第10話 酔いどれ楽師
街に夜の戸張が落ち、通りの脇に並ぶ商店から店主が出てきて慌ただしく店じまいを始める頃、ピートは荷台の配達用の籠を取り外し、代わりに板にクッションを巻き付けた簡素な座席を取り付けた自転車を押しながら、噴水広場を抜けてフローリスト・ベルの前の公園にやって来ます。公園の脇のいつもの場所に自転車を止めたピートは、ナラの木の陰に身を隠すようにして店内の様子をうかがいます。
フローリスト・ベルの店先では、グラント氏が花壇の花を店内に運び入れています。店内のカウンターでは、ベルが伝票や注文書を手際よく整理しながら、時折窓の外に目を向けては、父親に気づかれないようにすぐに仕事に戻ります。
どうにもグラント氏が苦手なピートは、店先をうろうろしているグラント氏に見つからないように公園脇まで戻ると、自転車のライトを三回点灯させます。ピートの合図に気がついたベルは窓の外に向けてニコリと笑顔を返すと、伝票を手早く引き出しにしまって、父親に一言声をかけて店の奥に下がっていきます。ベルに意志が伝わったのを確認したピートは、花屋の店先から死角になる位置まで自転車を下げて、ナラの木の枝葉の間から見える夜空の星をぼんやり眺めます。
〝それにしても、本当にあの店で大丈夫なんだろうか〟
ナラの木の密度の高い葉の隙間に見え隠れする頼りない星の光を見上げていると、昼間の不安が舞い戻って来ます。あの癖の強い〝思いで〟のママ達と、恥ずかしがりで繊細なベルが、一緒に歌の練習をしている絵がピートには想像できないのです。
〝ああ、トニオの安請け合いを信じるんじゃなかった〟
どうにもならない心配事で頭をいっぱいにしているピートの背中に、ベルの澄んだ声があたります。
「待たせてごめんなさい。ピートさん」
すっかり自分の世界に入り込んでいたピートが我に帰って振り返ると、そこには仕事着からノースリーブの白いワンピースに着替え、薄手のカーディガンを肩にかけたベルが、慌てて出てきたらしい早くなった胸を抑えながら、肩にかかる髪を細く長い指で整えています。
「やぁ、ベルさん」
清楚にまとめられた衣装のベルは、百合の花のように艶やかに薫りたち、ピートは全身の血管がカーニバルのドラムのように激しく脈打つのを感じます。
「あの、トニオさんは…」
「あ、あぁ、トニオね。トニオは先に店で待っているそうです」
接近する鳶色の瞳に耐えられなくなったピートは、視線から逃げるように真っ赤な顔を広場へ続く路地へ向けて歩き始めます。
「さぁ、行きましょう。ちょっと距離があるんですが、いえ、でも、そんなに遠くないんですけど」
ピートは要領を得ない説明よりもさらにぎこちない足取りで、家路を急ぐ人波に逆らって歩きます。時折、一歩後ろを歩いているベルの方を振り返って、何か言葉をかけようと思い付く限りの話題を思い浮かべますが、田舎で飼っていた犬の話も時計塔の掃除夫が屋根から落ちた話も、どうにもベルが喜びそうに思えず、口を半開きにしたまま前を向きます。ベルはベルで、この後のレッスンへの不安で頭をいっぱいにして、すぐ前を歩いているピートの背中ですら見失ってしまいそうになります。
結局、二人はほとんど会話のないまま、大通りが二股に別れる角まで歩いて来てしまい、賑わうレストランの裏手の路地へと入っていきます。〝思いで〟へと続く路地は道端も狭く、街灯もなく、階段の入り口に下がる小さな灯りだけを頼りに、足元を気にしながら進みます。
ピートはベルがこんな寂しい路地に入るのを嫌がるのではと思いましたが、心配事で頭がいっぱいのベルには周りが見えておらず、〝どうしよう〟〝あぁ、だめだわ〟などと一人言を呟きながら、ピートの足元ばかりを見てついて来ます。
「あの、この地下です」
