第8話 二人のリッテンバーグ

その夜、結局ピートは一睡もできませんでした。

騒ぐトニオを部屋から追い出し、ベッドの上で毛布を被っても、手紙の事が打ち寄せる波のように繰り返し思い起こされ、ピートの心を揺さぶって白いしぶきをたてます。

「あぁ、何て事をしてしまったんだろう。もしかしたら、あの手紙でベルの人生が変わったかも知れないのに。そんな手紙を無くしてしまうなんて、郵便屋として一番やってはいけない事をやってしまった。局長に知れたら僕はクビだろうか。明日、ベルに本当の事を言わなきゃ。ベルは悲しむだろう。僕は嫌われてしまうな…」

様々な考えがピートの頭の中を駆け巡ります。ベルの涙、輝く鳶色の瞳、トニオのいい加減な言葉、局長の怒声、百合の花のように広がるスカート。

ピートはベッドから身を起こし、窓際の椅子に座って、スパティフィラムの白い花弁越しに夜明け前の夜空を眺めます。

「リリー、僕はどうすればいいかな」

東の空はゆっくりと群青から藍色に変わっていきます。リリーはピートの問いかけに答えずに、薄い光をまとう夜明けの空に細長い花茎のシルエットを映しながら静かに佇んでいます。

不意にピートの心がざわめきました。そのざわめきはあっという間に大きくなって、ピートの心を覆い尽くします。

ピートは跳ねるように椅子から立ち上がると、薄いブルーのすっかり日に焼けた壁に背をつけている古い戸棚を開け、ペンとインク瓶を取り出して、戸棚の横の小さな物書き机の上に並べます。次に、ピートはクローゼットを開け、奥の方にしまい込んであった木箱をひっぱり出して、中から便箋を取り出します。

神妙な面持ちで机についたピートが、すっかり張り付いているインク瓶の蓋に力を込めると、乾いたインクが剥がれて蓋が外れます。ピートはペン先をインク瓶に浸すと、目を閉じて短く息を吐き出し、それから一気に便箋の上にペンを走らせます。

静かな朝、ピートの部屋にペン先が便箋を掻く音だけが響きます。

東の空がピンク色に染まる頃、ピートは書き上げた手紙を鞄にしまうと、自転車に跨がり、アパート前の坂道をブレーキをかけずに一気に駆け下りていきます。


昼前の噴水広場は今日も人でいっぱいです。広場の周りに立ち並ぶ商店では、店員達が週末の音楽祭の準備に追われています。広場の各所に垂れ幕や提灯が飾り付けられ、噴水の前では特設会場の設営が始まっています。普段とは違う街の景色に、市場を行き交う人達の足取りも自然と浮ついたものになります。

トニオと楽師達はまだ骨組みしかない特設会場のステージ近くに陣取り、音楽祭を目当てにやって来た観光客を相手に景気の良い曲を披露しては、いつもより多めに投げ込まれるチップを回収して回っています。すっかり暖まっている空気に満足気なトニオの目に、フローリスト・ベルへ続く路地から自転車を押して出てくるピートが目に入ります。

周囲を気にしながら市場の端に自転車を停めるピートに、普段と違う雰囲気を感じたトニオはいたずらっぽい笑みを浮かべると、わざわざ広場を大回りしてピートの背後に回りこみ、大声を上げながら肩に手を回します。

「よぉ、昨晩はよく眠れたか、兄弟(ブラザー)」

「あぁ、お前のおかげで寝不足だよ」

トニオの登場の仕方にもすっかり慣れたピートは驚きもせずに皮肉を返します。

「ふぅーん、寝不足ねぇ。しかし、原因は俺じゃなくて、他にあるんじゃないか」

物知り顔で呟くトニオの言葉に、ピートは手にした郵便物を落としそうになります。

「今日はいつもと配達ルートが違うんじゃないか、ピート。気になる誰かさんの顔でも覗きに行って来たのか」

「行ってないぞ。花屋になんて、行ってないぞ」

「はっはー、お前は嘘が上手いな。それで、ベルの様子はどうだったんだ。デートの約束くらいしてきたか」 

想像以上の反応にトニオが目を細めピートを問い詰めようとした時、澄んだ音色で二人の名を呼ぶ声がします。

「ピートさん、トニオさん」

ナラの木の公園に続く路地の先から、エプロン姿のベルが薄いピンクのワンピースを揺らしながら走ってきます。三回も二人の名を呼んだベルは息を切らしながら二人の前までやって来て、最後にピートの名前を呼んで息を整えます。

