第9話 スナック 思いで
次の日、非番のピートはトニオに呼びだされ、待ち合わせの広場の噴水の縁に腰を下ろして、昼下がりの日差しを反射させる噴水のしぶきを浮かない顔で眺めていました。
噴水の反対側に立っている役場の建屋にかかる時計は、とっくに待ち合わせの時刻を過ぎ、もう少しでまた長針が短針に追いつくところです。
街一番のイベントである音楽祭を明日に控えた中央広場はすっかり様変わりし、市場の立つ広場には特設のステージが組み立てられ、その周りを見物客相手の出店が取り囲んでいます。パレードの通る予定の大通りにはすでに誘導用の柵が敷かれ、その合間を飾りつけの道具を持った職人達が行き来しています。
音楽祭の当日は近隣の街から多くの見物客がやってきて、さらに、街の各所で道が封鎖されるため、いたる所で交通渋滞が起きます。配達の仕事をしているピートには、毎年やってくる音楽祭は楽しいイベントではありません。
しかし、今、ピートの頭をもたげさせているものは、一時間遅れても現れないトニオでも、明日の音楽祭の事でもありません。
「よぉ、ピート。待ったか、待ってないな。俺も今来たところだ」
能天気な声とともに、人波の間からトニオがひょっこり顔を出します。
「時間ぴったりだな。お前の田舎じゃ時計の針もシェスタを取るんだろ」
「はっはー、分かってきたじゃないか、相棒。さあ、もたもたすんな。とっとと行くぞ」
人を待たせた罪悪感など微塵も感じないトニオは、自分の遅刻を棚にあげて、ピートを急き立て広場を渡り始めます。
「おい、待てよ。行くって、何処にいくんだ」
「決まってんだろ。ベルを歌わせる店に挨拶に行くんだよ」
「何、もう見つかったのか。歌の練習できる場所が」
「あたぼうだ、俺はバンジョーの天才、音楽界のプリンスだぜ。俺様が一声掛けりゃ、その程度の店なんかすぐに見つかるさ」
トニオはいかにも自慢気な顔で、頭一つ高い位置から驚いているピートを見下ろします。ピートはトニオの行動力に感心しながらも、その鼻を膨らませた顔を見ているとどうにも不安になるのです。
「なんだお前、その顔は。トニオ様のコネクションを疑うのか。ふん、まぁ、いいさ。すぐにお前の口を開いたまま塞がらないようにしてやるぜ。そんなことよりだ」
トニオがピートの肩に手を回して、ぐいっと引き寄せると耳元で囁きます。
「ちゃんと手紙の返事を書いたんだろうな。偽リッテンバーグ君」
「うっ」
刺さるような痛い言葉がピートの喉を詰まらせます。
「まぁ、博学多才のリッテンバーグ先生の事だ。ベルが読んだら失神しちまう程の秀句名文を書き上げたに違いないな。〝まぁ、リッテンバーグさんがこんな私を褒めてくれるなんて、ああ、今にも卒倒しそう〟」
トニオはピートの前で、額に手をあててベルの声を真似て見せます。誘導柵の敷かれた大通りの沿道には、昼休みから仕事に戻る人達が行き交います。沿道の真ん中で大声で一人芝居をしているトニオはよく目立ちます。
「〝あの高名なリッテンバーグ先生が応援してくださるなんて、私頑張れる気がするわ〟」
「止めろよ、トニオ」
周囲からの冷たい視線に耐え切れなくなったピートが、赤面しながらトニオを制止します。
「何でだよ、一晩かけて書き上げたんだろう。ようし、俺が直々に添削してやる。さぁ、見せてみろ」
「違うんだ、事情が変わったんだ。おい、止めろって」
ポケットやカバンに伸びてくる手を払いのけながら、ピートが深刻な顔でトニオの目を見ます。
「返事は書けないんだ。あの手紙は、手紙は…」
「ん、手紙がどうした」
何やらただならぬ様子のピートに、おちゃらけていたトニオも探る手を引っ込めます。
「ないんだ。無くなったんだ」
「なくしただぁ」
肺から苦いものを吐き出すようなピートの告白に、トニオの声が裏返ります。
「そうだよ、ないんだ。昨晩、確かに引き出しにしまったんだ。でも、ないんだよ。どんなに探しても見つからないんだ」