ピートは内心この後の事に不安を感じながらも、ここでベルの心配を煽るわけにもいかず、如何にも慣れているといった素振りで地下へと続く細い階段を下りていきます。階段を下りきって、曇りガラスの覗き窓のついたノブに手をかけたピートは、一度ベルを振り返ってひきつった笑顔を向けます。
「着きましたよ」
「あ、え、はい」
ベルはいよいよ自分がどこを歩いているのかも分からないくらいに緊張していて、ピートの言葉にようやく目的地に到着したことを知ります。
〝本当に大丈夫なのか〟
そんなベルの様子を見て、ピートの頭にはまた不安がよぎりますが、今さらやめる訳にもいかず、扉のノブにかけた手に力を込めます。
〝トニオなら大丈夫。あいつを信じよう〟
ピートがそう自分に言い聞かせて扉を引いた次の瞬間、扉の内側から何かが飛び出し、ピートの頬を掠めてベルの足元の階段に当たると、大きな音をたてて粉々に割れます。
「バカ、ロイ、皿を投げるんじゃねぇ。タコスを無駄にしやがって」
開け放った扉からは、締まりのないトニオの声と、強烈なアルコールとタバコの臭いが周囲に漂い出します。
ピートが目にしたのは狂乱の場と化した〝思いで〟の店内。
廊下にはすでに腰の立たなくなった楽師達が倒れ、コーラスガールは酒の瓶を枕にテーブルに寝転がっています。ロイはどこから持ってきたのか、女ものの服に着替えていて、酷く手荒な化粧を施して、大柄なママ達とカウンターの中で抱き合っています。トニオは座るところのない三女のエイミーを肩に抱え、いたるところに身体をぶつけなから、狭い店内でステップを踏んで回っています。食器や料理が床に散乱し、照明や観葉植物には服や下着まで引っ掛かっています。
ピートは何も言葉を発せずにすうっと扉を閉めると、ベルの方へ向き直り、肩に手を置いて神妙な顔で伝えます。
「ベルさん、今日のレッスンは中止です。帰りましょう」
「え、あの…」
「こんなところにいてはいけません。さあ、早、うげっ」
戸惑うベルの肩を押して立ち去ろうとするピートを撥ね飛ばして扉が開き、中からトニオが現れます。
「やあ、ベル、遅かったじゃないか。さあ、みんな、お待ちかね。我らがベル嬢のご登場だ」
邪魔なピートを扉と壁の間に挟んで飛び出して来たトニオは、大袈裟に両手を開いてベルを店内に招き入れます。ベルの登場に仲間達から歓迎の声が上がり、リアナとティアナはカウンターに大きなお腹を突っ掛けて、前のめりにベルの顔を覗きこみます。
「あんたが噂のベルかい。んまぁ、マッチ棒みたいに細いじゃないか。とにかく、こっちに来て、まずは一杯やんな」
「アルコールは飲ませるな」
早速グラスを用意するティアナを、扉と壁の間から這い出したピートが制止します。
「はん、つまらない男だね」
横槍を入れられたティアナは口を尖らせてピートに文句を言うと、棚の一番上の取りにくい位置に置いてある紙箱に手を伸ばして、ティーカップを一客取り出し、ヤカンに水を入れて火にかけます。ティアナがティーポットに紅茶の葉を入れるのを確認したピートは怒りを込めた目でトニオを睨みつけます。
「どういうことだ。みんな、すっかり酔っ払ってるじゃないか。歌の練習をするんだろ、楽器はどうした」
「楽器だぁ。そんなもの邪魔だから置いてきた」
「トニオ、お前…」
あまりにも無責任な答えに、ピートは怒りで身体が震え出し、それ以上に言葉が続きません。ただ、恐ろしい目でトニオと周りの楽師達を見回してから、カウンターに座っているベルには笑顔を向け離席を促します。
「ベルさん、帰りましょう」
「でも、あの、まだレッスンが」
「楽器も無しに練習はできません。あの連中は飲んで騒ぎたいだけなんです。音楽の事だって、本当に分かっているのか怪しいもんだ」
ピートが怒りに任せて吐き捨てるように言いながら、ベルの手を引いてカウンターに背を向けた時、床に転がっていた男がむくりと起きあがります。