「お、おはよう」

ピートはどういうわけかベルを見ずに、視線を振り子のように右に左に動かしながら、口をモゴモゴさせて返事をします。トニオはピートとベルを交互に見ながら、わざといつもと同じ軽い調子で挨拶を交わします。

「やあ、おはよう、ベル。昨日のセッションは最高だったなぁ。どうしたんだい、息を切らして」

トニオの問いかけに、ベルが跳ねるように身を起こして、手にしていたものを二人の前に突き出します。

「来たの。リッテンバーグさんから返事が来たの」

ベルはすっかり興奮しきって息が整えきれず、切れ切れの言葉で伝えます。

予想外の事態にトニオは言葉を詰まらせ、ぐいっと首を捻ってピートの方を向きますが、ピートは相変わらず定まらない視線をぐるぐる回しながら、聞き取れない呟きを口の隙間から流し出しています。

「そうか、良かったね。本当、良かったね」

あからさまに不自然なピートの態度に事の次第を理解したトニオは、ニタリとお得意のしたり顔をすると、ベルの方に向き直して大袈裟に驚いた振りをします。

「えぇ、本当かい、ベル。あの高名なリッテンバーグ先生から返信があったってのかい。こいつぁ、驚きだぜ。それで、その手紙には何て書いてあったんだい」

「それがね、すごいの。リッテンバーグさん、私の悩みを理解してくれて、友達みたいに心配してくれたわ。まるで会って話したことがあるみたいに。それでね、努力を続けるべきだって言ってくれたの。夢は追い続ければ必ず叶うって」

ベルは鳶色の瞳をこれ以上ないくらいに輝かせながら、手紙を愛しそうに胸に引き寄せたり、高く掲げてうっとり見つめたりと目まぐるしく表情を変えます。

「あぁ、信じられない、あのリッテンバーグさんから手紙が届くなんて。一生に一度の幸運だわ。私はきっと今日で運を使いきってしまって、キャンディ・トイのおまけですら当たらないわね。でも、それでも全然いい。あのリッテンバーグさんが私を励ましてくれたのだから。ねぇ、トニオさん、ピートさん、リッテンバーグさんはまるで聞いたみたいに、私の悩みを知っていたのよ。何故かしら、きっと心が優しいのね。だから、あんなに素敵な曲が書けるのね」

「ふぅーん、なるほどねぇ。ベルの事を知っていたかの様にねぇ。いや、不思議だなぁ、ピート」

トニオはそっぽを向いているピートの襟首を掴んでベルの前に引き出すと、含みのある口振りで同意を求めます。

「あ、ああ、まったく不思議だ。なぜだろう」

「えぇ、本当に不思議。夢を見ているみたい。私、まだ夢の中にいるんじゃないかしら。あぁ、でも、これが夢なら一生夢の中にいたいわ」

ベルは目を閉じ手紙を胸に押しあてながら喜びを噛みしめています。ピートはそんなベルを見て、額から汗が一気に吹き出します。汗だくのピートを見て必死に笑いを堪えているトニオが、ベルが真剣な眼差しで二人を見ている事に気づきます。

「トニオさん、ピートさん、お願いがあります」

ベルの大きな鳶色の瞳の奥には、金剛石のように輝く強い意志が見えます。

「私、やっぱり歌いたい。私の歌でたくさんの人を感動させてみたい。そのために自分を変えていきたい。二人にその協力して欲しいの」

強い願い込めた言葉は、ピートとトニオの心に残響を残す程に強く響きます。

「もちろんだよ、ベル。どんなことでもやるさ」

感動に身を震わしたトニオが両手を広げてそう答えようとした脇から、先程までもじもじしていたピートが、身を乗り出してトニオの台詞を奪います。

「ありがとう、ピートさん」

良いところを取られたトニオは不満気に鼻を鳴らして、ピートを押し退け前に出ると、一層芝居がかった仕草で胸を張ります。

「そういう事なら、このトニオ様に任してくれ。なんたって俺はバンジョーの天才、芸術の神の申し子だ。すぐに君をスターにして見せるよ」

「ありがとう、トニオさん」

こんな恐ろしくいい加減な安請け合いですら、今のベルには好意的に聞こえます。

「ベル、俺達は友達じゃないか。友達の夢に協力するのに礼なんて要らないさ。なぁ、ピート」

「も、もちろんさ」

トニオがピートの肩を引っ張って自信たっぷりの笑顔を向けると、ベルはもう言葉が出なくなってしまい、瞳を潤ませながら二人の肩に飛びついていきます。

「私、本当に、もう…」

ピートとトニオは、二人の肩の間で溢れ出る感情を抑えきれずに震えているベルの身体が、落ち着きを取り戻すまで優しく支えます。しばらくして、気を落ち着けたベルは踵を広場の石畳につけると、下瞼の上に乗っている朝露のようなきらきらした滴を拭って、とびきりの笑顔を作ります。

