第6話 ピートの災難

フローリスト・ベルの前の小さな公園は、夜の静寂に包まれています。

公園の周囲を取り囲む家々の窓はとうに閉められ、一人立つナラの木は薄い月明かりを頼りに石畳に影を落としています。ベルは自室の出窓の窓枠に背中をもたげて、ナラの枝が揺れるのを眺めていました。大きな鳶色の瞳は深く瞼に覆われて、細くカールするまつげの先が月明かりを弾いています。

一陣の風がレースのカーテンをたなびかせ、カーテンがベールのようにベルを包み込みます。ナラの木が葉を揺らしてざわめく音が、ベルに昼間の待合廊下の光景を思い出させます。

レースのカーテンは揺れる度に自身の影を映して、それはどんどん大きくなって、複雑に分裂し、ベルの周りを取り囲んで回り始めます。廊下を埋め尽くすざわめき、泣き喚く若い娘の声、嘲笑する影、耳を塞いでうずくまるベルの後ろから聞こえる扉の閉まる音。恐怖に震えながら声一つ出せないでいるベルの周りで、影達はさらに大きく高く伸びていきます。

「次、21番、ベル・グラント」

影の一つがベルの名を呼びます。氷のような冷たい声は昼間の女史のものです。

「みすぼらしい服ね」

「お前の番だ」

鉄を掻くような甲高い声が一斉に響き始め、影達は塞いだ指の隙間からベルの耳に滑り込み、頭の中を真っ黒な雲でいっぱいにします。もう何一つ考えられなくなってしまったベルは、レースのカーテンの真ん中でただただ小さく震えているだけです。

「ベル、ベル」

聞き慣れた心地の良い声と肩に置かれた手の暖かさが、ベルの意識を現実へと引き戻します。気がつくと隣にグラント氏が立っていて、心配そうな顔でベルの顔を覗き込んでいます。

「お父さん」

視線の先にある父の娘を気づかう瞳が、ざわめき立った心を急速に鎮めて、頭の中の黒い雲を消し去っていきます。

「大丈夫かね。うなされていたぞ」

グラント氏の無骨な手がベルの背中に置かれます。母を亡くしてからの数年、何度この手のひらに助けられたことか。無愛想で、やもすると人から誤解を受けやすい父親の心の暖かさを、ベルは誰よりも知っています。

「ううん、何でもないの。ちょっと夢を見ていただけ」

ベルは優しい父を心配させないよう、うっかりするとこぼれてしまいそうな涙を堪えて無理に明るい笑顔を作りますが、その瞳はすぐに光を失って、また窓の外へと向いてしまいます。普段と違う娘の様子にグラント氏は何かを言おうと言葉を探しますが、結局何も言わずに娘の見つめる窓の外のナラの木を一緒に見つめます。

公園のナラの木が二人の視線に気付いて、微笑み返すようにその身を揺らします。ナラの木は常にグラント家の家族の思い出と共にありました。夜風に枝葉を揺らす音は遠い潮騒にも似ていて、二人の間に幸せの記憶を運んできます。

ベルの母は快活な人柄で、店に来る皆にいつでも笑顔を振り撒いていました。その真夏のひまわりのような笑顔が見たくて、朝早くからナラの木の下で開店を待つ人がいたくらいです。気配り上手で人当たりの良い母と、職人気質で質の高い仕事をする父、母のいた頃のフローリスト・ベルはいつでも笑い声に満ちていました。ベルは母の背に負われながら聞いた花の名と、母がよく口ずさんでいた歌のメロディを思い出します。

「夜風にあたっていては体を冷やすよ」

「うん、ありがとう。お父さん」

グラント氏はナラの木が娘の心を慰めてくれたことを知ると、出窓に身を乗り出し両開きの窓を閉めます。

「もう遅いから、早く寝なさい」

「はぁい」

ゆっくりとした足で部屋を出ていく父の言葉に気のない返事を返しても、ベルはまだ窓の外を眺めています。グラント氏の足音が階段の下に消えて、しばらくたった後、ベルは目を閉じ大きく息を吐くと、窓辺から立ち上がりボタニカル柄のカーテンをまとめているラッセルに手をかけます。

ベルがカーテンを引きかけた時、ナラの木のざわめきとは違う音が微かに耳に入ります。手を止めたベルが公園の先の闇に目を凝らすと、噴水広場へと続く路地の影から、小柄の老楽師がお腹に抱えたアコーディオンを弾きながら、ゆっくりと歩いて来るのが見えます。ベルはすぐにそれがロブだと分かりました。

ロブは二階の窓にベルの姿を見つけると、ニコリと笑って公園のベンチに腰を降ろして演奏を続けます。ベルは両開きの窓を薄く開いて、窓辺に肘をつきながらアコーディオンの音色に耳を傾けます。四方を住宅に囲われている箱庭のような空間に月明かりとアコーディオンの古く懐かしい旋律が充満していきます。小さな公園の中で音が跳ねて、草木が楽しそうに笑います。

