第12話 作戦会議

「お父さん、もう寝ちゃったかしら」

公園のナラの木の下から覗くフローリスト・ベルは窓に明かりもなく、ひっそりと夜の戸張の中に佇んでいます。

「ああ、うん」

フローリスト・ベルまでの道のりはピートにはずっと短く感じられ、胸の奥では見たことのない生物みたいな感情がむずむずと動き回って、口下手なピートの口をさらに重くします。ベルは心を落ち着けるように、毛先にカールのかかった髪を撫でつけると、両手を後ろに組んで、ピートの方を振り向いてはにかみながら微笑みます。

「送ってくれてありがとう。私、今日の事は一生忘れないと思うわ。ピートのおかげよ」

「いや、僕は…」

「それでね、私ね」

ベルは何か言いたげに視線を落として、体を揺らします。ピートは、先の取り立て屋の登場で中途半端になっていた話に続きがあったことを思い出します。

「ピート、今日の私って変よね。こんな気持ちになった事がなくて」

ベルの頬が先ほどより赤くなっているのは、お酒のせいではないのでしょう。

「でもね、どうしても伝えたい気持ちがあるの」

昔読んだ小説の中に書いてあったのか、いつか見た映画の台詞なのか。どこかで聞いた事のあるような言葉に次の展開を予想して、一滴も飲んでいないピートの顔はベルよりも赤くなります。

〝もしかしたら、ベルも僕と同じに…〟

ベルの美しい鳶色の瞳がピートを真正面から捉え、薄い紅色の唇が動きます。

「リッテンバーグさんに」

「どぅっ」

頭のてっぺんに巨大なハンマーを振り下ろされたような衝撃に、ピートは膝から崩れ落ちます。

「だって、そうでしょ。私が歌を好きになれたのも、夢に向かって頑張ろうと思えたのも、全部リッテンバーグさんのおかげなんだもの」

一瞬でも恋愛小説のハッピーエンドのような展開を想像してしまったピートの心は、今一番聞きたくない名前の登場によって粉々に粉砕され、熱に浮かされたように話し続けるベルの言葉は耳に入ってきません。

「絶対にお礼を言わなきゃいけないわ。あぁ、でも、こんなに一方的に自分の話しばかりしても迷惑よね。まだ、お手紙のお返事もいただいてないのに。ねぇ、きっとそうよね、ピート」

ベルは脱け殻のようになっているピートの肩をゆすりながら一方的にまくし立てます。

「あぁ、うぅ」

ピートの喉から空気が抜けて、返事なのか、うめき声なのか分からない音が洩れます。

「あぁ、でも、伝えたいのよ。感謝の気持ちを。直接、お会いして」

「あ、あぁ、ええっ」

ベルの言葉の端にさらに恐ろしい言葉を聞いたピートの脳は、冷や水をかけられた上に冷凍室に放り込まれたかのように一気に冷えて固まります。

「お会いするって、会うって、リッテンバーグにぃ」

「ええ、そうよ。明日の音楽祭にリッテンバーグさんが出られるの、コンテストの特別審査員として。だから、私、勇気を出して会いに行こうと思うの。そうなると、まずお手紙を書かないと、だって、きっとお忙しいでしょう。長々とお話しては迷惑かもしれないし。それとお礼の品も必要よね。リースなんてどうかしら、お父さんの見まねだけど。あぁ、こうしちゃいられないわ、急いで用意しないと」

機関銃のようなベルの言葉が、ピートの脳内を素通りして右耳から左耳へと抜けていきます。

「それじゃ、ピート、また明日ね」

小走りで立ち去るベルの背中がフローリスト・ベルの戸口に消えてからも、ピートはしばらくナラの木の下で案山子のように立ちつくし、やがて、血の気の引いた真っ青な顔で自転車に跨がり全速力で公園を去っていきました。


「フン、フッフーン、テッテレテッテ」

アパートの扉が開いて、ひんやりした夜の空気と一緒に、鼻歌を口ずさむトニオが一階の廊下に入ってきます。トニオは古い階段の踏み板をステップを踏んで軋ませながら、三階の自分の部屋を通り過ごし、四階のピートの部屋の扉の前までやってくると、一つ息を整え、大きな音でノックしながらピートを呼びます。

