第5話 楽師達の宴

〝まったく、うちの主人ときたら″

日の当たる四階の窓辺で、リリーは白い仏炎苞を葉の先にあてながら愚痴をこぼします。レースのカーテン越しとはいえ、南向きの窓からは日差しがよく入り、丸一日水を差してない鉢の土はからからに渇いてしまっています。

それも、昨日遅くに帰ってきて倒れこむように寝てしまい、朝も寝坊して慌てて出ていった主人のせいです。

〝私の世話を忘れて、いったいどこで遊んでいたのか。そういえば、昨日のあの人からは微かにお酒の匂いがしていた″

リリーは気孔から吸う二酸化炭素にアルコール臭が混ざっていたのを思い出して、自分勝手な主人に対する怒りが葉脈を駆け上がります。

〝とにかく、水が必要だわ″

怒りが渇きを増幅させ、どうにも我慢できなくなったリリーが室内をぐるりと見渡すと、ベッドの脇のサイドテーブルの上に水の入ったグラスがあるのが見えます。

リリーはもう一度部屋の中と窓の外を注意深く見回し、誰にも見られていないことを確認すると、全身を震わして力を込め、地中から一番太い根を引き抜きます。そして、葉先を使って器用に根を丸めると、ちょうど釣り人が竿を投げるように根をサイドテーブルに向かって勢いよく投げ伸ばします。宙を飛んだ根は見事にグラスに着水し、渇いた葉脈が半分程残っていたグラスの水を瞬時に飲み干します。

しなだれた葉に水分を送り込んだリリーが安堵の息を吐いた時、薄いドアを乱暴に叩く音が聞こえます。

「おい、ピート、いるか。いなくても返事くらいしろ」

リリーが慌てて伸ばしていた根をグラスごと引き寄せると、ドアノブがするりと時計回りに回転して、開いた扉から長身のいかにもだらしない顔をした男が侵入してきます。

〝何、何で鍵がかかってないの″

慌てて出掛けた主人が鍵をかけ忘れたのでしょうか、見知らぬ侵入者にリリーは恐怖を覚えます。

「何だ、鍵かかってないじゃねぇか。アイツもだらしねぇな」

えんじ色のベストを着たその破廉恥な男は、自分のことを棚に上げてピートの文句を言いながらリリーの近くまでやって来て、窓辺の椅子に乱暴に腰を下ろすと、じろじろと部屋の中を物色し始めます。

〝誰なの、この男は。泥棒かしら。気持ち悪い目つきをしているわ。嫌だわ、こっちを見ている。お願い、あっち行って。神様″

リリーの願いはむなしく、その破廉恥な男は窓辺の花を見つけ、おもむろに手を伸ばしてきます。

〝嫌、いやー″

迫る恐怖にリリーが白い仏炎苞をさらに白くしたところで男の手が逸れて、先程根と一緒に引き寄せた鉢の横に転がっているグラスを拾い上げます。

「まぁ、いないなら仕方ねぇや。ここで一杯やりながら待つとするか」

そう言うと、その男はどこから持ってきたのか酒瓶を取り出し、グラスになみなみと注ぎ始めました。


街灯が列をなして並んでいる長い坂道を、ピートが自転車を押しながら上がってきます。昨晩の疲れが残る体には自転車はいつもより重く感じられ、カバンのポケットに入っている渡しそびれた手紙がピートの足取りをさらに重くします。

「やれやれ、まさかこんな気苦労をするなんて、僕はとんだお人好しだな。まぁ、明日になればそれもおしまいだ。結局、僕は花を眺めながら静かに暮らしている方が性にあっているんだ」

そう呟きながら、自分の帰りを待っているリリーがいるはずの四階の窓を見上げたピートは、消えているはずの部屋の明かりがついていることに気がつきます。

〝おかしいな、部屋の電気は確か消したはず。それに窓もずいぶん開いてるぞ〟

違和感のある窓に目を凝らしながらピートが昨夜の記憶をたぐっていると、カーテンに映るリリーの美しいシルエットの後ろに人影が現れて、坂道の方向に何かを投げ飛ばします。窓からたち起こる歓声と一緒に、きれいな放物線を描いてピートの足元に飛んできた飛翔体は、よく見覚えのあるピートの革靴です。