「ありがとう。二人と友達になれて本当に良かった。私、頑張るよ」

ピートの目にベルの笑顔が大きく映りこみ、少し離れると小さく手を振って、ナラの木の公園に続く路地を小走りで駆けていきます。ピートは鼻の奥に残るベルの髪の香りが消えるまで、路地の先の日だまりを見つめていました。

「良かったなぁ。くっ、本当に良かった」

気がつくと、感極まったトニオが隣で鼻をすすっています。

〝何で、そこでお前が泣くんだ〟

ピートはトニオの単純さに呆れながらも、他人の幸せを一緒に喜びあえる純粋さを羨ましく思ってしまいます。こんなハチャメチャな男の回りに、いつも多くの人が集まるのは、皆この子供みたいな純粋さに惹かれているのだろうか。

そんな事を考えながら彫りの深いトニオの横顔を観察していると、視線に気づいたトニオが怪訝な顔をします。

「あ、そうだ。配達の途中だったな。いや、忙しいなぁ」

ピートが心の内に湧いた気持ちを悟られないように、トニオに背を向け仕事に戻ろうとすると、その襟首にトニオの長い腕が絡みつきます。

「おい、どこに行くつもりだ。偽リッテンバーグ君」

「な、何を言うんだ。僕はそんな手紙知らないぞ」

「はっはー、お前以外誰がいるんだ。悪いヤツだな、郵便屋が偽の手紙を書くなんて。上司に知れたら即刻クビだな」

「クビっ」

「ああ。でも、それだけじゃすまないぜ。警察に捕まるな。刑務所行きだ」

「刑務所っ」

鬼のような形相の郵便局長に怒鳴りつけられ、衆人の冷たい目線を受けながら、刑務所行きの護送車に乗せられる絵が頭に浮かんで、ピートの顔から一気に血の気が引いていきます。

トニオは狼狽するピートの様子がおかしくてたまりません。どんどん不安を煽ってはピートの顔をしなびた青ナスより青くして、まったく信憑性のない事を騒々しい市場にも響き渡るくらいの大声で言ってのけます。

「しかし、ピート。お前は運が良いな。俺は世界一口の硬い男だ。たとえ軍隊がやって来て拷問にかけようとも口を割らないさ。お前があの手紙を書いたってことはな」

「バカ。お前、声がデカイんだよ」

慌ててトニオの口に手を当てるピートの背中に、あの澄んだ音色が降りかかります。

「ピートさん、ピートさん」

ピートは喉から心臓が飛び出るくらいに驚きます。公園の日だまりに消えたはずのベルが、ピートの後ろに立っているのです。

「ら、らぁ、久ひぶりだね」

〝もしかして、今の会話を聞かれていたのか〟

焦りで正常に回らない頭と絡んだ舌が、意味のわからない言葉を発します。

「どうしたんだい、ベル。」

役に立ちそうにないピートの代わりに、トニオが涼しい顔で引き返して来た訳を尋ねると、再び切れた息を整えたベルが明るい声で答えます。

「ピートさん、一つ言い忘れていたの。夕方、また店に寄って欲しいの」

秘密の会話を聞かれてしまったかと勘繰ったピートでしたが、ベルの普段と変わらぬ様子に胸を撫で下ろしながら頷きます。

「えぇ、大丈夫ですよ。それじゃ、配達が終わったら立ち寄りますね」

ベルがこれ以上ないくらいに瞳を輝かせます。

「ありがとう。それまでに、リッテンバーグさんに返事を書くから」

「へ、返事ぃ」

撫で下ろした胸を倍以上の高さまで上げて、ピートがすっとんきょうな声を上げます。

「もちろん。リッテンバーグさんにお礼を言わないと。だって、きっとすごく忙しい中、私のために時間を割いてくださったんだもの。でも、どんな言葉で伝えればいいのかしら。今の気持ちを文章にしたら、きっと辞書より厚くなってしまうわ。あぁ、そんなの迷惑よね、手紙を読むのに三日もかかってしまうわ。うん、時間がないわ。早速机に向かわないと」

