第7話 真夜中のダンス

ベルが裸足で噴水広場にやって来ます。トニオは噴水の水に顔を映して明るい笑顔を作ると、大袈裟な手振りでベルを出迎えます。

「やぁ、ベル、今夜の君は星空の中に輝くシリウスよりも美しいね」

「トニオさんはいつも冗談ばっかりね」

噴水の影に小さくなっているピートは、ベルの声が昼間店のカウンターで聞くものより数段明るいことに気づきます。

「ん、ベル、片方の靴はどうしたんだ。ああ、そうか、酔っぱらって窓から投げたんだな」

「うふふ、それがね…」

ベルが弾んだ声で、楽師達に今夜の脱出劇が如何に困難で危険なものであったかを説明しています。時折、歌うような笑い声も聞こえてきます。

ピートは噴水の影から顔を出して、遠目からベルの様子を伺います。片方の靴を振り回しながら自身の武勇伝を語るベルの横顔は、花壇の花に水を差す彼女とは違った魅力を持っています。ピートの心臓が一つ大きな音をたてます。

自分の知らないベルの一面を盗み見ている事に罪悪感が湧いたピートが目線を手元に戻すと、びりびりに破けた手紙がさらに心を重くします。

「どうしてこんな事になるんだ。彼女を元気づけるはずだったのに」

破れた手紙を見て悲しむベルを想像して自責の念に駈られるピートを余所に、ベルと楽師達はすっかり支度を整えてトニオの合図で演奏に入ります。

「ようし、それじゃ一曲いこうぜ。エバーグリーンからだ。ロイ、カウントを入れてくれ」

ロイが抱えているコントラバスの表板を弾いてカウントをとると、楽師達は息の合った演奏を始めます。

明るく調子の良い伴奏に合わせて、ベルが歌い始めます。その声は春の野にそよぐ風のように心地よく、曲が進むにつれ、力強くなっていきます。ベルの小さい身体の何処にこの強さが潜んでいたのでしょうか。喜びに満ちた歌声は、噴水の影で塞ぎ込んでいるピートの耳にも届いて、後悔の淵に沈む心をスミレの花咲く春の野へと連れていきます。

いつの間にかピートは、暖かな日差しの降り注ぐ野原の上を、タンポポの綿毛に乗ってふわりふわりと漂いながら飛んでいます。タンポポの綿毛は音楽の風に吹かれて、空高く舞い上がり、今にも雲に届きそうです。ピートがわたあめのような雲に手を伸ばすと、雲はにょきにょきと伸びて、次第に何かの動物に近い形に変わって、ピートの目の前でメェと鳴きます。

「ひぇっ」

夢から覚めたピートが、鼻先が触れる程まで迫って来ているメリーの顔に悲鳴を上げます。物陰からした声に驚いたベルが歌うのを止めて声のした方を向くと、噴水の縁から頭だけ出して、片手で自分の口を、もう片方の手で仔ヤギの口を抑えているピートと目が合います。

「や、やぁ、ベルさん、こんな所で会うなんて奇遇ですね」

ピートが明らかに不自然な仕草で偶然を装います。子供でも騙せないような演技力でしたが、はしゃいだ姿を見られた恥ずかしさで頭がいっぱいなってしまったベルは、ピートの方をまともに見ることができずに下を向いてしまいます。すかさず、トニオが二人の間に入り、大袈裟な手振りで場を取りつくろうとします。

「よぉ、ピート、遅かったじゃないか。ベル、紹介するぜ、親友のピートだ。こいつ音楽が死ぬ程好きだっていうから、今夜のセッションに招待したんだ。なぁ、そうだろ」

ピートの脇を肘でつついて、トニオが話しを合わせるように合図を送ります。

「あ、あぁ、そ、そうだよ」

「こんばんは…」

緊張で裏返った声で相槌を打つピートに、ベルは俯いたままで口ごもった挨拶を返すのがやっとです。トニオは噛み合わない二人の顔を交互に見比べて、ピートの肩を掴まえて耳打ちします。

「おい、手紙の件の言い訳は思いついたのか」

ピートは身体を硬くしたまま、プルプルと短く首を振ります。

「よし、それなら何も言うな。褒めろ、とにかく徹底的に褒めろ」

分かっているのか、何も聞こえていないのか、とにかくピートは首をめちゃくちゃに振り続けます。

「あぁ、調律がいまいちだったなぁ。もう一度音合わせしなくちゃなぁ」

トニオはわざと大きな声で言うと、ピートの背中を押し出すように叩いて、楽師仲間の方へ歩いていきます。ピートはよろけながらベルの前に進むと、さらに身体を硬くして、気をつけの姿勢で俯くベルの頭を見下ろします。月の光が櫛を通された行儀の良い髪の分け目で反射するのを見て、ピートは心の底から綺麗だと思います。

