第4話 待合廊下にて

次の朝、昇る朝日が家々の窓を叩いても、レースのカーテン越しに入る風が頬を撫でても、ピートは目を覚ましません。

街のざわめきが坂道を上がって薄く開いた窓から侵入しても、まだすやすやと寝息をたてている主人を心配したリリーは、ため息をつくように仏炎苞を揺らすと全身を細かく震わせ朝露を集め、葉先で弾いて、ピートの顔に向かって撥ね飛ばします。

「冷たいなぁ。やめてくれよ、リリー」

鼻先に当たる冷たい感覚にピートの意識はようやく眠りの淵から浮き上がり、半開きの目で窓をぼんやりと眺めて、いつもと違う日差しの明るさに目を見開きます。

「ああ、寝過ごしたぁ」

ベッドから飛び起きたピートは、窓際の椅子に放り投げたままになっているシワだらけのシャツに袖を通し、玄関のコート掛けに斜めに引っ掛かった上着をもぎ取り、矢のように玄関から飛び出していきます。トニオの大いびきが響きわたる階段を全速力で駆け下り、色ガラスの飾り窓のついた扉を押し開けたところで、いつも停めている玄関前の階段脇に自転車がない事に気づきます。

「しまった、自転車は置き忘れたんだった」

ピートは大切な相棒を昨晩の事件のあった場所に置き去りにしていた事を思い出します。坂道を転がるように駆け下りていく主人の背中を、リリーは四階の窓辺から心配そうに眺めていました。


遅刻を局長からこってりと絞られたピートがフローリスト・ベルにやって来たのは、教会の鐘楼が正午の鐘を鳴らす少し前でした。ピートはナラの木の影に自転車を止めると、鞄のポケットにしまっていたベル宛ての封筒を取り出し、もう一度宛名を確認してから、取り出し易い位置の上着のポケットに入れ直して花屋の入り口へと向かいます。

〝あれほど心待ちにしていた恋人からの手紙だ。きっと大喜びするだろうな〟

ピートはベルのとびきりの笑顔を思い描いて、人を幸せにする事ができる自分の仕事を誇りに思います。一刻も早くベルに手紙を渡したいピートでしたが、昨日の様子からおそらく手紙の相手の事はグラント氏に秘密にしているのだろうと推測し、花屋の戸口から亀のように首を伸ばして店内を覗きこみます。

古い内装の店内は、大きめの窓から入る明るい日差しと色とりどりの花達から放たれる豊満な薫りに満ちています。誰もいないカウンターではベルが水を差すのに使っているブリキの丸胴のじょうろが鈍く光っていて、店の奥の作業台には包装の途中であろう折り畳まれた包み紙と大振りのハサミが無造作に置いてあります。

「グラントさん、郵便です」

ピートが店の入り口から気配を探るように声をかけると、カウンターの後ろに位置する扉の奥から人の動く音が聞こえ、グラント氏が頭だけ出してピートの顔をじろりと見ます。

「今日分の郵便です」

グラント氏はピートに返事を返さずに戸の奥に頭を引っ込め、がさごそと何かを引っかき回す音をたてた後、エプロンをはたきながらカウンターに出て来て、差し出された郵便物の伝票に書きなぐるようにサインを入れて、やはり無言のままピートにそれを突き返します。

その間、ピートは店内を見回しながら戸棚の後ろやカウンターの奥にベルの姿を探しますが、フリルのエプロンを着けたスミレの花のような娘の姿を見つける事はできませんでした。仕方なしにピートは壁にかかっている時計の針を目で追いながら、グラント氏にベルの事を尋ねてみます。

「あの、グラントさん、今日はお嬢さんはいらっしゃらないんですね」

娘の話がピートの口から出た事で、グラント氏の目が急に鋭くなります。

「娘は朝から出かけておる。何か用があるのか」

「い、いや、な、なにも」

尋問するかのような目で睨みつけられたピートは、グラント氏に手紙の事を気づかれてしまうのではないかと思い、慌てて伝票を鞄にしまうと一目散に戸口へと向かって行きます。

