた深い香りのコーヒーの湯気の向こうに、母から受け継いだ大きな鳶色の瞳が揺れます。

〝やれやれ、一体誰に会いに行くのか〟

グラント氏はゆっくりとした動作で素焼きのカップを元の位置に戻すと、わざと興味なさそうな口調で言います。

「行ってきなさい」

「ありがとう。お昼過ぎには戻るから」

許しの言葉を貰ったベルは、春を待ち焦がれていた花のつぼみが一気に開いたような明るい顔になると、手早く外したエプロンをカウンターの椅子に掛けて、二階の自室へと駆け上がります。ほどなくして、リースを入れるのに使うバックを抱えて勢いよく階段を下りてきたベルは、足早にカウンターの脇を抜け、明るい外光が入り込む戸口に向かいます。

「それじゃ、行ってくるね」

いつの間にかよそ行きのノースリーブのワンピースに着替えたベルが日差しの下に飛び出して行くのを見送ったグラント氏は、いつも側にいたはずの娘が急に別の知らない女性に見えた気がして、長いため息を漏らした後、カップに残ったコーヒーを喉に流し入れました。


ベルは麻地の大きめのバックを肩に掛けて、路地を抜け、噴水広場までやって来ます。噴水広場に組まれた特設ステージでは、すでに何組かのグループが演奏を始めています。

音楽祭では街の各所にステージが組まれて、クラシック、ジャズ、カントリー、民族舞踊など様々なジャンルの演奏が行われています。ステージの周りの出店からは、焼きたてのパンのふんわりとした蒸気や、肉の焼ける香ばしい香りが漂ってきます。

ベルは大勢の人でごった返す広場を通り抜け、大通りに出ると、通りの真ん中にある路面電車の停留所へと向かいます。路面電車の線路は大通りに沿って街を縦断するように南北に伸びていて、ピートのアパートのある山側から、街の中心部を通って、海に面した港湾部まで伸びています。

ベルが停留所の電車の待ちの列の最後に並ぶと、丁度良いタイミングでマッチ箱のように四角い二両編成の電車が建物の間から現れ、通りのなだらかなカーブに沿って、ガタゴト音を立てながら線路の上をやってきます。

通勤時間を過ぎた午前のこの時間は、普段ならば電車は混雑しないのですが、今日に限っては車両はすし詰め状態で、扉が開くと同時に降車の乗客達が押し出されるように降りてきます。降車の客のほとんどは広場のステージに向かう見物客で、パーティードレスを着た人、昔話の怪物に仮装をした人、聞いたことのない言葉を話す外国からの観光客の姿もあります。

ベルは降車の客が去って空っぽになった車両に乗り込み、二両目の車両の後方まで進むと、肩に掛けていた麻地のバックを膝上に置き換え窓側の席に座ります。乗客の全員が座席に座ったのを確認して、車掌が天井から垂れている紐を引き発車の警笛を鳴らすと、路面電車がゆっくりと動きだします。

ベルは膝の上のバックの中に入っている、見馴れたフローリスト・ベルのロゴの入ったストライプの包装箱を覗きこんでから、窓の外の景色に目を移します。

〝昨晩、作ったリースは自分でも納得のいく出来映えだった。リッテンバーグさんは喜んでくれるだろうか〟

沿道の建物からは色とりどりの旗や祝いの言葉を記した垂れ幕が、一定の間隔で通りを渡って掛けられています。産まれ育った街の浮かれた姿を車窓に眺めながら、ベルはこれから自分に起こる事を考えます。

〝リッテンバーグ氏は一度手紙を返信しただけの自分の事を覚えているだろうか。コンテストの打ち合わせで忙しく、話しもできないのではないか。そもそも約束もしていない相手とは会ってくれないのではないか〟

ベルの不安は停留所を一つ越える毎に大きくなっていきますが、列車はスピードを緩める事なく、港湾部にある終点の駅に着いてしまいます。

〝このまま折り返しの列車で家に帰った方がいいんじゃないだろうか〟

他の乗客が降車していく中で、俯いたまま座席から立ち上がれずにいたベルでしたが、車両の先頭から車掌が車内の確認にやってくる足音に顔を上げ、追いたてられるように列車を降ります。