フローリスト・ベルの二階から眺めるベルは、まるで長い間忘れていた玩具箱を開くかのような高揚と郷愁の入り交じった気持ちになります。老楽師の演奏が終わる頃には、ベルの心に残っていたモヤモヤした霧もすっかり晴れていました。

鍵盤から指を離したロブはベンチから立ち上がって、二階の窓の観客に向けて一礼します。ベルは鳶色の瞳を輝かせながら、父に気付かれないように指先だけの音のない拍手を返します。

ロブは万雷の拍手に満足の笑みを浮かべると、ベルに手招きを送ります。ロブの意図を理解したベルは笑顔で頷くと、窓を閉め部屋を出ます。廊下に出たベルは音をたてないように扉を閉めると、脱いだ靴を両手に持って、つま先立ち歩きで階段を下りていきます。

階段は一階のリビングに繋がっており、家の玄関へはこの部屋を抜けて行きます。リビングではグラント氏が火の付いていない暖炉の前の藤製の椅子に背中を預け、読みかけの本をお腹に乗せたまま居眠りをしています。ベルは階段の影から父親が寝ているのを確認すると、身を小さくしてソファーの影に隠れながら、グラント氏の後ろを通り抜けようとします。

ベルが四つん這いに近い格好で、ソファーを越え、グラント氏の眠る藤製の椅子の後ろに差し掛かった時、小さく丸いお腹の上で開かれていた本がベルの目の前に落ちて大きな音をたてます。

「ひっ」

思わず出てしまった小さな悲鳴に、ベルは慌てて口を抑えます。

ベルの頭の上辺りでグラント氏が低い呻き声を出しながら、落ちた本を拾うために体を反転させ床に手を伸ばします。まだ眠りの中にいるグラント氏の腕はもぞもぞと床を這い、落ちた本の方には行かずベルの顔へと向かってきます。

それだけが別の生き物のように這い回る指先がベルの額に触れそうになった時、ベルは思わず持っていた靴を手に引っかけます。手応えを感じたグラント氏の手は、感覚の違いに戸惑うように一瞬動きを止めますが、すぐに何事もなかったかのように片方の靴を拾い上げると、小さく上下しているお腹の上に戻って動かなくなります。

グラント氏のいびきが再び始まったのを確認すると、ベルはさらに身体を小さくしながら四つん這いで居間を抜け、片足を裸足のままで玄関から出て行きました。


中央広場の噴水ではピートとトニオ、楽師達が、ロブがベルを連れて来るのを待っています。噴水の縁に腰かけて調律しているトニオの前を、ピートが動物園の檻の中の猛獣のようにうろうろと歩き回っています。

「トニオ、やっぱり帰ろう。時間も遅い。ベルさんは来ないよ」

「なんだよ、ピート。今さら怖じ気づいたのか」

「こんな時間に女性を呼び出すのは失礼だよ。グラントさんも許してはくれないだろう」

「ベルなら来るさ。いつも会ってる」

落ち着かない様子のピートにトニオはさらりと言い返します。

「いつもって…」

「とにかく黙って待てよ」

バンジョーの調律に夢中でピートの言葉など耳に入らないトニオの代わりに、弟分のロイが答えてくれます。

「ベルは俺達の音楽仲間なんだ。ベルはボーカルで、よくこの場所でセッションしてるんだよ。あの娘の歌を聴いたらあんたもおったまげるぜ」

ピートは午後の日差しの中で聞いたベルの歌声を思い出し、話の半分を飲みこめた気がしますが、残った疑問をロイに聞き返します。

「それなら、何でこんな夜中にやるんだ。もっと明るいうちにやればいいじゃないか」

「ベルの親父さんがあんまり良い顔しないのさ。それに…」

「ああ、そうだ」

ロイが何か言いかけた所で、トニオが思い出したように大声を出します。

「ピート、お前、ちょっと隠れてろ」

トニオがピートの肩を掴んで噴水の影に引っ張っていきます。

「何で隠れなきゃいけないんだ。ベルさんに手紙を渡すんだろ」

「ベルは上がり症なんだ、俺達以外の人前じゃ歌えないのさ。それに、こういうのはムードが大事なんだよ」

トニオはピートを噴水の裏側にある獅子を型どった彫像の陰まで連れてくると、テッドが像に繋いだメリーの横に座らせます。

「いいか、今から作戦を伝えるからしっかり聞けよ。まず俺達がいつも通りにベルを出迎える。〝やあ、ベル。今夜の君は夜空に輝く月のように美しいね″〝嫌だわ、トニオさん。冗談ばっかり〟」

「おい、トニオ、余計なところは省けよ」

在らぬ方向に盛り上がっていくトニオの寸劇にピートが口を挟むと、隣にいたメリーもメェと抗議の声を上げます。トニオは一瞬不満そうな顔をしますが、すぐに機嫌を取り直して独りよがりの芝居を続けます。