「そ、それではグラントさん、また明日」

逃げ出すように店を出るピートの後ろから、グラント氏が大きく鼻を鳴らすのが聞こえます。冷や汗をかきながら自転車を止めた木陰まで戻ったピートは、大きく息を吐いて呼吸を整えてから、ポケットからベル宛ての手紙を取り出します。

「やれやれ、渡しそびれちゃったな。早く届けてあげたかったのだけど」

封筒の上のベルの名前を読みながら、それでも、ピートはこの手紙は直接手渡しした方が良いように思え、鞄のポケットにしまい直します。

「まあ、明日渡せばいいじゃないか」

ピートは自分を納得させるために一人言を言うと、自転車に跨がり、後ろ髪を引かれるような気持ちで公園を後にしました。


その頃、ベルは冷たく白い壁に囲まれた廊下で、古い革張りの長椅子に座り、自分の名が呼ばれるのを落ち着かない様子で待っていました。

細く長い廊下には、ベルと同じ年頃の娘達が大勢集まっていて、皆一様に着飾り、手鏡を片手に熱心に化粧をしたり、髪の毛の先の先まで櫛で撫でつけたり、ドレスの裾の折り目を一つ一つ畳み直したりしています。廊下の突き当たりには、両開きの黒く重々しい扉が立ちはだかるようにそびえ立ち、その扉が開く度、巣立ちの前の雛のように口を開いていた娘達が一斉に静まりかえって、澄ました顔を向けるのです。

開いた扉の隙間から、細く吊り上がった目にたっぷりとアイシャドウを乗せ、これまた鋭角に切れ上がったメガネをかけたスーツ姿の女性が現れて、淡々とした口調で娘達に振られた番号と名前を読み上げます。

「次、18番、ジャネット・コリン」

名を読み上げられた娘は、目一杯に背筋を伸ばして返事をすると、カチカチに緊張した手足をブリキ人形のように動かして扉の隙間へと入っていきます。見た目以上に重い音をたてて大扉が閉まると、人形のように行儀よく並んでいた娘達が一斉にさえずり始めます。

その場の空気にまったく馴染めないベルは、一人長椅子に座って、手にした一枚のチラシに目を落としたままでいます。紙面にはベルが店先で見つめていた音楽祭のポスターと同じイラストが印刷されており、イラストの下には音楽祭のメインイベントである歌のコンテストの参加者を募集する文面が記載されています。ベルはその文面を何度も何度も繰り返し読んでは、ただ時間が過ぎるのを待っています。

うっかり顔を上げてしまうと、目に入ってくるのはレースやリボンの付いた上等な生地のドレスを着た娘達。皆精一杯のおしゃれをして、髪も化粧も綺麗にまとめています。ベルはまるで見知らぬ外国に一人置き去りにされたかのような心細い気持ちになります。

再び大扉が開いて、ざわめいていた廊下が水を打ったように静まりかえります。扉の中から三角メガネにスーツの女性が、今にも泣き出しそうな先程の娘を連れて出てきます。

「次、19番、イモジェン・リード」

三角メガネの女史がまた淡々と次の娘の番号と名を呼びます。名を呼ばれた娘はやはり緊張した面持ちで、先に呼ばれた泣き出しそうな顔をしている娘の横を通り越し、大扉の隙間に吸い込まれていきます。

大扉が裁定を下すかのように重い音をたてて閉じると、押し出された娘はとうとう涙を堪えきれず嗚咽を上げて泣き出してしまって、友人達に慰められながらベルの前を通り過ぎていきます。その姿を見ないように必死になって下を向いているベルの視界の端に、ザクロのように刺激の強い赤色のハイヒールが入って来ます。

「ふん、みっともないわね」

若い娘特有の甲高く耳障りな声に顔を上げてしまったベルの前に、一際大きなつば広帽子の上をリボンや花でいっぱいにして、ブロンドの髪をライオンのたてがみみたいにカールさせた娘が仁王立ちで立っています。