少し離れた所では、楽師達が音合わせする振りをしながら、チラチラと二人の方を見ながら事の成り行きを見守っています。

「あんな二人で大丈夫かよ」

パーカッション担当のテッドがニヤニヤしながらトニオに問いかけますが、トニオはその質問に答えずに、バンジョーを抱えて噴水の縁に腰掛けると、調律する振りをしながら二人の会話に全神経を集中させます。

「あの…」

ピートがベルの頭の上で引きつった声を出します。

「歌が、大変、お上手ですね」

「いえ、私なんて」

ベルはまだ顔を上げられずに、スカートの裾をもじもじと握り潰しています。二人の間にまた会話のない時間が流れます。

「おいおい、何か言えよ」

聞き耳を立てていたテッドは、二人の微妙な空気に笑いが堪えきれません。コーラス隊の3人娘もやきもきしながら、代わる代わるに二人に視線を送ります。

「あ、あの、ベルさん」

ピートが微妙な空気を変えようと、先程よりはっきりした声で話しかけます。

「はい」

名を呼ばれたベルが何とか視線を上げてピートの顔を見上げますが、ピートの目にその美しい鳶色の瞳が映った瞬間に、今度はピートが顔を背けてしまいます。

「本当に、歌が、お上手です、ね」

あらぬ方向に視線を向け、壊れた蓄音機のように同じ言葉を繰り返すピートに、楽師仲間達から落胆のため息が出ます。

「ええい、もっとしっかりせんか」

ロブまでが小さい声で発破をかけます。

静まり返った夜の広場で、噴水の水が落ちる音だけが聞こえます。薄い月明かりが水面で跳ね返りベルの顔を下から照らすのを見ながら、ピートは頭の中に浮かんだ言葉を搾り出します。

「あの、もし、よろしければ、もう一度歌を聞かせてもらえませんか」

その言葉にベルがハッと顔を上げ、今度は真正面からピートを見つめ返します。ピートは瞬間、鳶色の瞳に希望と不安がよぎるのを見ました。

ピートの言葉に嘘はありません。本気でベルの歌を聞きたいと思って言っているのは、ベルにも十分に伝わります。しかし、今のベルにとって、その言葉は最も聞きたくない言葉でした。ベルの脳裏に再び昼間の記憶が甦り、心の奥の方から黒い雨雲が湧き上がります。

「ごめんなさい、私、歌えない」

消え入りそうな声で伝えるベルの瞳は深い悲しみの色に染められ、スカートを握る手が小刻みに震えます。

「あぁ、兄貴、駄目だよ。ベル、泣いちゃいそうだよ」

「うるせぇぞ、ロイ。黙って見てろ」

騒ぐロイをたしなめなるトニオも、さすがにお腹の辺りがむずむずしてきます。

〝くそっ、ピート、しっかりしやがれ〟

トニオも楽師達も動くのをためらう重い沈黙の中で、ベルの瞳の端に涙の滴が浮かぶのを見た時、ピートの中で何かが弾けました。

「それなら」

ピートは一歩前に踏み出し、スカートの上で震えているベルの細い手を握ると、二人の顔の間まで掬い上げ、ベルの瞳を強く見つめます。

「それなら踊っていただけませんか。僕はダンスは上手くありません。そんな僕でも良ければ、一曲だけ」

ピートの瞳は夜の海と同じ吸い込まれるような漆黒で、ベルの心は海の底へと沈んでいきます。黒い海の中では余計な音は聞こえてきません。握られた手から伝わるピートの体温と、強く波うつ心臓の鼓動だけがベルの感覚を支配します。小刻みに震えていた体が、生暖かい海水の浮力で軽くなるのが分かりました。

ベルは何も言わないまま半歩後ろに下がり、握られた手を一度離すと、ピートの手の平にそっと手を置き直します。

ベルが小さく頷きます。

「あ、兄貴、やったよ」

「やるじゃねぇか、あの野郎」

二人を取り囲む空気の変化に楽師達が色めき立ち、トニオも胸の手前で小さく拳を握ります。

「さぁ、俺達の出番だぜ」

楽師達はトニオの声にそれぞれの楽器をとると、カウントを取らずに一気に演奏に入ります。四つの楽器の音はすぐにピタリと重なり、緩やかなワルツの旋律となって、噴水の前で手を取り合うピートとベルの元に届きます。