「あぁ、トニオ、あんにゃろうめ」

ピートは自室でおきている惨劇を想像し、自転車を放り出して坂道を駆け上がっていきます。


ピートの部屋では、勝手に入り込んだトニオが楽師仲間を呼び寄せて、お祭り騒ぎの真っ最中です。

「いやっほーぅ、見たか、俺様の大遠投を。野球選手だってあそこまでは飛ばせないぜ。さぁ、次はお前の番だ。ロイ」

トニオが大柄の楽師にピートの靴の片方を渡したところで、バタバタと騒がしい足音とともに、血相を変えたピートが部屋に飛びこんできます。

「トニオ、お前、僕の部屋で何やってるんだ」

「よぉ、ピート、相変わらず遅い帰りだな。何してるかだって、パーティーだよ。見りゃ分かるだろ」

顔を真っ赤にして詰め寄るピートの様子などお構いなしに、トニオはピートの肩を掴まえてぐるりと向きを変えると、仲間達の前に押し出します。

「みんな、パーティーの主役の登場だ。悪漢20人をぶちのめした偉大な男達の片割れ、戦友のピートだ」

「いいぞ、ピート」

「男の中の男」

トニオの紹介に合わせて、仲間たちから威勢の良い掛け声が上がります。急に人前に突き出されたピートは面食らいながら、トニオと同じ飾り気のない笑顔を向けている楽師達の顔を一人一人見返します。

「俺の仲間達だ。デカイのがロイ、ロブじいさん、パイプを咥えたのがテッド、それと従姉のエル、エマ、エイミーだ」

トニオの横でピートの片方の靴を抱えているロイと呼ばれた楽師は、噴水広場でもトニオの横で自分と同じくらい大きなコントラバスを抱えていた楽師です。体に似合わないつぶらな瞳と八の字の形の短い眉が心の優しさを映しています。

ずり落ちそうなズボンをサスペンダーで吊るしているロブと呼ばれた老楽師は、広場ではアコーディオンを演奏していました。もじゃもじゃの白ひげの下の笑顔はいかにも好好爺といった感じです。

テッドと呼ばれたパイプを咥えた中年の男は、窓辺の椅子に腰掛けて、指先で窓の縁を小刻みに叩いています。上下に押し潰したような顔と突き出した顎が、昔流行ったほうれん草の缶詰めのキャラクターによく似ています。パーカッションの担当で、いつも何かを叩いていないと落ち着かない性格だということを、後でトニオから聞かされました。

トニオの親戚だというコーラスガール達は、血筋なのでしょうか、はっきりした目鼻立ちにすらりと伸びた手足がトニオに似ています。暗さを感じさせない屈託のない笑顔も姉妹でよく似ています。

長女のエルは黒髪をアップにまとめて、切れ長の目と所作に大人の落ち着きを感じさせます。ブロンドの長い髪を胸元まで伸ばしているのが、次女のエマでしょう。高い鼻に勝ち気な瞳は人を引きつける魅力を放っています。まだ少女ともいえるくらいの年齢のエイミーは、好奇心に満ちた目でピートを見上げています。微笑みかける片えくぼが弾ける若さと純真さを湛えています。

「さあ、みんな。グラスを構えてくれ。俺達の新しい仲間に乾杯だ」

トニオの音頭に仲間達が騒ぎながら、各々のグラスを構えます。

「あ、ちょっと、そうじゃないんだ」

場の空気についていけてないピートに、長女のエルが艶のある微笑みをかけながら大きめのグラスを持たせ、赤面しているピートの脇から二人の妹が蒸留酒をなみなみに注ぎます。

「今日、この日、我らに新しい仲間が加わった。偉大な英雄、ピートに乾杯」

「乾杯」

「ピート、よろしくな」

仲間達は掛け声とともにグラスを一気に煽ります。すっかり場に飲まれたピートも仲間達とグラスを打ち合い、強い香りを放つ液体を喉に流し入れます。胃の奥から上がってくるアルコールが、鼻腔を一気に押し広げピートの顔を真っ赤にします。