「待ちな。誰が音楽を分からないだって」
てっきり楽師仲間の一人かと思っていた人物は、寝ぼけた瞼を擦りながら立ち上がるとピート達の前を塞ぎます。ピートはその顔になんとなく見覚えがあります。
「あ、あんた、昼間の酔っ払っいか」
「俺が誰かなんざ、どうだっていいんだ。お前か、俺に音楽を知らないって言ったのは」
その老人はアルコール臭い息を撒き散らしながら、ピートの目の前に鼻を突き出して、血走った目でピートの顔を覗きこみます。名前も知らない老人に急に怒鳴りつけられ、ピートの頭に登っていた血も急激に下がっていきます。
〝この老人は酔っているのか、まともなのか〟
「若造、お前は音楽を知っているのか」
老人は薄くなったボサボサの頭を掻きながら、ピートに問いかけます。
勢いで出た言葉でしたが、改めて考えると、音楽とはよほど縁遠い人生を歩んできたピートには知っている事などありません。ブーメランのように弧を描いて自分に戻ってきた問いかけに、ピートは返す言葉が見つかりません。
「音楽を知っているのかと聞いているんだ」
「いや、僕は…」
老人は口ごもるピートを品定めするように上から下まで睨みつけると、事態についていけず呆気にとられているベルに近づいて、ベルの顔を遠慮なしにじろじろ眺めます。
次に、老人はベルの前のカウンターにお腹を乗せると、小さい身体をいっぱいに伸ばして、カウンターの下をごそごそ探って何かを取り出し、ピートに向かって乱暴に投げてよこします。ピートが慌てて受け止めた円盤状のものが手の中でシャンっと鳴ります。それは木枠の塗料もほとんど剥げた、ずいぶん年期の入ったタンバリンでした。
「おやまぁ、まだあったんだね」
リアナとティアナが嬉しそうに目を細めて、驚きの声をあげます。身体を起こした老人は、タンバリンを持って突っ立っているピートを振り返り、叱りつけるように命令します。
「叩け」
楽器に触れた経験などなく、まして演奏などできるはずもないピートが惚けた顔で老人と手の中の小さい打楽器を交互に見返していると、老人がさらに大きな声で命令します。
「叩けと言ってるんだ」
老人の気迫に押されたピートは、仕方なしにタンバリンの日に焼けた皮を打ちつけます。
パン、シャシャン。
古びたタンバリンは、自分の仕事を思い出したように明るい音を弾き出します。
「何してる、もう一度だ」
まだぼうっとしているピートに、老人の叱咤が飛びます。
〝自分は何でこんなことをやらされているのか〟
ピートはまったく意味も分からず、しかし、老人に怒鳴りつけられるのも嫌なので、渋々タンバリンの腹を叩きます。叱られている子供のような顔のピートとは対照的に、タンバリンが嬉しそうな音で体を震わせます。
「いいぞ。続けろ」
タンバリンの弾ける音に気を良くした老人は、カウンターの椅子にどかっと腰を下ろすと、カウンターの天板を指で弾き始めます。ピートが叩くテンポの悪いタンバリンの音が、老人の天板を叩く音につられて徐々に調子が整えられていきます。
パン、シャン、トトン、パン、シャン、トトン。
〝思い出〟の小さな店内に二つの音が響いてリズムを刻み始めると、成り行きを見ていた楽師仲間達から自然と手拍子が起こります。カウンターの奥でタバコをふかしていたリアナとティアナも、大きな体を揺らしながら木製のサンダルで床を打ちならします。
パーカッション担当のテッドが待ってましたとばかりに、手近な酒ビン、空き缶、水の入ったグラスを集め、即興のドラムビートを作り出すと、三人娘達がボイスパーカッションを入れます。ピートが叩いていた単調なタンバリンの音が、老人と楽師達の手によって、あっという間に軽快な音楽に様変わりしたのです。
