第11話 取立て屋、再び

ピートはまだ騒ぎ足りずに他の店で飲み直すつもりのトニオ達と、楽師達についていこうとするベルを苦労しながら引き離し、澄まし顔で立つ街灯が等間隔で照らす大通りの沿道を二人並んで歩いています。

「あー、もう、私もみんなと一緒に行きたかったなぁ」

不安定な足取りで歩くベルが、赤みがかった頬を膨らましてピートに文句を言います。

「でも、ベル、もう時間も遅いし、グラントさんが心配するよ」

ピートはベルの半歩後ろを歩きながら、ベルの足がもつれて転びそうになる度に右に左に回って手を添えます。ピートの手がベルの腰を支える度に、細い身体が小枝のようにしなやかな弾力を持ってたわみ、揺れる髪とスカートから舞い上がる甘い香りがピートの鼻腔をくすぐります。

「いいの。お父さんの事はいいの。ピートは頭が固い」

すっかり少女に戻ってしまったベルは、急にスキップを踏んだり、沿道のベンチの上を歩いたり、夜の街を気ままに飛び回り、その後ろをピートが親鳥の後を追う雛のようについてまわります。ベルは必死に追いかけてくるピートがおかしいらしく、ピートの手がベルに触れる手前でひらりとかわして、笑い声を上げてまた小走りに駆け出します。

「ベル、そっちは道が違うよ」

「いいの、私はこっちに行くの」

何とか追いついたピートが、あらぬ方向に曲がろうとするベルの腕を捕まえると、踏ん張りが効かないベルはバランスを崩して石畳に倒れそうになります。片腕にベルの全体重がかかったピートは、一緒に前のめりになりながらも倒れる寸前で体を受け止め、両足に全身の力を込め抱き起こして沿道のベンチまで運んでいきます。

「ベル、大丈夫。少し休んでいこうか」

ピートは体にまったく力の入っていないベルをベンチに寝かせ、額にかかっている前髪を人差し指でそっと払いながら顔を覗きこみます。ベルはピートの肩にかかっている手をほどいて、心配そうな瞳で見つめるピートの頬にあて、目を細めて笑顔を返します。

「ありがとう。ねぇ、ピート、私ね」

頬に添えられた手の温もりと、上気した息づかいが聞こえる程の距離にベルの唇があることに、ピートは急激に胸が絞めつけられて、後頭部から脳が麻痺していくのを感じます。

〝もし、次にベルが瞳を閉じたら、僕は…〟

湧き上がる衝動を抑えきれなくなりそうなピートの目の前で、ベルの唇がゆっくりと動きます。

「私、ピートに聞きたい事があるの」

「え、何」

ピートは息もできないまま、ベルの瞳に映る自分の瞳を見つめます。

「後ろの方はお友達」

「へ」

調子のズレた問いかけにピートが間の抜けた声を出した瞬間、ピートの両肩に冷たく重たい手が振り下ろされ、骨がきしむ程に締めつけながらピートの体を吊り上げます。

「うわっ、わっ」

ピートは風に吹かれる洗濯物のように手足をばたつかせますが、背中にいる巨人のような人物は軽々とピートを宙吊りにして向きを変えると、グローブみたいな大きな手を広げて歩道の石畳に落とします。

「がっ、いって」

受け身も取れず石畳に体を打ちつけ悲鳴をあげるピートを、薄暗い街灯の明かりで黒光りするスーツに身を包んだ男達が見下ろしています。

「よお、いいところを邪魔しちまって悪いなぁ」

「あ、あんたら、こないだの…」

お世辞にも愛想が良いとは言えない、他人を威圧するような目線にピートは覚えがあります。数日前にトニオの指を切り落とそうした借金取り達です。思い出される記憶に、ピートは飛び起き後退りしながら身構えます。

「ト、トニオならいないぞ」

「トニオだぁ。は、あんな文無しに用はねぇ」

黒服のボスは吐き捨てるように言うと、脂肪のたっぷりついた腹を揺らしながらピートの前に出てきます。

「俺達はお前に用があるんだよ、ピート」

男の口から自分の名を聞いたピートは背中に悪寒が走ります。

「何で、僕の名を」

「あぁ、お前の事なら何でも知ってるぜ、ピート。坂の上のアパートでトニオの上の階に住んで、郵便屋をやってる。ふふ、お堅い商売じゃねぇか」

黒服のボスが含み笑いをしながら内ポケットから葉巻を取り出すと、大男が葉巻の先にライターを当てて火をつけます。独特な香りの煙が、タバコに慣れていないピートの鼻先に絡みついてきます。