「いいぜ、ピート。中々の飲みっぷりだ。それじゃ、みんな一曲いこうぜ」

トニオの声を合図に、楽師達はグラスをそれぞれの楽器に持ちかえて、思い思いに演奏を始めます。トニオ達の弾くカントリーミュージックは彼らの気性と同じに底抜けに軽やかで明るく、音楽に縁のない人生を歩んできたピートでさえ身体の先が疼いてきます。

「ピートも来いよ」

三姉妹とステップを踏んでいるトニオがピートを誘います。

「いや、僕は上手くないから」

「そんなのどうでもいいから、一緒に踊ろうよ」

三女のエイミーが気後れするピートの手を引いて強引にダンスの列に加えます。

華麗な姉妹の動きに比べ、タコが這うような動きしか出来ないピートでしたが、それでも見よう見まねで音楽に合わせて身体を揺らしていると、まるで自分が自分でなくなったような高揚感が湧いてきます。

〝楽しい。音楽ってこんなに楽しいのか″

ピートは、いつの間にか自分が夢中で手足を振り回していることに気づきます。

「いいぞ、ピート、その調子だ。次の曲いくぜ」

バンジョーのリズムが変調し、2曲目に入ります。三姉妹がピートの手を代わる代わる取って、その度にピートの視界がぐるぐる回ります。

「あぁ、もう駄目だ。一休みさせてくれ」

慣れないダンスと強いアルコールに揺らされたピートが、ふらふらになりながら窓辺の椅子に倒れこむと、すぐ隣のベッドのシーツが何故かもぞもぞと動き出します。恐る恐る伸ばしたピートの手に、シーツの下から突き出してきた長い鼻が噛みつきます。

「うわぁ、何だ」

慌てて引っ込める手を追うように、シーツの下から白い仔ヤギが現れて、細い目でピートを見つめてメェと鳴きます。

「おい、テッド。メリーを連れて来るなって言ったろ」

トニオがボトルとグラスを二つ持って目を丸くしているピートの横にやってくると、仔ヤギは席を譲るようにベッドから降りて、素知らぬ顔でパイプを吹かしている楽師の横にちょこんと腰を落とします。

「にぎやかなのも悪くないだろ」

トニオは仔ヤギの代わりにベッドに腰掛けると、二つのグラスに酒を注いで、片方をピートに差し出します。ピートは呆れ顔で差し出されたグラスを受け取ります。

「お前は毎日こんななのか」

「毎日じゃないさ、今日と昨日と一昨日だ」

トニオが笑いながらグラスをピートの前に掲げます。ピートも合わせてグラスを掲げ、軽い音で打ち合わせると二人揃って一息に飲み込みます。

「くっはー」

熱い息を吐き出したピートは、空になったグラスを灯りに透かして、万華鏡のように七色に変調する電灯の光を眺めます。

「旨いな。誰かと酒を飲むなんて、ずいぶん久しぶりだ」

多角形に切られたグラスの縁に残る滴がゆっくりと滑り落ちるのを見つめながら、ピートが呟きます。

「友人はいないのか。酒は友と飲むのが一番旨い」

トニオの言葉にピートは小さく首を振ります。この街に来てから仕事ばかりで、職場と自宅を往復するだけの日々を過ごしてきたピートには、他人と過ごす時間はありませんでした。自嘲気味に笑うピートの横顔をトニオが疑いの眼差しで覗き見てきます。