ピートは今にも地面に倒れこみそうなくらいに肩を落として、震える声で昨晩の事を一つ一つ説明していきます。一晩中手紙を開けられずにいた事、不思議な夢の話、開いていた窓、そして、起きてから待ち合わせの時間ぎりぎりまで、机の引き出し、棚の裏、キッチンの隅、冷蔵庫の中にいたるまで、部屋中のありとあらゆる所を探しても手紙が見つからなかった事。
トニオは目を閉じ、腕を組んで、ピートの話を真剣に聞いていました。そして、ピートの話が終わると、静かな声でピートに尋ねます。
「つまりだ。お前は、ベルにすっかり夢中になっているお前を見て、嫉妬したリリーが夢の中で魔法を使って手紙を隠しちまったと、そう言いたいんだな」
「ああ、いや、うん…」
改めて他人の口から聞くと、自分の話のとりとめのなさにピートも言葉が出なくなります。ピートの情けない姿に、トニオの肩が震えだし、口角の震えも抑えきれなくなり、ついに堪えきれなくなって腹を抱えて笑い出します。
「はぁっはっは、こいつぁいいや、花が嫉妬したって。あぁ、そうだ。そうに違いない。女の嫉妬は恐ろしいもんな」
通りの真ん中で笑い転げるトニオに道行く人の視線が集まる中、ピートは顔を真っ赤にしながら、ムッとした表情で突っ立っているしかできません。ピートの顔が茹でタコよりも赤くなった頃、笑い過ぎて引きつった腹をさすりながら、トニオが立ち上がります。
「俺を殺す気か、ピート。もう少しで笑い死ぬところだったぞ。こんなに笑ったのは爺様が屁をこきながら死んでった時以来だ。あんときは親戚一同笑いこけて、危うくもう一つ棺桶が増えるところだった」
恐ろしく不謹慎な事を言うトニオに、ピートは文句を言う代わりに真っ赤に焼けたヤカンが蒸気を吹くように鼻から息を吐きます。
「そう、気を悪くするなよ。要は寝ぼけてたか、酔っぱらってたかで手紙をしまい忘れたんだろ。それが風に吹かれて窓から飛んでいっちまたのさ」
「でも、ちゃんと引き出しにしまって、窓だって閉めたんだよ」
ピートは昨晩窓に鍵をかけた感触を思い出す事だって出来るのですが、自分の主張よりもトニオの言う事の方がよほどまともなのも分かっていて強く反論できません。
「ああ、二度も手紙をなくしちまうなんて、僕は郵便配達員失格だ。明日、辞表を出そう。ベルに全てを話して、それから旅に出よう。この街には帰らない。僕の部屋はお前が使ってくれ、トニオ」
トニオの襟を掴んで訴えかけるピートの瞳は真剣そのもので、トニオにはそれがおかしくてたまりません。
「そんなに思い詰めんなよ、大した事じゃないさ。それに、あの手紙はお前宛ての手紙だ。返信なんてあたりさわりのない事を適当に書きゃいいのさ」
ピートの今後の人生を左右しかねない程の苦悩を、トニオは道端の石ころのように一蹴すると二人が歩いてる通りの先を指差します。
「そんな事より、見えて来たぜ。あの建物だ」
トニオが指差す先、大通りが二股に別れていく角にその店はありました。装飾の多い外装の建物の一階にオープンテラスを備えたレストランです。
白く輝くガーデンパラソルの下で、品の良い身なりの老夫婦や気取ったドレスの若い女性達が、純白のテーブルクロスの上に並べられたアンティークの陶器に飾り付けられた数々の料理を、それぞれサイズの違う複数のナイフやフォークを駆使して口元に運びながら、楽しげに談笑しています。
大袈裟な飾り照明が下がっている店内には深緑のサテンの絨毯が敷いてあり、その上を端麗なスーツ姿のウェイター達がテーブルの間を滑るように動き回って、料理やお酒を運んでいきます。店の奥にはL字の長いバーカウンターがあり、カウンターの後ろに組んである棚には様々なお酒のボトルが並べてあって、その前に口髭をキレイに揃えたボーイが澄ました顔で立っています。
そして、カウンターの奥の一角には、ライトアップされているステージの上に重厚な光を放つグランドピアノが置いてあり、革張りの椅子を開いて奏者の着席を待ちわびています。