「おい、ピート。起きているのは分かっているぞ。観念して扉をあけろ」

扉の奥からは返事の代わりに荷物を動かすようなガタガタという物音が聞こえてきます。

「やい、俺様がせっかくベルと二人きりにしてやったんだ。どうなったか結果を報告しやがれ」

トニオは扉をバンバン叩いて大声を上げますが、それでもピートからの返事はなく、変わらぬ鈍い物音が続いています。業を煮やしたトニオが扉のノブに手を掛けると、何の事なく扉はするりと開きます。

〝何だよ、空いてるじゃねぇか〟

拍子抜けしたトニオでしたが、すぐにいつものにやけ顔に戻ると、勢い良く部屋の中に飛びこみます。

「こら、ピート、返事くらいしやがれっ、と」

飛びこんた部屋でトニオが目にしたのは、部屋中に散乱した服や小物、そして、それを一心不乱に木箱に詰めているピートの姿でした。ピートは何かに取り憑かれたように一人言を呟きなから、部屋中を駆け回って戸棚をひっくり返し、日用品を片っ端から箱に詰めていきます。

「おい、ピート。おい」

「うわあ」

トニオが自分の事など目に入っていないピートの肩を掴んで動きを止めると、ピートは大袈裟な悲鳴を上げて驚きます。

「何だ。トニオか、脅かすなよ」

「そんなに驚くことないだろ。しかし、お前も変わった奴だな。こんな真夜中に模様替えか」

「違う。僕は明日、街を出る」

「はぁ、何言ってるんだ。お前」

「時間がないんだ。仕事先に辞表も書かなきゃいけない。そうだ、お前、大家さんに退居の話しをつけてくれ。あぁ、まだ荷造りも終わらない」

「おいおい、ちょっと待てよ。とりあえず一回落ち着こう」

トニオは荷造りを続けようとするピートの肩を抑えてベッドに座らせると、散らかっている荷物の中から拾ったグラスに、ポケットから取り出したボトルのウィスキーを注いで、焦点の合わないピートの目の前に差し出します。ピートは突き出されたグラスを一息に飲み干すと、大きく息を吐いて、それからようやく隣に座るトニオの顔を正面から見返します。

「どうだ、ちったぁ落ち着いたか。一体、何があった。焦って下手打って、ベルに嫌われたのか」

「違う。そんなんじゃないんだ」

ピートは先刻の出来事をトニオに話し始めます。


「なるほど、そいつはヤバいな」

ピートの話しを聞き終えたトニオがさすがに深刻な顔で呟きます。解決案を期待したピートも、トニオが珍しく考えこんでいるのを見て頭を抱えます。

「そんなにふっかけられるのなら、もっと奴らの店で飲み食いしてやりゃよかった」

「どぅっ」

トニオの場違いな悩みに、ピートはベッドから滑り落ちそうになります。

「問題が違うだろ」

「え、あぁ、もちろんベルの事も問題だな」

鼻息を荒くして迫るピートを、トニオが苦笑いでなだめます。

「しかし、まさかベルが直接リッテンバーグに会いに行くとは思わなかった」

「あぁ、ベルがリッテンバーグに会えば、手紙の嘘がバレてしまう。僕はもう終わりだ。ベルに顔合わせなんてできない、仕事だって続けられない。ああ、駄目だぁ、今すぐ街を出ないと」

トニオはパニックになって荷造りに戻ろうとするピートの肩を掴まえて、再びベッドに座らせると、両手を広げて自信満々にピートを見下ろします。

「結論を急ぐなよ、ピート。まだ打つ手はあるぜ」

「なにっ」

「要はリッテンバーグとベルを会わせなければいいんだろ」

トニオの言いたい事が理解できずに、ピートが怪訝な顔で聞き返します。

「そりゃ、そうなんだけど。でも、どうやって」

トニオは一瞬表情を固まらせ、その後、さも自信ありげなウィンクをして言い放ちます。

「それは、今から考えるのさ。二人でな」

アパートの四階の明かりは結局朝まで消える事はなく、水を貰えていないリリーが心なしか疲れたように花茎を傾けていました。

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