「な、なんだよ」

「ごまかすなよ。知ってるぜ、恋人がいるだろ」

「一体何の話だ。恋人なんていないよ」

急に心当たりのない話を振られて不思議な顔をしているピートの肩を引き寄せて、トニオは追及を続けます。

「はっはー、隠すなよ。毎晩、窓辺で誰かと話していたろう。名前も聞いたことあるぜ。確か、そうだ、リリーだ」

「違うんだ、トニオ。リリーはそうじゃない」

「違うもんか。おーい、みんなピートが彼女を紹介するぜ」

お酒の入ったトニオは、勘違いしている事も知らずに一人で勝手に盛り上がって、仲間達を呼び寄せます。

「さあ、リリーはどんな娘だ。ブロンドか、ブルネットか。写真か恋文くらいあるだろ、見せてみろよ」

トニオはピートを捕まえて、上着やズボンのポケットに長い手を差し込みます。

「こら、止めろ、くすぐったい」

ピートがたまらずにトニオの腕を引き剥がすと、今度は机の引き出しや本棚をあさり始めます。

「トニオ、止めろって。何も隠してなんかいない」

「はっはー、ムキになるところが尚更怪しいな。この辺りにあるってことか。お、こいつか」

語気を強めて制止するピートの手をするりとかわして、トニオは郵便鞄に手を伸ばします。

「ん、ほれみろ、やっぱりあったぞ」

トニオが興奮に鼻を膨らましながら鞄の中から取り出したのは、渡しそびれたベル宛ての手紙です。

「こら、返せ。その手紙は特別なんだ」

ピートは手紙を取り返そうと躍起になって腕を伸ばしますが、長身のトニオの手には敵いません。しがみつくピートの腕を払いながら、トニオはからかい口調で宛て名を読み上げます。

「えー、どれどれ、ピートの愛しい人の名は…、ん、ベル、ベル・グラント。おいおい花屋のベルじゃないか、リリーはどうした。もしかしてお前二股かけてるのか、顔に似合わずやるじゃないか」

「トニオ、いい加減にしろ」

大事な手紙をからかいのネタにされ、堪忍袋の尾が切れたピートがアパート中に響きわたるような大きな声で怒鳴ります。これにはさすがのトニオも、周りで笑っていた楽師達も一瞬で静まりかえります。

「ほんの冗談さ、そんなに怒るなよ。それに、お前がいつまでも勿体ぶるから悪いんだぜ」

叱られた子供みたいに口を尖らせながら、トニオが手紙を返します。ピートはムスッとした顔で手紙を受け取ると、観念したように話し始めます。

「この手紙はベルさんに頼まれて倉庫から探してきた手紙だ。明日の朝一番に届けるつもりで持って帰っただけだ。それと、リリーは、リリーは…」

「おい、もっとはっきり喋れよ」

次第に聞き取りにくくなる声に、一字一句聞き逃さないよう全身を耳にしているトニオから注文が飛んで、もうすっかりどうでもよくなったピートが噛みつくように叫びます。

「花だよ。リリーは花だ」

「花だぁ」

「そうだ。窓辺のピースリリーだよ」

予想外のピートの答えにその場の全員が窓辺に置いてあるスパティフィラムに視線を向けます。

「それじゃ、何か。ピート君は、毎晩そこの植物と甘い声でお話ししてたってことか」

「そうだよ、文句あるか」

フグみたいに頬を膨らましているピートの顔を見て、楽師達が一斉に笑いだします。

「はっはー、花が恋人ね。そいつはいいぜ。花なら稼ぎが悪くても、どれだけ酒を飲んでも文句を言われはしねぇもんな」

自分だけの秘密を知られた上、もの笑いの種にされて不機嫌な顔をしているピートの脇をトニオが肘で小突いて回ります。

「だけどなぁ、ピート。花がお前に旨い飯を作ってくれるのか、悲しい時に慰めの言葉をくれたり、熱い抱擁や甘い口づけをくれるのか」

恰好の話題を仕入れ調子のついたトニオは、ピートの肩を引っ掴んで窓辺の椅子に座らせると、目の前で大げさな身振りで熱弁を振るいます。

「いいか、人生の楽しみは酒と恋と音楽だ。若い男女が惹かれあい、心の奥に隠した思いを燻らせ、唐突に情熱を燃え上がらせ求めあう。恋のない人生は中身のないスイカみたいなもんだ。もっと世間を見渡してみろ。この街の人間の半分は女だ、恋の情熱を分け合う相手がいないと考える方がおかしいだろ」