あまりに想像を超えた豪華な店構えに、ピートは先刻のトニオの予告通りに大きく口を開け、目をしぱしぱ瞬かせて、トニオとレストランを交互に見返してしまいます。一体、このちゃらんぽらんな男の何処に、こんな高級店とのコネクションがあったのでしょうか。
「さ、行くぞ」
呆気にとられているピートを置いて、トニオはスタスタと早足でレストランのある建物へと向かって行きます。
ピートは大股で歩くトニオの背中に遅れをとらないように追いかけながら、レストランの輝く白壁の横を過ぎて、建物を回り込む形で裏手の薄暗い路地に入り、野良猫が散らかしたゴミ捨て場の前を通り、レストランの勝手口も通り過ぎて、釣り金具の片方が外れかかって傾いている看板の下をくぐって、人が一人やっと通れるくらいの幅の地下へと続く細い階段を下りて行きます。
急な階段に苦戦しながら下りるピートの頭に疑問符がいくつか浮かんだ頃、慣れた足取りで先を行くトニオが、階段を下りきった所にある古い扉の前で足を止めます。
「着いたぞ。ここだ」
階段に入る外の光がぎりぎり届く地下の扉には、紫色の曇りガラスの覗き窓がついていて、その下には、店名でしょうか、真鍮のプレートに古い書体で浮き彫りが施してあります。
〝スナック 思いで〟
ピートはようやく自分の勘違いに気がつきました。
「いい雰囲気の店だろ。ここのママは美人揃いだ。お前、気をつけろよ」
トニオは先程とはまったく逆の意味で開いた口が塞がらないピートに耳打ちして、準備中の札の下がったドアを遠慮なしに押し開けます。
「よ、邪魔するぜ」
「まだ準備中だよ。表の札が見えないのかい」
トニオが暗い店の中に軽薄な言葉を投げかけたとたん、酒焼けしたハスキーな怒鳴り声が返ってきます。
まだ照明のついていない店内には、肩が触れるくらい詰めても5人座れるか分からない小さめのカウンターテーブル、ところどころ擦れて破けているソファーとローテーブルが2セット置いてあり、その手前には、場違いに大きな観葉植物が客の導線を邪魔しています。
小さなカウンターの後ろにはおそらく声の主であろう、チリチリ髪を頭の上で左右二つにまとめた女性が、胴回りがピートの三倍はありそうな身体を派手な花柄のワンピースドレスに押し込んで、タバコの煙を細く吹き出しながら、アイシャドウをこってり載せた目でピート達を睨んでいます。腹ペコの蛇が獲物を狙うかのような迫力に、ピートは思わず小さい悲鳴を上げて後づさりしてしまいます。
「ティアナ、俺だよ。トニオだよ」
「あれまあ。誰かと思えば、トニオかい」
ティアナと呼ばれた女性は、戸口にいる気弱なアマガエルみたいな男と一緒にいるのが知った顔であることに気づくと、うって変わった親しげな笑顔になって、狭いカウンターの間から大きなお腹を押し出してきます。
「リアナ、ちょっと出ておいでよ。トニオが来たよ」
トニオと熱めの抱擁を交わしたティアナがカウンターの奥の小口に呼びかけると、小口からティアナと瓜二つの顔にウェーブの強い髪を左右に垂らして、色違いのワンピースを着た女性が現れ、ティアナと入れ替わりにトニオとやはり熱めの抱擁を交わします。
「しばらくぶりじゃないか、トニオ。こんな美人二人をほって、何処を遊び歩いていたんだい」
「リアナ、少し痩せたかい。女っぷりが上がってるぜ」
「嬉しい事言ってくれるじゃないか。あんたが昼から顔を出すなんて珍しいね。時間あるんだろ、良い酒が入ったんだ、飲んで行きな」
「ありがとよ。でも、今日は二人に頼み事があって来たんだ。おい、ピート、そんなとこに突っ立ってないで中に入って来いよ」
トニオはカウンターの長脚の丸椅子に腰かけながら、艶やかな装飾の店内と三人の陽気な会話に入っていけずに入り口に立ちつくしているピートを呼び寄せます。
「ツレを紹介するぜ、郵便屋のピートだ。こっちはティアナとリアナ。元歌手で、この辺りじゃ有名な姉妹さ」
「今でも現役だよ。ピーナツ姉妹って聞いた事ないかい」
「すいません、音楽はあまり聞いたことなくって…」