「あれからトニオとずいぶん親しくしてるみてぇだな、ピート」

〝こいつら、ずっとつけ回していたのか〟

ここ数日間、黒服の男達はピートの行動を監視していたようです。男達の異常な性質にピートは下腹が寒くなるのを感じます。

「僕はあんたになんか用はないぞ」

今すぐにも走り去りたいピートでしたが、ベンチに寝ているベルをおいて逃げるわけにもいかず、何とかこの場を切り抜けようと額に汗を浮かべながら言葉を返します。

「そうはいかねぇぞ。お前さんがトニオのツレなら、トニオの金はてめえが払え」

ピートの抵抗を吹き飛ばすように、黒服のボスが血走った目をギョロりと剥き出して、腹から響くドスの効いた声で怒鳴りちらします。

「だが、どうしても払わねぇってんなら仕方ねぇ、トニオの指を切り落とすまでのことさ。お前さんがそれでいいんならな」

黒服のボスは断ることができないのを知っているかのように、下品な笑みを浮かべながらピートの顔にタバコの煙を吹き掛けます。その後ろでは、手下の痩せた男が折り畳みナイフを取り出して、冷たく光る刃をちらつかせています。

ピートは今更ながら考えなしに行動した軽卒さを悔やみますが、トニオを見捨てる事など自分には出来ないのも分かっていて、不甲斐なさに押し潰されそうな気持ちになります。そんなピートの心を読んだかのように、黒服のボスは声色を変えて、わざとらしいくらい馴れ馴れしくピートの肩に手を置きます。

「あいつもヘタレだが、一応音楽家だ。指が欠けちゃ生きてはいけめぇ。お前さんもそのあたりは分かってるだろう。ここは一つ、立て替えてやるのが人情ってやつじゃあねぇか」

自慢のバンジョーの前でなくなった指を見て大泣きするトニオの姿を思い浮かべ、ピートが思わずため息を漏らします。

〝トニオから音楽を抜いたら、ただのろくでなしになってしまう〟

ピートの目にトニオへの同情が湧いたのを見た黒服のボスは、勝ち誇ったような笑みを浮かべながら、背広のポケットから紙を取り出して、俯くピートの顔の前に突きつけます。

「分かったなら、とっととこいつにサインしな」

目の前につき出されたくしゃくしゃの契約書を広げたピートは、その額面を見て悲鳴に近い声を上げます。

「何だ、この額は。こんなもの払える訳がない」

契約書の額面には、ピートが一年働いても返せない程の金額が汚い筆跡で書かれています。

「つべこべうるせぇぞ、郵便屋。借りた金には利子がつくのが世間の道理だ。てめえの都合なんざ知ったこっちゃねぇ」

ピートの声をかき消すように、油ぎった顔をピートの顔にこれでもかという程近づけて黒服のボスが怒鳴ります。海千山千の悪党とのにらみ合いに、ピートが勝てるはずがありません。目の前に迫るぎらついた目に声も出なくなってしまいます。

「さぁ、書け」

恐怖ですっかり頭が回らなくなったピートの腕を手下の男達が押さえつけ、小男が鞄から取り出したペンを握らせて契約書の欄に押しあてます。

「書け、書くんだ」

ならず者達に囲まれ怒声を浴びせつけられ、頭も体も言うことを聞かなくなったピートが、男たちに言われるがままに契約書の署名欄にペン先を当てた時、悪逆無道の行為に制止をかける正義の声が上がります。

「止めなさい」

ピートも含め、その場の一同が思いもしない声に振り返ると、簡素な板張りのベンチの上で英雄が怪物と対峙するかの如く、ベルが小さい体を精一杯に反らして胸を張っているのです。

悪党達は互いに顔を合わせた後、一斉に吹き出します。

無理もありません。ピートの目にすら、ベルの姿は小さなカマキリが大型犬に向かって細い腕を上げて威嚇するかのように頼りなく見えてしまいます。

「こいつは驚いた。大した度胸じゃねぇか、お嬢ちゃん。あんた、こいつの恋人か何かかい」

黒服のボスがいやらしい笑いを浮かべながら、値踏みするようにベンチの上で仁王立ちするベルを見上げます。

「ベル、こんな連中に関わっちゃダメだ」

「じゃかましぃわ。てめえは黙ってろ」

警告するピートの背中に、手下の男達が覆い被さって口を塞ぎます。

ベルは膝丈くらいの高さのベンチを手すりをたぐって降り、平坦な石畳につまずきながら、黒服のボスの前で体勢を立て直すと、大きな鳶色の瞳で一生懸命に男を睨み返します。

「くっくっ、なかなかの玉じゃねぇか。郵便屋には勿体ねぇ。それで、どうするつもりだい、嬢ちゃん。あいつの借金、あんたが用立ててくれるかい」

子猫程の迫力もないベルに黒服のボスは笑いを堪えきれないようで、肩を震えさせ歪んだ口の端からヤニ臭い葉巻の煙を洩らします。

「いいえ、そんな事はしないわ」

あんまりにはっきりしたベルの答えに男達の笑いが一層大きくなります。

「おい、フラれたな」

ピートの首を押さえつけている小男がゲラゲラ笑いながらピートを蔑んだ目で見ます。ピートは石畳に顔を押しあてられながらも、ベルに逃げるように目線を送ります。

「なら、お前に用はねぇ。怪我しねぇうちにとっとと立ち去りやがれ」

一際高い笑い声を上げていたボスが、一変して猛獣のように腹から響く声で吼えますが、ベルは逃げ出すどころか、その場で目を閉じると、大きく息を吸い込んで、全員が呆気にとられる程の大きな声で歌い始めます。