ゆっくりと誘うように、ベルの裸足の右足が半歩下がり、その動きに合わせて、ピートが左足を前に出します。二人は視線を合わせたまま、ピンと糸を張ったように同じ距離を保っています。

一歩、また一歩、ベルの足はついてくるピートの動きを確かめながら、振り子のように前後に揺れます。ピートはベルの足跡を追いながら、少しづつ、少しづつ速度を合わせ、いつしかまったく同じリズムを取ります。

流れ落ちるしぶきが月光を弾く噴水の前で、スカートの裾が波打ちながら白く輝きます。ベルは湧き上がってくる感じた事のない高揚感に、時間も、どのステップを踏んでいるのかも忘れて、ただ耳から入ってくる旋律にその身を任せています。ピートは目の前で微笑む大きな鳶色の瞳を優しく見つめながら、覚えたてのステップで、揺りかごを揺らすようにベルの体を揺らします。

曲は佳境を迎え、二人の心は夜空に舞い上がり、白い草原のような雲の上を滑るように踊り続け、やがて消えてゆく演奏とともに噴水の前へふわりと降り立ちます。

ピートも、ベルも、楽師達も誰一人動かず、静止した時間の中で水音だけが流れていきます。ベルの裸足の足が石畳の冷たさを感じる頃、止まっていた時計の針がゆっくりと動き出します。


「それでね、私とっさに片方の靴を父さんの手に握らせちゃったの。そしたら、どうしたと思う。信じられないけど、お父さん、靴を本と間違えてお腹に乗せちゃったのよ」

ベルは噴水の縁で、上気した息と胸の鼓動を夜の空気で冷ましながら、緊迫の脱走劇をピートに語っています。トニオ達は二人の邪魔にならないよう、適度な距離をとった所で輪になって先の演奏の講評をしています。

ピートはベルの髪の微香を感じながら、笑顔を向けるベルに手紙の件を話すタイミングを待っています。

「きっとお父さん、起きたらびっくりするだろうな。今度こっそり家を出るときは、靴を二足持っていくようにしないといけないわね」

目の前で少女のようにはしゃぐベルを自分の失敗で悲しませてしまうのかと思うと、ピートは後悔で胸が締めつけられます。

「ベル、君に謝らなければいけない事があるんだ」

ベルの話が終わるのを待ってから、ピートは喉につかえていた言葉を絞り出します。

「あの、手紙の事なんだけど、実は…」

「ごめんなさい」

ピートの言葉をベルが悲痛な声で遮ります。自分が言わなければならないはずの言葉を、先に口に出された事にピートが驚いてベルの顔を見返します。

「見つからなかったんですよね。あるかどうかも分からない手紙でした。無理なお願いをしてしまってごめんなさい」

「あ、いや、ベルさん」

慌てて訂正しようとするピートでしたが、涙をためて俯くベルには自分の言葉が届いてない事に気がつきます。先刻まできらきらと輝いていた美しい鳶色の瞳を、いったい何がそこまで悲しませるのか。ピートはアパートの四階から抱えて来た疑問の答えを知りたくなります。

「ジェフリー・リッテンバーグって、確か作曲家だよね」

ピートの問いかけに、ベルが頷きます。

「私が小さい頃に母がよく歌っていたの。とても綺麗なメロディで、私はその曲がすごく好きだった。それがジェフリー・リッテンバーグさんの曲」

月光が揺れるまつげの上で跳ね、憂いを帯びたベルの横顔を照らします。

「私ね、歌を歌うのが好きなの。いつか自分の歌でたくさんの人を幸せに出来たら、どんなに素敵だろうと思う。でもね、どうしてもダメなの。人前に立つと、急に歌うのが恐くなって、声が出なくなるの」

震える声で話すベルの肩が小刻みに揺れて、瞳の端から大粒の涙が溢れ、白い頬を伝って大理石の床を濡らします。ピートは膝の上に揃えられたベルの手に、自分の手を重ねて、スカートに落ちる涙が丸い染みを作るのを見ていました。