場の雰囲気にすっかり萎縮してしまっているピートは、二人の芸名を知らなかった事に小さくなった肩をさらに縮ませます。
「はっはっは、あんた、本当にトニオのツレかい」
ティアナとリアナは大笑いしながら目を丸くしてピートの顔を覗きこむと、カウンターとシンクの間に大きな体を押し込んで、棚からグラスと酒瓶を取り出し、手際よく注いで二人の前に差しだします。
トニオは待ってましたとばかりにカウンターの上のショットグラスを手に取ると、そのまま一息に飲み干します。
「くはぁ、こいつは効くねぇ」
トニオが空になったグラスをカウンターに打ちつけて硬い音をたてます。
「ほら、お前もいけよ。話しはその後だ」
八角形に切られたショットグラスの口から上がってくる独特な匂いに、ピートは一瞬ためらいを感じますが、二人のママ達がカウンターの奥で試すような視線で見ていることに気づくと、ここで引く訳にもいかず、覚悟を決めて喉の奥に流し込みます。
次の瞬間、ピートの脳に殴りつけられたかのような衝撃が走りました。
「うおっ、ごほっ」
「はっはー、どうだ、たまんねぇだろ」
頭の中に棒を突っ込まれてぐるぐるかき回されるような感覚に、ピートはカウンターに崩れ落ちます。
「いったい、これは、何を、飲ませたんだ」
「何って、こいつだよ。ホラ、蛇酒」
ぐらぐら揺れているピートの目が、リアナが棚から出してきた酒瓶の中に沈んでいる斑模様の蛇の目と向き合った時、ぎりぎり繋がっていた意識の糸がぷっつり切れて、ピートは丸椅子から床へと滑り落ちていきます。
「じゃあ、ティアナ、リアナ。また後でな」
トニオのよく通る声はピートの頭にずきずき響きます。
「頼む、トニオ。もっと小さい声でしゃべってくれ」
額に手をあてながら、ピートはおぼつかない足で狭い階段を一段一段ゆっくり登っていきます。薄暗い地下から階段を上がりきると、すっかり傾いた日差しが建物の隙間を通ってピートの顔を光で覆います。
がんっ、がたん。
視界を奪われよろめくピートの足に何かが当たりました。
「こらぁ、誰だ。俺の酒に何しやがる」
続いて、聞き取りにくいしゃがれた怒声が上がります。光に目が慣れたピートが声のした方向を見ると、階段脇の暗がりに、ずいぶん寂しくなったボサボサ髪の赤ら顔の老人が壁に背中を預けて座りこんでいて、起きたばかりの意識のはっきりしない頭を振りながら何かを探しています。ピートの足元には獅子の浮き彫りの施されたウイスキーボトルが転がっています。どうやら老人が探しているのはこれのようです。
そこへ、階下からトニオが現れて、床に投げだされている老人の体を長い足でひょいと跨いでいきます。
「はっはー、あんた、こんなところで寝転がってちゃ商売の邪魔だぜ」
「うるせぇ。何処で寝ようと俺の勝手じゃねぇか」
老人は伸び放題の髭をもぞもぞ揺らして文句を言いますが、どうにも眠気に勝てないらしく、体を横に倒すといびきをたてて寝入ってしまいます。
「まったくしょうがねぇじいさんだな。おい、ピート、手伝えよ」
見かねたトニオが老人の背中に回り、脇に手を入れてピートに足を持つように目で合図します。ピートは足元のウイスキーボトルを拾って老人のズボンのポケットにしまうと、股の間に入って足を両脇に抱えます。
「うう、酒臭い」
「我慢しろ。いくぞ、せーの」
全身から漂う強烈なアルコール臭を浴びながら、二人は息を合わせて老人の体を持ち上げます。
「うおっ、何だお前ら、俺に触るんじゃねぇ」
急に体が浮いた老人は、寝ぼけた頭で二人を引き剥がそうと手足を振り回します。
「あぶねぇ、じいさん。暴れるなよ」
「痛い、痛いって」
トニオとピートは老人の反撃を受けながら、路地裏から通りに出たところまで運んでいき、抵抗に疲れて寝入った老人の体をベンチに引っかけます。
「ふぅ、偉い目にあったな」
額に手をあててため息をつくトニオを、ピートがしかめっ面で見ています。
「何だよ」
「本当に大丈夫なんだろうな」