トニオは窓から身を乗り出して、眼下に広がる街の灯りに手を広げます。はしゃぐトニオとその前で揺れているだけの白い花の組み合わせは、日々の生活に寂しさを感じながらも自分から動く事が出来ないピートの心の写し絵です。

「恋人がいないなら探せばいい。郵便屋ならいろんな出先があるだろ。たとえば、ベルなんてどうだ。素直でいい娘だぜ」

「ちょっと待て。何でお前がベルさんを知ってるんだ」

「この街の可愛い娘はみんな俺の知り合いさ」

恋愛事に関してだけは妙に感が利くトニオは、ピートの動揺を見逃さず、わざと質問をはぐらかして二人の事を追及し始めます。

「それで、ベルの事をどう思ってるんだ。頼まれ事をされるなら、話しくらいはする仲なんだろ」

「ち、違う。僕とベルさんはそんなやましい関係じゃない。僕は、ベルさんに対して、そんな、やましいことは、ないぞ」

〝こんなに分かり易く動揺する奴は他にいないな〟

トニオはピートの声がどんどん小さくなっていくのがおかしくてたまりません。

「本当に、これっぽっちもないのかぁ」

親指と人差し指で小さな輪を作りながら、疑いの眼差しを向けるトニオに、ピートは虚勢を張って言い返します。

「ああ、本当だとも。それに、ベルさんには恋人だっているんだ」

楽師達の視線が一斉にピートに集まります。ピートは慌てて口を閉じますが、時すでに遅く、好奇心で瞳を耀かせる楽師達に周りを取り囲まれてしまいます。

「えー、ベルちゃんに恋人がいたの」

「聞いたことないな。あんた会ったことあるのかい」

どうやら、楽師達は皆ベルと知り合いのようです。

「ピート、嘘でごまかすつもりじゃないだろうな」

トニオが腕組みしながら、疑うような目で睨みます。根が真面目なピートは、トニオの瞳にいたずらな光があるのに気がつかずに、つい感情的になってしまいます。

「嘘なんか言うもんか、名前だって知ってるんだ」

「それじゃ何て奴だ」

「ジェフリーだ。ジェフリー・リッテンバーグ」

まんまとトニオの口車に乗せられて秘密の恋人の名を言ってしまったピートは、はっとして周りを見回します。アパートの狭い部屋が一瞬静まりかえって、その後壁を揺らすような笑いに変わります。

「ジェフリー・リッテンバーグだってよ」

「ベルの恋人がジェフリー・リッテンバーグか、こいつはいいや」

楽師達は机や互いの肩を叩きながら、大盛り上がりで笑い転げています。一人かやの外のピートはひどくバカにされている気になって、楽師達に向かって大声で言い返します。

「何がおかしいんだ。ベルさんから頼まれたんだぞ、ジェフリーからの手紙を探して欲しいって。僕は郵便屋だ、聞かなくたって分かる。あの顔は恋人からの手紙を待つ顔だ」

ピートの抗議にも楽師達の笑いは止むことなく、むしろ油を注いだように大きくなります。ピートはもうすっかり話す気がしなくなり、眉を急勾配に傾けながら、窓辺の椅子でこの騒ぎが収まるのを待っています。

つむじを曲げているピートを見て、トニオが奥歯で笑いを噛み殺しながら、隣のベッドに腰を下ろします。

「それで、ピート君は明日の朝一でベルに手紙を届けるのか」

「そうだよ。悪いか」

「そんなにヘソを曲げるな。手紙を見せてみろよ。ああ、確かにジェフリー・リッテンバーグからの手紙だな」

トニオはピートの手から手紙を盗んで、暗めの照明に差出人の名前を照らします。

「おい、勝手に見るな。私書だぞ」

「宛名だけさ、中身を見るわけじゃない。お前だって見るだろ」

「僕は仕事だ」

ピートはトニオの手から取り上げた手紙を窓辺の小棚の上に置くと、詰まらせ気味の声で胸につかえた疑問を吐き出します。

「それで、どんな奴なんだ」

「うん」

「ジェフリー・リッテンバーグだよ。知ってるんだろ」

「はっはー、やっぱり気になるのか」

トニオがニヤニヤしながら、ピートの顔を覗きこみます。

「みんなが知ってるってことは有名なんだろ。歌手か、俳優か、背が高くて顔立ちも良くて、誰もが憧れるような…」

ピートはトニオの視線から逃げるように顔を背けて、口をモゴモゴさせます。トニオが質問に答えずに楽しそうにピートの様子を眺めているところに、一番歳上の老楽師ロブがやって来て、ピートの前に一枚のチラシを差し出します。