白い塗料の禿げた駅名表に、ベンチ、トタン屋根を着けただけの簡素な駅に降りると、潮の香りを含んだ生温い風がベルの頬にあたります。赤いレンガと、錆び止めの赤い塗料を塗られた鉄骨で出来ている無愛想な倉庫が立ち並ぶ先に、貨物船の止まっている波止場があり、桟橋に寄せた船から人夫達が大きな荷物を運び出しているのが見えます。

蟻のように列をなして働く人夫達を右手に見ながら、赤い倉庫の間を波止場と平行に進むと、倉庫列の切れた所で運河にあたります。川幅の大きな運河には跳ね橋が掛けられ、対岸には複数の塔に半円状の屋根を備えた、この街には不釣り合いな程豪華な建物がそびえ立っています。

先々代の市長がこの街を音楽の街として内外に売り出すために建造し、現在は街のモニュメントになっている音楽堂です。国政の重鎮や外賓をもてなす催事に使用され、音楽祭の日にはコンテストの会場になります。

ベルはまだ疎らな人の波にしたがって跳ね橋を渡り、音楽堂の正面扉の階段下までやってきます。一角獣のレリーフの施された観音開きの大きな正面扉は閉ざされていて、手前には鎖で繋がれたポールが並んでいます。開演時間までは正面扉は開かれないのです。音楽堂へ何度も配達に来ているベルはその辺りの事はよく知っていて、正面入り口を通り過ぎて建物の側面にある通用口へと向かいます。

通用口にはスーツ姿の男性や、台車を押している配達員、大工用具の箱を抱えた作業着姿の人達が、浮かれた街の風景とは対称的に、陰鬱な表情で受付に列を作っています。受付では年配の警備員と見られる男性がのんびりした動作で入館の確認を行っています。

「はい、何の目的で来たの。あ、はい、それで何階に行くの。何の目的で、え、さっき聞いたっけ。じゃあ、ここに名前を書いて。違う違う、そこじゃないよ」

受付待ちに並んでいる人達は皆、列が進まないことに苛立っているようで、時計をチラチラ眺めたり、わざと聞こえるように悪態をついたりしていますが、この年配の警備員は一向に気にする気配はなくマイペースに自分の仕事をしています。

〝そう言えば、ここの受付はいつもこんな感じだった〟

ベルは列に並んで自分の番が来るのを待ちながら、以前に配達に来た時の事を思い出して、今日の自分は花屋ではなく一般の来場者であることを思い出します。

〝いつもの癖で通用口に来てしまったけど、果たして良かったのだろうか。私は仕事で来ているわけではないのだから〟

不安で頭をいっぱいにしているベルの背中を後ろに並んでいる人が指でつつきます。気がつくとベルの前の列はもうすでに入館の手続きを終え、通用口の奥へと姿を消しています。ベルが慌てて受付の前に進むと、老警備員が開いてるのか閉じているのか分からない目を向けて、型通りの質問をします。

「はい、何の目的で来たの」

「あ、えっと、花を届けに」

反射的にそう答えてから、ベルは失敗したと思います。

「花の配達ね。それじゃ、そこに店の名前を書いて」

いつもの言葉が口から出てしまったとはいえ、これでは嘘をついているようなものです。ベルは伝え直した方が良いのではないかと思いながらも、警備員に促され、入館者の署名欄にフローリスト・ベルの屋号を書いてしまいます。

「はい、フローリスト・ベルさんね。何階に行くの」

「コンテストの招待客の控え室に」

「三階ね。そこに書いて」

ベルは何となく悪い事をしている気がして、慌てて行き先を記入します。年配の警備員は興味なさそうにそれを一瞥すると、受付待ちの列を向いて、次の入館者に手招きします。手のひらに汗をかきながら急ぎ足で立ち去ろうとするベルの背中に、警備員の鋭い声がかかります。