「それで、リッテンバーグさんに手紙を書いたの。もし、尊敬するリッテンバーグさんから一言でも励ましの言葉を貰えたら、少しでも勇気が出るんじゃないかと思って…」

途切れ途切れに話す言葉は、どんどん小さくなって、やがて嗚咽に変わっていきます。

「今日、音楽祭のコンテストの選考があったの。でも、やっぱり、ダメだった。私、頭が真っ白になって、何も分からなくなって…」

その先の言葉はもう聞き取れません。

ピートは掛ける言葉が見つからず、何も言わずに重ねたベルの手をそっと握ります。

楽師達もそれぞれの楽器を抱えた姿勢で一言も発せずにいます。やがて、小さくなった嗚咽が噴水の水音にかき消されていきます。

「もう、帰らないと」

どれ程の時間が過ぎたのか。長い沈黙の後、ベルが顔を上げます。その声は心なしか先程より弾んでいるようにも聞こえます。

「そうだなぁ、そろそろお開きにするか」

トニオの言葉に楽師達がそれぞれの腰を上げます。

「話しを聞いてくれてありがとう。ピートさん」

涙と一緒に胸のつかえも流れたのか、ベルは少し気を取り直した様子で噴水の縁から跳ねるように立ち上がり、くるりと振り向くとピートに笑顔を向けます。鳶色の瞳に輝きが戻り、白磁の陶器のような肌にもピンク色のほんのりとした生気が宿っています。

「いや、僕は、何も」

向けられた無作為の笑顔に上手く反応できないピートに、ベルはぺこりと頭を下げて足元の靴を拾います。

「また明日ね、ピートさん、トニオさん」

ベルは澄んだ声でそう言うと、片方の手に靴をぶら下げ、月明かりの広場を裸足で渡って、路地の一歩手前でスカートの裾を揺らしながら一回転すると、路地の暗がりへと消えていきます。宙を泳ぐ細く長い指先から、花が開くように広がって回転するスカートのひだの一つ一つまで、その全てが一コマづつ瞼の裏に焼き付いて、ピートはたぶんこの一瞬を生涯忘れないだろうと思います。

ピートの脳がその衝撃的な一瞬を何度も繰り返し再生している所に、突然、レコードの針を引っ掻いたようなノイズが入ります。

「はっはー、やるじゃないか、ピート。さすが俺の見込んだ男だ」

すぐ隣で発せられた大声に夢から現実に引き戻されたピートの肩に、何とも軽いトニオの腕が絡みつきます。

「まあ、これも恋事の神トニオ様の手引きがあったおかげだけどな。何にしても、これで二人の距離が近づいたわけだ」

鼻の穴を最大限まで膨らませながらトニオが目配せをして見せます。ピートは嫌な予感がしました。トニオ劇場の再開です。

「さぁ、ここからが大事な所だぜ。恋は駆け引きだ。ポーカーみたいなもんさ。押して引く、引くように見せて押していくんだ。焦りは禁物だ。今、ベルの心にはようやく恋の火種が宿った所だ。ここは焦らすくらいがいいんだ。その火種が燻り続け、身の内を焦がすくらいの熱さになるまで。〝ああ、この胸の熱さはどこから来るの。私、気がつけばピートさんの事ばかり考えているわ〟」

「ああっ」

トニオのお得意の寸劇を遮ってピートが大声を上げます。

「あ、何だってんだよ」

盛り上がってきたところを邪魔されたトニオが不機嫌な顔で振り向くと、ピートが額に手をあて肩を落としています。

「手紙の事を伝えられなかった」

振り返してきた後悔の念に頭を押さえつられ立っているのもやっとのピートでしたが、トニオはそんなことは気にも留めずに軽い口調で言い放ちします。

「手紙だぁ、そんな事忘れちまえ。ベルも、もういらないって言ってただろ。手紙なんて元から無かったんだよ。ジェフリー・リッテンバーグは高名な音楽家だ。ファンの一人一人にいちいち返事なんて書かないさ」

トニオは崩れ落ちそうなピートの肩を強引に引き上げて、ピートを引きずって歩き始めます。

「いやぁ、我ながら素晴らしいセッションだった。よし、部屋に帰って飲み直すぞ。純情一途のピート君に恋の進め方を教えてやる。酒代はもちろんお前持ちだ、なぁに安いもんさ」

上機嫌のトニオが長い手足を振り回しながら、夜の広場をピートを引きずって渡っていきます。二つの影は右に左に揺れながら、通りの街灯の間へと消えていきました。

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