次から次へと感情のままに溢れ出てくるベルの言葉は、真っ白になっているピートの耳にはまったく入っていません。トニオは噛み合わない二人の様子を冷めた目で眺めて、ベルが会釈をして立ち去るのを見送ると、ぽかんと口をあけて石膏像のように固まっているピートの肩をつつきます。間抜け顔のピート像は、そのわずかな衝撃でもヒビが入り、崩れ去るように膝から倒れこみます。

「おい、しっかりしろ」

トニオは全身の力が抜けて、浜に打ち上げられたクラゲみたいにぐにゃぐにゃになっているピートの脇に手をいれて引っ張り上げます。

「お返事、お返事だなんて、どうすりゃいいんだ」

「どうするもこうするもないだろ。返事なんて赤子でも、オウムでもするさ。ほれ、口を開けてああと言え」

ピートの苦悩など、トニオにしてみれば歯に付いた乾燥パセリのかすよりどうでもいいものです。ピートの顎を掴んで引っ張り、無理に口を開けさせると、背中を平手で思いきり叩きます。

「うえっ」

喉の奥から潰れた声が出てきたのを見て、トニオは満足そうに頷くと、ピートの肩に手を回して耳元に囁きます。

「なあ、ピート。これはピンチじゃない。チャンスなんだ」

「チャンスだぁ」

「そうだぜ、恋の始まりに必要なものはトキメキだ。ベルの目を見たか、心がどこかに飛んでいっちまってる。まさに恋する少女の目だった。その相手は誰だ、手紙の差出人、つまりお前だ」

「ち、ち、ち、違う。僕じゃない。リッテンバーグだ」

「そうさ、偽リッテンバーグ、つまりお前だ」

トニオはピートにウィンクしながら、拳で軽くピートの胸をつつきます。

「ベルの才能を知ってから、この数年の間、俺は何度も一緒に音楽をやろうと誘ったんだ。でも、ベルは一度だって昼間の集まりには出てこなかった。その彼女が自分から音楽をやると言ってきたんだ。ベルは今勇気を出して、夢に向かって進もうとしている。俺達はそのサポートが出来る。やらない理由はないだろう」

トニオがいつになく真剣な顔になります。ちゃらんぽらんなトニオでも、こと音楽の話となると、目に光が入り、表情は一気に引き締まって、日に焼けた顔がぐっと魅力的になります。

〝芸術家はみんなこうなのだろうか〟

ベルの瞳の中に見た輝きと同じものをトニオからも感じ、ピートはベルがトニオに気を許している理由が分かった気がします。

「ベルに足りないのは経験と自信だ。俺は練習にぴったりの場所を探す。お前は手紙でベルを励まし続ける。ベルは夢を叶えて、お前とベルは親密になる。一石二鳥じゃないか」

「そんなに上手くいかないさ。それに、ベルに嘘をつく事になる」

それでも、リッテンバーグを演じる事に納得しきれないピートに、トニオが顔を近づけて強い口調で言い放ちます。

「ピート、これはお前が始めたんぜ。中途半端に投げ出すなら最初から何もするなよ。ベルが傷つくだけだ。やるなら終いまで嘘をつき通せ」

あまりに痛い所に釘を刺されて、ピートは息も止まってしまいます。ぐうの音も出なくなっているピートを見て、トニオは声色をいつもの調子に戻して、ゲラゲラ笑いながらピートの背中を叩きます。

「はっはー、あんまり深く考えこむな、兄弟(ブラザー)。嘘も方便、ようはバレなきゃ良いのさ。それじゃ、俺は心当たりのある場所をあたるからな。お前は一生懸命返信の内容を考えてろ。さぁ、忙しくなるぜ。じゃあな」

何やら楽しげな足取りで去っていくトニオを焦点の合わない目で見送っても、ピートはしばらくその場から動けずにいましたが、やがて、大きく肩を落として仕事の続きにとりかかるのでした。


その日一日、ピートはまったく仕事に身が入りませんでした。配達先を5回も間違えてしまい、その度に来た道を戻ったり、回り道をしたりで、フローリスト・ベルに着いたのはすっかり日も落ちた頃です。