〝子犬のしっぽはふーわふわ

リズムに合わせて右左

母さん犬もふーわふわ

ふわふわお尻も右左〟

ピートも題名を知っている有名な童謡を街中に響く程の声でベルが歌い上げます。

「何のつもりだ、小娘。やめねぇか」

黒服のボスがベルを怒鳴りつけますが、ベルの声は教会の鐘の音よりも大きく響いてボスの声をかき消します。一体、ベルの細い体の何処から、こんな音が出るのでしょうか。

オペラ歌手の独唱よりも迫力のあるベルの歌は、夜の街に響きわたり、家々の窓ガラスを揺らして町中を起こして回ります。通り沿いの窓に明かりがついて、静まりかえっていた街がにわかにざわめき立ちます。

「何だよ、この歌」

「あっちの方から聞こえないか」

通りに面した路地の向こうから、人の話声がやってきます。

「ちっ、くそったれめ」

人の集まる気配を嗅ぎとった黒服のボスは、悪態をついて手下どもに撤退の合図を送ると、ピートの顔を一睨みして捨て台詞を吐きます。

「これで終わりじゃねぇぞ、ピート」

その言葉がピートの耳から消える前に、黒服の男達はあっという間に闇へと消えていきます。後に残されたのは豆鉄砲をくらった鳩のような顔のピートと、陽気な童謡を大音量で繰り返し歌うベル。

「ベル、ベル、ありがとう。もう大丈夫だよ」

我に返ったピートが目をつむったまま歌い続けているベルの服の袖を引くと、電灯の紐を引いたようにプツリと歌が止まり、同時にベルの緊張の糸も切れて、ふわりとピートの腕の中に倒れこみます。ピートは慌ててベルの体を受け止め、全身の力が抜けてしまったベルの肩を支えます。

「大丈夫かい」

ベルの瞳にまた心配そうなピートの顔が映りこみます。

「ありがとう、ピート。もう平気よ」

乱れた髪を手で抑えつけ、息を整えるベルの肩からピートの手に振動が伝わります。

〝無理もない。この小さな体で悪党達と対峙したんだから〟

それはどれ程の恐怖だったのでしょうか。ピートには想像もつきません。

ピートが再度心配そうにベルの顔を覗きこんだとき、急にベルが反った小枝が弾き返るように背筋を伸ばして、大声で笑い出します。

「あははっ、あははははっ。あー、怖かった。あははははっ」

よほど感情が高ぶったのか、ベルは染みでる涙を拭いながら笑い続けます。

「あははは、ねぇ、ピート。今日は記念すべき日ね。お店であんな素敵な事があった後で、こんな経験をするなんて」

「僕も驚いたよ。まさか、君にこんな大きな声が出せたなんて」

「私だって知らなかったわ。必死で何も考えられなかったから。でも、今なら誰の前でだって歌える気がするわ」

自身がした事を信じられないといった様子で興奮気味に話すベルに、ピートが胸を撫で下ろしたところで、通りの路地の角から数人の人影が現れてピート達の方へ向かってきます。

「こっちの方から聞こえなかった」

「いや、もっと向こうじゃないかな」

「それにしたってデカイ声だったな。オペラ歌手でもいるのか」

男女の人影は歌声の主が気になるようで、ピート達をちらちらと伺い見ながら通り過ぎ、しかし、すぐに興味を失って先に食べたレストランの食事に話を戻しながら去っていきます。その一団を素知らぬ顔でやり過ごしたピートとベルは、人影が向かいの路地に消えたところで、二人顔を見合わせて笑い出します。

「うくっ、あはは」

「あはっ、くふっ、あははっ」

すっかり緊張の解けたベルは今度は笑いが止まらなくなってしまったようで、お腹を引きつらせながらよたよた歩いては、ピートの顔を見てまた吹き出します。

「もうだめ。死んじゃう。あははははっ」

ピートはそんなベルの手をしっかりと握ると、転ばないように誘導しながら、静けさを取り戻した通りをフローリスト・ベルに向かって歩き出します。

「遅くなっちゃたね。さぁ、帰ろう」

大通りに円を描いている街灯の明かりを一つ進む毎に二人の影は近づいて、やがて元々そうであったかのように一つになります。

ピートは肩にもたれ掛かって歩くベルの美しい横顔を見ながら、ベルの家までの距離がそれほど遠くないことを心の奥で悔やみました。

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