老人はその様子を満足気に眺めると、カウンターを叩く手を止め、胸ポケットから小さなハーモニカを取り出します。そして、二人のママ達に目配せをした後、ハーモニカを無精髭で覆われた口にあてます。響き始めたハーモニカの音は、晴天の空の下、帆を張ったヨットが水面を進んで行くように軽やかにリズムの波に乗り、メロディの風をつむぎ出します。
民族音楽の流れをくんだ軽快な旋律に乗せ、二人のママ達が明るく、力強い歌声を重ねます。
〝俺の昔の恋人は 黒い瞳に長い髪
甘い香りを振り撒いて 毎夜酒場で踊ってた
ある日男が現れた 皮の背広に黒い髭
店のビールを飲み干して 踊るあの娘を連れてった
涙は夜の霧 大地を濡らし
呼ぶ名は空風 砂漠を渡る”
タンバリン、手拍子、ビンやグラスを打つ音、踊る仲間達が床を踏み鳴らし、そしてハーモニカと歌声。それは紛れもなく一つの音楽でした。
音が拍子になり、拍子がリズムを作り、旋律と歌声が加わって音楽が生まれる。ピートはそれを中心点で体感しているのです。今までのピートにとって、音楽は遠い国の言語か、数学者の話す難しい公式のようなもので、到底理解できないものだと思っていました。それが、今、ピートは音楽と一体になっているのです。心臓はリズムに合わせて鼓動し、頭のてっぺんから足の爪先までが共鳴して振動します。興奮と歓喜、ピートの目には気づかない内に涙が溢れてきます。
そして、もう一人、いえ、ベルはピート以上に、湧き上がる感動に強く胸を震わせています。
ベルは小さい頃から、音楽に強い憧れと敬愛を抱いてきました。母が弾くピアノに合わせて無邪気に歌っていた頃は、歌う事への恐怖など感じた事はありませんでした。しかし、母の死が全てを変えます。
父は二人分の仕事をこなすために睡眠を削って作業せねばならず、ベルは一切の家事を任されます。生活が落ち着きを取り戻すまでの数年、ベルは青春と夢を置き去りにしてきました。開くことのないピアノの鍵盤の蓋には塵が積もり、いつしかベルの心の蓋にも積もるようになります。叶わない夢への憧れが強くなれば強くなる程、その思いで自らを縛り付け、過度に失敗を恐れることで夢を諦めていたのです。
しかし、今、目の前で起きている奇跡が、しまいこんでいた情熱に火を灯し、高く熱く燃え上がり、氷山のように冷たく固まった心を熔解していきます。音楽に必要なのは優れた技術でも、洗練された楽曲でもなく、純粋に楽しむ心だということを、名も知らぬ老人が示して見せたのです。
〝歌いたい。私も歌いたい〟
〝思いで〟の空間を支配している老人は、ベルの中で起きている連鎖的変化を見逃しませんでした。ハーモニカを吹く手を止め、片手をあげるとゆっくり下ろして合図を送ります。楽師達は皆老人の指揮に従って、それぞれの音をフェードアウトさせていきます。店内に響いていた力強いリズムが消え、一瞬の静寂の中で老人はベルの目を見ると、またハーモニカに口をあて奏で出します。
どこか聞き覚えのある旋律にピートははっとします。昨日の夜、不思議な夢の中で聞いた曲と同じだったのです。
素朴で懐かしいハーモニカの音色を、仲間達は目を閉じて聞いています。皆、瞼の裏に忘れがたい記憶を思い浮かべながら。ピートもまた、昨日の夢の続きを見ています。永遠に続く光の草原、夜の戸張に覆われていく空、東の空には輝く明星、響く旋律と歌声にピートが振り返ると、さざ波のように揺れる草原の丘の上で、ベルが白いワンピースに夜空の光を受けながら風に歌声を重ねています。
ピートも仲間達も、誰も気がつかなかった程ごく自然にベルがハーモニカの音に合わせて歌っています。
トニオが驚きの顔でベルを見つめます。今までどれ程誘っても仲間達の前でしか歌わなかったベルが、ピートや、初対面の人達の前で清々しい気品をたたえながら歌っているのです。