「あなたもそう思うでしょ」

「え、あ、いや」

ブロンド娘は、急に話を振られどう答えていいのかわからないベルの横にドカンと腰を落として、甲高い声でしゃべり続けます。

「恥ずかしいわよ、あんなにわんわん泣いちゃって。犬じゃないんだから。きっと実力がないのが分かっているから、ああやって泣いて人の同情を集めたいのね。そもそもあんな安っぽい服でオーディションに来るなんてどうかしてるわ。あなたもそう思うでしょ」

辛辣な言葉はそのまま自分に向けられている気がして、ベルは小さい肩をさらに縮ませます。ブロンド娘はベルの様子などお構い無しに、周りに聞こえる程の大声で話しを続けます。

「ああ、早く私の順番が来ないかしら。審査員はきっと私のドレスに釘付けになるわ。そして、私は音楽祭のステージで大勢の人の前で歌うの、皆私の歌に聞き惚れるわ。ねぇ、知ってる、コンテストのゲストには有名な音楽家もいるのよ。その人なら私の才能に気付くはずだわ。そうして私はスターになるの。あぁ、本当に早く私の番が来ないかしら」

ブロンド娘は夢見るような瞳で、目の前の白い壁に自分の未来を映しています。ベルはブロンド娘の低い鼻を目いっぱいに突きだした横顔と、縮こまった自分の肩を見比べて、また手元のチラシに目を落としてしまいます。

その時、重い扉の間から三角メガネの女史がするりと出てきます。

「次、20番、サレーナ・ベント」

ブロンド娘は顔を弾けるように明るくすると、ハイと甲高い声を精一杯に絞り出し、バレリーナのようなつま先立ち歩きで出てきた娘とすれ違い、扉の隙間に消えていきます。

扉が閉まると同時にはじまるざわめき、出てきた娘が興奮した様子で話す声、廊下の先で泣いている娘の嗚咽、ブロンド娘に投げかけられる非難、身体の奥で速まる心臓の鼓動、ベルには全ての音が一層大きく聞こえてきます。

そのうちに、ベルを取り巻く音たちは大きなうねりを持った波となって、ベルの心を揺らし始めます。嵐の海に放り出されたかのように感覚は上下左右を失い、長い長方形だったはずの廊下はぐにゃぐにゃに曲がって、斑模様のカーペットは蛇のようにうねってベルの前に倒れかかってきます。

荒れ狂う感覚の海に沈んでいきそうになるベルを、大扉が開く音が白日の差し込む廊下に引き戻します。扉の間からブロンド娘が飛び出してきて、たてがみみたいな髪を振り乱して、泣き叫びながらベルの目の前を走り過ぎます。声をかける仲間は一人もいません。

「次、21番、ベル・グラント」

三角形の仮面をつけたスーツの女史が唇を醜く歪ませながらベルの名を呼びます。ベルは返事をして長椅子から立ち上がり、自分を食べようと鎌首をもたげている斑の蛇の上を踏み外さないよう歩きます。壁は赤く燃え上がり、炎のまえに黒い影が並んで、ベルに向けて甲高い耳障りな笑い声を投げつけます。

何倍もの大きさになった黒い門の隙間からは強い光が漏れていて、近づくにつれ、ベルの視界は白くぼやけていきます。隣にいるはずの女史の顔も薄くなっていて、三角の仮面とスーツだけが宙に浮いています。ベルは濃厚な白い霧の中を歩いて、開いている地獄の門の間を通ります。取り巻いていた笑い声はいつの間にか無くなり、ツーンという高い耳鳴りだけが聞こえています。

白い霧の向こうに、椅子とテーブル、いくつかの影が見えます。宙に浮いた仮面が何かを言っているようなので、ベルはその椅子に座らなければいけないと思い、消えかかっている意識を絞り出して前に進みます。ベルが椅子に倒れこむように座ると、背中の方から地獄の門が閉まる音がします。

「ベル・グラ…さん…今から…を…ます」

テーブルの向こうのぼやけた影がベルに話しかけてきて、オーディションの審査が始まりました。

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