「ジェフリー・リッテンバーグってのは、この人の事じゃよ」

それは音楽祭の広告で、五線譜の上で歌う男女のイラストが紙面を飾っています。音楽に感心のないピートは今まで意識したことがなかったのですが、同じデザインのポスターは配達の最中にも街のいたるところで目にしています。

改めてイラストを見ると、ピートの想像したジェフリー・リッテンバーグそのままの色男に、目元だけ見ればベルに似ていなくもない女性が描かれています。あんまりにも想像通りの絵に、ピートは落胆のため息が出てしまいます。

「これがジェフリー・リッテンバーグか。またずいぶんの伊達男じゃないか」

「違う、違う。こっちじゃよ」

ピートがイラストを見ながら気を落としているのに気づいて、ロブはチラシの隅っこに乗っている小さい切り抜きの人物写真を指差します。そのモノクロ写真の人物は、目の前の老楽師と同じくらいの年齢で、白髪交じりの髪を後ろに流して、クルリと巻いた特徴のある口髭を構え、怒ったような気難しい顔で写真を撮られています。

「この人がジェフリー・リッテンバーグなのか。色男でもなければ、若くもない。白髪の入った老人じゃないか」

自由の闘士であるはずのジェフリーの正体に驚くピートに、ロブがまた説明を加えます。

「そうさ、ワシと同じ年寄りさ。だがな、お前さんは知らないだろうが、この人はたくさんの素晴らしい歌を世に送り出してきた偉大な作曲家なんじゃよ」

写真を見つめるロブの目に、同じ音楽の道を歩み名を馳せた同志に対する敬意が滲みます。自分の勘違いを知ったピートでしたが、しかし、新たに湧いた別の疑問が口を衝きます。

「それならどうして、ベルさんはあんなにまで手紙を待ちわびたのだろう」

「さて、そいつはワシには分からんな」

老楽師の答えになっていない返答を聞きながら、ピートは写真の人物とベル宛ての手紙を見比べます。

〝たとえば、ベルさんがジェフリー・リッテンバーグのファンだったにしても、あの様子はあまりに大袈裟だよな〟

いまいち納得できていないピートのところへ、酒を取りに行っていたトニオが顔を赤くしながら戻ってきます。

「なんだ、まだ気にしてるのか。そんなに気になるなら、本人に聞けばいいじゃないか」

すっかり動きが悪くなった手で注いだグラスを口にあてたところで、トニオの手が止まります。

「そうだよ。本人に会えばいいんだ。よし、今から行くぞ、ピート」

「はぁ、お前はいきなり何を言いだすんだ」

「だから、今からベルに会いに行くんだよ。立て、ピート」

「ちょっと待って、少し落ちつけよ」

酒の勢いに乗って暴走し始めたトニオは、長い腕をピートの肩に回すと、嫌がるピートを引きずって戸口に歩きだします。

「どうせ明日の朝には持って行くんだろ。早い方がいいに決まってるじゃねぇか」

「トニオ、引っ張るなって。もう店だって閉まってる時間だ。ベルさんには会えないぞ」

「それなら、ワシに任せろ」

抵抗するピートの背中をロブが押し始め、さらに他の楽師達の手も加わって、ピートは半ば担がれるような体勢で玄関を出て行きます。

「よぉし、みんな、ベルに会いに行こうぜ」

「おお」

ピートを神輿としたお祭り騒ぎの一団は、賑やかな声を上げながら、古い階段をぐるぐる回ってアパートの玄関を出ていきます。嵐が過ぎ去った四階の窓辺では、酔っ払った楽師達に連れ去られていく主人の姿を、白いスパティフィラムの花が心配そうに見下ろしていました。

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