曲の主役はハーモニカからベルの歌に代わります。歌声は生まれたばかりの生命の強さを持って、〝思いで〟の店内のあらゆるものに染み込み、全ての不純物を浄化し、空気中のアルコールと共に消えていきます。喜びの詩が終わりを迎え、老人のハーモニカの最後の音が紫色の壁に溶けて消えると、楽師達が子供の頃の夢から覚め出します。
「ベル、凄かったぜ」
「ハハ、驚いたね。なかなかやるじゃないのさ」
「俺なんか、感動で泣きそうだったよ」
仲間達から称賛と拍手の音が湧き上がります。ベルは輪の中心で、まだ夢の中にいるようなぼうっとした表情で顔を赤くしています。
その輪から少し離れた所で、ピートは瞳に涙をためながら、目の前で起きた小さな奇跡に心を震わせていましたが、演奏を終えた老人がウィスキーボトルを片手にひっそりと店の外に出て行くのに気がついて、慌てて老人の後を追って原色の飾り窓の扉の外へと出て行きます。
細い階段を上がりきって、ピートが暗い路地に目を凝らすと、店先の照明の光が届かなくなる先の暗がりに老人の影が消えていくのが見えました。ピートが老人を呼び止めようと口を開いた時、その小さい背中から、何かが花びらのようにはらりはらりと宙を舞いながら落ちていくのが目に入ります。
その何かを拾い上げてピートが再び暗がりに目を向けると、影は完全に周囲の闇と同化し気配を感じません。キツネに化かされたような気分でしばらく路地の闇を眺めていたピートでしたが、ふと拾い上げた紙を見つめて驚きの声をあげます。
「これは、ベルの手紙じゃないか」
薄いピンクの花柄の封筒、深いチャコールのインクで丁寧に書かれた宛名、それは間違いなく昨晩ピートの部屋からなくなったベルの手紙でした。
「あぁ、神さま」
ピートは思わず手紙を胸にあて、天を仰ぎます。
「良かった。本当に、良かった」
今日一日、頭の奥に張りついていた悩みから解放されたピートが、胸にあてた手紙を子供の頃の宝物のように優しい目で見つめていると、染み出てくる安堵とともに、一つの疑問が湧いてきます。
「でも、何でこの手紙をあの人が…」
そこへ、騒がしい足音をたてながら階下からトニオが現れて、手紙を手に路地の闇を見つめているピートの顔を不思議そうに覗きこみます。
「そんなとこで何やってんだ、ピート。お前も中に入って飲めよ。料理が冷めちまうぜ」
「あの人が、ベルの手紙を落としていったんだ」
路地の先に目を向けたままピートがトニオの前に手紙を差しだすと、トニオも同じ暗がりに顔を向けて率直な疑問を口に出します。
「何で」
「僕が知るわけないだろう」
同じ疑問の答えが出ないピートが語気を強めて返します。
「うん、まぁ、拾ったんだな。あぁ、きっとどこかで拾ったんだ」
「どこかって、一体どこで拾うんだ」
「さあな、この街のどこかでだ。手紙はお前の部屋の窓から飛んでった、それをじいさんが拾った。もう、それでいいだろ。大切な手紙も戻ってきたんだし」
面倒臭そうに話を切り上げたトニオが、不満気なピートの背中を押して〝思いで〟の階段に戻ろうしたところで、今度はロイが何かにぶつかりながら、大きな音をたてて階下から弾丸のように飛び出してきます。
「あ、兄貴、ベルが大変だぁ」
「何、ベルが」
「ベルがどうかしたのか」
ロイのただならぬ様子に、ピートとトニオは言うが早いか二人同時に階段に飛びこみ、壁に体を擦りながら狭い階段を駆け下ります。
「ベル、大丈夫か」
二人が体を絡ませながら原色の覗き窓のついた扉を押し開け、店内に飛びこんだとたん、床に広がる軟らかいものを踏みつけて二人同時に派手にひっくり返ります。
「んがっ」
「いってぇ」
「あははっ、やだ。二人、何で床に寝てるのー」
床に転げてタバコのヤニですっかり茶色になった天井を見上げているピートとトニオを、ベルが妙に明るい声を上げながら、カウンターの上から前屈みに覗きこみます。
「ベル」