「とにかくだ、俺たちはベルといつも通りに一曲合わせる。ムードのある曲だ、彼女の心も自然と盛り上がる。彼女が歌い終わったところで、お前が拍手をしながら現れる。〝美しい歌声に誘われてしまった、まるで芸術の女神ミューズが舞い下りたのかと思ったよ。ベル、まさか君だったなんて〟」

「そんな歯の浮くような台詞言えるか」

「いちいち茶々を入れるな。お前は知らないだろうが女は褒め言葉に弱いもんだ。そこで、お前はベルの瞳を見つめてこう言うんだ。〝ベル、君に渡したいものがあるんだ〟ちゃんと手を握るんだぞ。恋の始まりはさりげないボディタッチからだ」

トニオの寸劇はさらに熱が入り、獅子の像の前足を強く握りしめながら、ポケットから指輪でも出てきそうな程の真剣な瞳で、襲いかからんとしているポーズの獅子の目を見つめます。真夜中の噴水で繰り広げられる間の抜けた一人芝居を、ピートとメリーが目を紙のように薄くして聞き流しています。

「情熱的に見つめるんだぞ。優しく、強く、あなたが好きですと訴えかけるんだ。ベルは戸惑いと恥じらいを見せる。そこで、すかさず手紙をそっと渡すんだ。〝君の笑顔が見たくて、倉庫中の棚を全てひっくり返してきたよ〟〝まあ、ピートさん、私の為にそんな事を〟〝ベル、君のためならこの程度の事なんて苦にもならないよ〟〝まあ、ピートさん〟〝ピートと呼んでくれないか″ おい、ピート、ちゃんと聞いてるか」

「え、ああ、もちろんさ」

ちょうど大口を開けているところでトニオが振り返ったので、ピートは出掛かったあくびを奥歯で噛み殺します。メリーはとっくに芝居に飽きて、そっぽを向いてピートの荷物を鼻でつついて遊んでいます。

「ピート、ピート」

「ちゃんと聞いてるさ」

声高に呼ぶトニオに、ピートが面倒臭そうに答えます。

「違う、メリーだ。手紙を咥えてる」

トニオの言葉にピートが振り返ると、感情の読みにくい長方形の瞳孔でこちらを見ているメリーの厚みのある上唇と下唇の間からベル宛の手紙が半分はみ出していて、その面積はもごもごと顎が動く毎にどんどん小さくなっていきます。

「うわぁっ」

「止めろ、メリー」

ピートとトニオは慌ててメリーの口目掛けて手を伸ばしますが、同時に動いた二人の腕は互いに絡み合い、メリーの前の大理石のタイルの上に勢い良く転がります。メリーは倒れ込んでくる二人の身体を首だけ動かして避けると、さらに顎を動かして僅かしか見えていない手紙を喉の奥に詰め込んでいきます。

「駄目だ、返せぇ」

すかさず起き上がったピートが、メリーの口を無理やり開けて喉の奥に手を突っ込むと、仰天したメリーが全力でピートの腕に噛みつきます。

「ぎゃあっ」

ピートは悲鳴を上げて手を引き抜こうとしますが、メリーは小さい身体に似合わないものすごい力で噛みついて離れません。

「痛ぃ、指がちぎれるぅ」

「ピート、今助けるぞ」

激痛に悶えるピートにトニオが駆け寄り、二人がかりで何とかメリーの口をこじ開けると、ピートの手が外れ、そのままの勢いで後ろに倒れこみます。

「おい、大丈夫か」

トニオが石畳の上に転がって痛みに身体を震わせているピートを覗きこみます。

「大丈夫なわけあるか」

泣きそうな声で答えながら、ピートは上半身を起こして手の中の手紙を確認します。すっかり小さくなったベル宛ての手紙を開くと、封筒は四方びりびりに破け、便箋は半分以下の面積になり、文面はぐしゃぐしゃに噛み潰されて、とても読めたものではありません。

「あぁ、何て事だぁ」

ピートは全身の力が抜けて、また石畳に倒れこんでしまいます。楽天家のトニオもこの惨事の前に言葉を失い、額に手を当てたままの姿勢で動けなくなっています。その時、トニオを呼ぶロイの声が聞こえます。

「おーい、兄貴、ベルが来たよぅ」

二人が振り返ると、広場の端の公園に向かう路地で、ロブと片方の靴を手に下げた裸足のベルが談笑しています。

「ど、どうするんだよ。ベルが来ちまったぞ」

「どうするもこうするもあるか。肝心の手紙がないんだぞ」

「とにかく、ピート、ベルは俺が相手しておくから、お前は隠れて何か方法を考えてろ」

トニオはショックで動けなくなっているピートを噴水の影に押し込むと、仲間の元に駈け足で戻ります。

「考えるって、お前」

力なく呟くピートの横顔を、メリーが四角い瞳孔で眺めてメェと鳴きました。

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