ベルは辞書程の厚さになるはずの感謝の気持ちを、丸一日の時間をかけて何度も添削し便箋5枚の間に収まるように濃縮させると、遅いピートの到着を二階の窓辺で落ち着かない様子で待っていました。やがて、公園のナラの木の向こうに自転車のライトがちらつくのを見つけると、階段を急いで駆け下り、家の玄関から店先に出て、ピートが自転車を止めている公園の脇まで小走りで駆け寄ります。

一階の店舗では、グラント氏が組み上げたリースを窓辺に置き、少し離れた位置に立ち眼鏡をかけ直して、仕上がりを確認しています。グラント氏が目を凝らしてリースのバランスを確認していると、薄く開いたブラインドの間に見知った娘の後ろ姿が見えてきます。

〝店先に出るのに、何故玄関から出るのだろう〟

不思議に思っていると、店の灯りがかろうじて届く公園のナラの木の下に何処となく見覚えのある人影が出て来て、娘と何やら立ち話をしています。

〝あれは郵便屋か〟

グラント氏からは顔までは見えないのですが、ぎこちない動きと帽子のシルエットに相手の人物が分かります。向かい合って立つ娘の影は、時折肩を揺らして笑っているようにも見えます。天井からぶら下がる黄色い裸電球の明かりの下で、グラント氏はしばらく二つの影を見ていましたが、やがて、フンと鼻を鳴らすと、窓辺にかけたリースを拾ってブラインドを閉めます。

明かりの絞られたナラの木の下で、ベルは手紙を受け取りに来てくれたピートに何度も頭を下げ、自転車のライトが路地の影に消えて行くまで見送っていました。


その夜、寝つけないピートは部屋の灯りを消したまま、窓辺の椅子に座って、窓から見える街の明かりを眺めていました。

時折、思い出したように机の引き出しからベルの手紙を取り出しては、封を開けることが出来ずに、ただ美しい筆跡で書かれたその宛名だけを眺めて、ため息をつきながらまた引き出しに戻すのです。何時頃か、トニオらしき人物が何か喚きながら階段を上がって来て部屋の戸を叩いていましたが、気の乗らないピートが返事をしないでいると、床を踏みつけるような足音を立てて階段を下りて行きました。

窓の外の明かりが一つ一つと消え、街が一面黒いベールに覆われると、雲の間から差し込む薄い月明かりがスパティフィラムの花を白く輝かせ、窓から入る夜風はそのすらりと伸びた花茎を揺らしていきます。

「なぁ、リリー。僕はいつだって余計な事をして、しなくていい後悔ばかりしているよ」

ピートはまた引き出しから手紙を取り出し、表面にしたためられたリッテンバーグとベルの名を交互に見返します。

「返事を書いたのが僕だと知ったら、ベルは何て言うかな。きっと二度と口を聞いてくれないな。でも、返信が止まったらベルはやっぱり悲しむよな。あぁ、何であんな事をしてしまったんだろう」

リリーは無言のまま、夜風に揺られています。

自らが招いた災いで苦悩する主人の姿を蔑んでいるのか、憐れんでいるのか。

芯まで冷えた身体が身震いして、夜が深いことを教えます。ピートは重い腰を上げ窓に鍵をかけると、手紙を机の引き出しにしまいこんで、几帳面に折り畳まれた毛布とベッドの間に入りこみます。薄い毛布の下で目を閉じると、連日の寝不足がすぐにピートを夢の世界へと連れていきます。

月明かりの差し込む部屋に静寂が訪れ、やがて微かな寝息が聞こえてくる頃、緩やかに傾きを変えていく月明かりにその身を晒していたリリーが、深い群青の空に浮かぶ満月に向かってその花茎を真っ直ぐに伸ばし始めます。

月に祈りを捧げるように首を伸ばしたリリーは、次に、大きく広げた羽状の葉の一枚一枚を上下に揺らしていきます。羽ばたきのようなその動きは次第に早く、激しくなり、そのうちに部屋全体に渦を巻くつむじ風を起こします。

リリーの起こした不思議な風は、窓もベッドも机も揺らして、グラスも靴もインク瓶もありとあらゆるものを巻き上げていきます。部屋の中で起きている天変地異も、どういうことかピートの耳には届かないらしく、回転するベッドの上で安らかな寝息をたてています。

リリーはつむじ風に乗って宙に浮くと、物書き机の上まで飛んでいき、足が欠けバランスの悪くなった机を風で揺らします。古い机が観念したように引き出しを開けると、リリーはベルの手紙を宙に巻き上げ、窓辺に戻って葉の先を使って窓の鍵を開けます。鍵が外れた窓はリリーの起こす風で勢いよく開き、リリーとベルの手紙は窓を飛び出し、群青の夜空へと舞い上がっていきます。