ピートはベルのひとまず無事な姿に一安心しますが、いつもより1オクターブ高い声に違和感を感じます。
「うわ、何だ、これ。床がケチャップまみれじゃねぇか」
ピートの後ろで、トニオが上半身を持ち上げて、床一面に飛び散っているケチャップソースを見てすっとんきょうな声をあげます。
ピートが改めて店内を見回すと、確かに床のいたるところ、いや、壁やテーブル、椅子にまで、店内の全てにケチャップとマスタードの赤と黄色の彩色が施されています。そして、カウンターの上には、どっかり座り込んだベルがきゃあきゃあと奇声を上げながら、目につくもの、手に触れるものをそこらじゅうに投げ散らかしているのです。
「酔ってる」
ベルの紅潮した頬を見て、ピートは顔を青くします。
「ねぇ、ピートもそんなとこに寝てないで、こっち来て座りなよ」
カウンターの上でベルは自分の隣をバンバン叩くと、その勢いで自らの体勢を崩して、カウンターから皿やコップを落としていきます。
「ベル、あぶねぇ」
カウンターから落ちそうになるベルを、トニオが駆け寄り必死に支えます。
「あんた達、ベルに何を飲ませたんだ」
カウンターの奥で成り行きを見ているリアナとティアナにピートが詰め寄ると、二人は同時に眉と肩をすくめて答えます。
「何をってねぇ」
「紅茶しか出してないよ」
「ブランデーは入れたけどね」
「ぶ、ブランデーっだって」
あっけらかんと答える二人の言葉にピートの声が上擦ります。
「香り付けだよ。ティーロワイヤルさ」
「一応、アルコールは飛ばしてるんだけどね。まさか、こんなになっちまうとは」
そう言うと、リアナとティアナは大きなお腹を抱えてゲラゲラ笑いだします。
「笑い事じゃないぞ」
「おい、ピート、手伝え」
すでに半分カウンターから落ちているベルのお尻の下でトニオが助けを求めます。ピートが慌てて体を入れた所で、ベルの体はカウンターの上から滑り落ちて、ピートとトニオをクッションに床に着地します。
「ぐぇ」
「ぎゃっ」
何が起きたのか理解出来ていないベルは一瞬キョトンとした顔をしますが、自分のお尻の下で潰れてる二人を見て、真っ赤な顔で笑い出します。
「あははっ、やっぱり二人が床で寝てるー。あははははっ」
ベルの言葉にリアナとティアナの笑いは勢いを増し、楽師達も笑い出します。
〝思いで〟の明るい喧騒は扉の覗き窓から地上へと漏れて、路地裏の暗がりに溶けて消えていきます。
「楽しい時間だったよ。またおいで」
リアナとティアナは階段の上までベルを見送りに出てきます。
「私もね、こんなに楽しいのは初めて。楽しくて、楽しくて」
まだ酔いが冷めていないベルが上機嫌にくるくる回り出すと、血相を変えたピートが走りよって来てベルを受け止めようと手を広げますが、ベルは風に舞う花びらのように回転し、ピートの手を避けてティアナの身体めがけて倒れこみます。ティアナは大きな身体でベルを受け止めると、優しく抱きしめます。
「頑張りな、あんたの歌にはソウルがあったよ」
「うん」
ベルは甘えるようにティアナの胸に顔を埋めて、少し強めの化粧の香りを吸い込んだ後、ティアナの目を正面から見返して小さく頷きます。
「兄貴、早く次の店に行こうぜ。酔いが冷めちまうよ」
仲間達はすでに細い路地から、通りの明かりに向けて歩き出しています。
「ありがとう。また遊びに来るね」
ベルは二人のママに明るい笑顔を向けると、名残惜しい気持ちを振り払うように、スカートの裾を翻して小走りに仲間達の後を追いかけます。
「んじゃ、またな」
「お世話になりました」
ピートとトニオも二人のママに礼を告げベルの背中を追います。三人を見送った二人のママが階下に去った路地裏では、入り口の看板を照らす電球が静かに光を灯し続けます。
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