「ちょっと。あんた」

ベルは、それはもう心臓が止まるかというくらいに驚いて、顔を凍らせて振り返ります。

「控え室への階段はあっち」

「あ、あ、ありがとう」

ベルは調子のずれた声で返事をすると、警備員が指差した先の通路へ逃げるように駆け込みます。

〝もしかしたら、私は今すごく悪い事をしているのではないか〟

階段へと続く誰もいない静まり返った廊下を歩いていると、激しく脈を打っている心臓の音まで聞こえる気がします。

〝最近の私はどうかしている。まるで別人だ。以前の私なら受付を見て何もできずに立ち去るか、駅で折り返しの電車に座っていただろう〟

磨きのかかった手触りの良い手すりに従って階段を上がっていくうちに、ベルは自分の中で何かが変化している事に興奮を覚えます。誰ともすれ違わないまま階段を上がりきり、三階の廊下に出ると、赤いカーペットの敷かれた長い廊下の奥から人の話す声が聞こえてきます。

ベルは配達に来た時の記憶を思い起こしながら、招待客の控え室のある廊下の奥へと足を進めます。廊下の両側に並んでいる部屋の扉は所々開け放たれていて、部屋の中ではエプロン姿の清掃員や、ベルと同業の花の業者と見られる人達が、いそいそと動き回ってゲストを迎える準備に追われています。

ベルが廊下を進みながら、各部屋に掛けられている招待客の名札を盗み見てリッテンバーグの名を探していると、廊下がL字に曲がる角の先から話し声と足音が近づいてきます。

「まだ先生と連絡が取れないの。昼過ぎにはステージが始まるのよ」

「それが、昨日からホテルの部屋にも戻られていないようで」

「フン、また飲み歩いて、どこぞの酒屋で潰れているのでしょう」

コンテストの関係者らしき男女の話し声は、赤いカーペットに踵を打ちつけるように足早に歩きながら、角を曲がってベルの方へ向かってきます。ぴったりとしたスーツに三角メガネを掛けた女性の冷たい口調に聞き覚えがあります。オーディションの審査会場で娘達の番号を読み上げていたあの声です。

オーディションの記憶が甦り、ベルは視線を床に落として体を硬直させます。

「この忙しい時にまったく迷惑ね。あの人の寄りそうな店なら心当たりがあるわ。急いで車を用意しなさい」

三角メガネの女性はベルの事など目にも入らない様子で、耳障りな声で指示を出しながら通り過ぎて行きます。カツカツと高い足音が階段の下へと消えてなくなってから、ベルはようやく息を吐きます。

〝そうよね。私の事なんて覚えているわけないよね〟

先程までの高揚がすっかり冷めてしまったベルは、急に重たくなってしまった肩かけのバックの中を覗きます。

〝でも、ここまで来てしまった。花を渡すくらいはしたいよ〟

急に自分がつまらない人間に見えてしまったベルでしたが、それでも気持ちを奮い立たせて、麻地のバックをかけ直すともう一度カーペットの上を歩き始めます。

二人組が出て来た角を曲がると、廊下の突き当たりに両開きの大扉が見えてきます。音楽堂で一番立派な特別招待客用の部屋です。国賓などが使用するこの部屋には、四つの部屋にバスルームがついており、各部屋には美しい調度品が並んで、床も棚にも埃一つ見つからない程に清掃されています。以前に花の飾り付けで入ったことのあるベルは、その豪華さに圧倒された覚えがあります。

ベルは前室に入って、扉の横のレリーフの施された木枠に張り出された招待客の名を確認します。美しい目地の紙の上には鮮やかな黒のインクでリッテンバーグの名が示してあります。

〝来てしまった。この中にリッテンバーグさんがいる〟

ベルは一度目を閉じ、長い息を吐き出すと、厚く塗られたニスが光沢を放っている漆黒の扉の前に手を掲げます。

「はっはー、俺の言った通りだろ。簡単に忍び込めたじゃないか」

扉をノックするためベルが手を握った、まさにその時、およそこの場に相応しくない軽薄な、聞き覚えのある、いや聞き間違えようのない声が聞こえてきます。

「バカ、お前は声が大きいんだよ。誰かに聞かれたら摘まみ出されるぞ」

もう一つ聞き覚えのあるはっきりした声が、前室の一つ前の部屋の開けっぱなしの扉から流れてきます。ベルは思わず、そのままの姿勢で数歩後退りして、扉の間から部屋の中を覗きこんでしまいました。

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