誰も起きていない夜の街を、美しい白い花と一枚の手紙が踊るように漂います。家々の間を抜けて、教会の鐘楼を周って、広場の噴水に映る丸い月に影を落として、雲の上に広がる星空の世界まで。

数えきれない星々の光の間を、リリーは一直線に進んでいきます。

漆黒の闇の中を短い光の筋になって流れていく星達。それはリリーが見ているのでしょうか、ピートが見ているのでしょうか。

何処からか、この世のものとは思えない程に美しく、遠い昔に聞いた事のあるような懐かしい音楽が流れてきます。その音はどんどん大きくなり、呼応するように周りを取り囲む幾千万の星達が瞬き始めます。そのうちに、音と光のつくる規則的な揺らめきは星の川となって、ピートの足元を流れていきます。

ピートは脛から下を星の川に浸しながら、リリーとベルの手紙を抱えて、永遠に続く光輝くすすきの原を眺めていました。星の川の遠くの方では、黒く大きな魚が跳ねて、空の星達を大きな口で飲み込み、また光の川に落ち水面に浮かぶ星を揺らします。ピートの目の前ですすき野が大きく揺れて水鳥が飛び出し、光の羽を撒き散らしながら、西の空で星座となって消えていきます。

ピートが星の川の上流に目を向けると、光の水面と漆黒の空の狭間から、赤や緑、黄色の光が湧き出て、そのうちに一つの塊になって流れて来ます。光の固まりは近づくにつれ徐々に形を作り、目の前に来る頃には白鳥を型どった船になります。白鳥の船の上では、異国の服を着た楽団が一糸乱れぬ動きで演奏をしており、その前で楽団に向かい合うように立っている一人の老紳士がタクトを振りかざして指揮を取っています。

老紳士のタクトが揺れる度に新しい音色が生まれ、その音達は一つの生き物のように右に左に身体を燻らせながら美しい音楽を作り出します。白鳥の船が楽団を乗せてピートの前を通り過ぎようとした時、ピートは指揮をとる老紳士の顔に見覚えがあることに気がつきます。

「ジェフリー、ジェフリー・リッテンバーグ」

きっちりと撫でつけた白髪交じりの髪と、整えた巻き髭、音楽祭のポスターの写真と同じ横顔です。

「おい、待ってくれ、リッテンバーグさん」

ピートは白鳥の船を追いかけ川の中へと入っていきますが、川の流れは速く深く、思うように進むことができません。

「リッテンバーグさん、貴方に話したい事があるんです」

ピートは流れに逆らいながら腰の上の辺りまでを水面に入れますが、それからは立っているのがやっとで一歩も前に進めません。白鳥の船は速度を変えずにゆっくりと下流へと流れていき、やがて、また光の塊になって空と水面の合間に消えていきます。

ピートはリリーを抱えて、何もできないまま、ただ呆然と船の消えた方角を見つめていました。頭の中には美しく懐かしい音楽の残響が響いています。


ピートが目を開けると、アパートの部屋のモノトーンの光景があります。いつもと変わらない室内、窓から入る月明かりが壁にかけられている帽子と制服を照らし、棚の上の小物は等間隔で並べられています。

心に引っ掛かりを感じたピートは上半身を起こして、もやのかかった意識で室内を見渡しますが、すぐに何を気にしていたのかも忘れて、身体をベッドに投げ出し毛布を被って目を閉じます。

開いている窓から入る夜風が、リリーの白い仏炎苞を揺らして、ピートの耳に微かな旋律を運びます。ピートは遠くなっていく意識の中で、あの懐かしいメロディを聞いた気がしました。

夜風はリリーの座る窓へと続く坂道の上を滑るように上がってきます。坂道の途中、街灯の下の足休めの長椅子に、体を折り畳むように前屈みに座る小さい影があります。

影の人物は、街灯のオレンジの灯りを避けるように帽子を目深にかぶり、くたびれた背広を肩にかけ、像のように少しも動かずに、手先の動きで口元にあてたハーモニカを鳴らしています。足元には獅子の浮き彫りが施された酒ビンが落ちていて、オレンジの灯りを反射させて夜の空より深い影を作ります。

街が目を覚ますには、もう少し時間が必要です。ピートの夢も、ハーモニカの旋律も、誰も知らないままに夜が過ぎていきます。

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