「心配ないさ。酔いが覚めりゃ、自分で家に帰るさ」
「そうじゃない、あの店の事だよ」
トニオはピートが何を言いたいのか理解できず、きょとんとした顔で聞き返します。
「何か問題かあるのか、あの店に」
「あるさ。大有りだよ。店の雰囲気ってものがあるだろ。もうちょっと、こう落ち着いた、ベルに似合いそうな…」
そこまで言って、ピートは自分がよくも知らないベルの事を、勝手に清楚でおしとやかな女性だと思いこんでいる事に気づいて口ごもってしまいます。
「あぁ、そうか。ピート君は清純可憐なベル嬢を、あんな品のない店には誘えないって言いたいわけか、うん」
こういう事にだけは勘の鋭いトニオが、ピートの肩に手を回し、赤くなった顔を覗きこんでからかいます。
「いや、もう少し静かな店の方がベルも喜ぶんじゃないかと思って…」
反論の言葉にいまいち力の入らないピートを、トニオはニヤニヤ笑いながら楽しそうに眺めてから、大袈裟に肩をすくめてわざとらしいため息をつきます。
「ふーん、まったく分かってないな、ピート。今のベルを気取ったレストランや、格式ばったホールに連れていってみろ。緊張でガチガチになって、歌うどころか会話も出来なくなるぞ。そんなことになったら、ベルの傷口を深くするどころか、ようやく出てきた夢まで壊しかねないぜ」
確かにトニオの言う通りです。ピートはベルの前で見栄をはる事だけ考えていた自分が恥ずかしくなります。よほどトニオの方がベルの望みを理解していました。
「その点、〝思いで〟なら少人数でアットホームだ。他の客なんて大概いないから緊張もしない」
「客がいなかったら、いつもと変わらないじゃないか」
「変わらないからいいのさ。自信をつけるってのは、無理な事に挑戦させることじゃない。出来るって経験を一つ一つ積み上げていく事なんだ」
ピートは愕然としました。
〝トニオから、あのトニオからこんな高尚な言葉を聞くなんて〟
早速、練習場所を見つけてくる行動力と、ベルに必要なものを的確に察する観察力は、音楽への純粋な情熱から来るものなのだろうか。もしかしたら、トニオはトニオなりに挫折も努力もしてきているのかもしれない。そう思うピートの心には、感心を越えて尊敬の念さえ湧いてきます。
「それに、お前は知らないだろうが、仲間内じゃあの二人は有名さ。店には音楽関係の人間がよく出入りしてるって話だぜ。まあ、そんなわけでこいつを頼む」
そう言うと、トニオは胸ポケットから一枚の紙切れを取り出して、ピートの目の前でヒラヒラと扇いでみせます。うっかりトニオに尊敬の眼差しを向けてしまったピートが宙に舞うその紙を受け取ると、長方形の紙面には金額を示す記号に続いて大きな桁の数字が示されています。
「なんだよ、これ。請求書じゃないか」
「あったり前だろ、これから世話になる店でタダで飲み食い出来ねぇだろうが」
「それはそうだけど、いくら何でも高過ぎじゃないか」
請求書の金額は高級なレストランで3回は食事が出来る程の額で、とてもグロテスクな蛇酒一杯の金額ではありません。
「うん、まぁ、チョイとツケを貯めてたからな」
トニオはピートと目を合わさないように、顔を黄色みがかった空に向けたまま、靴の踵を少しずつ後ろに下げていきます。
「何でお前のツケまで、僕が払わなきゃいけないんだよ」
「はっはー、世話になる店でツケを貯めてる訳にもいかないだろ」
「トニオ、お前、まさか、これが目的だったわけじゃないだろうな」
称賛の気持ちも一気に吹き飛んだピートが疑いの眼差しを向けると、トニオはくるりと背中を向けて、夕暮れ前の大通りの人波に逃げるように駆け出します。
「何を言う、これは全部ベルのためなんだぜ。それじゃ、また後でな」
通りの真ん中に一人取り残されたピートは、伝票の額面を見てため息をつくと、さらに痛みが増した頭を抱えながら家路につくのでした。
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