第3話 トニオと取立て屋

帰り道は真っ暗です。いつもなら喧騒が聞こえくる商店も閉店の時間を過ぎ、団欒の灯りが漏れてくる窓も木戸で覆われています。

ピートは街灯の虚ろな光だけが点々と続く通りを自転車で駆けていきます。ぼけっと立ち尽くしている街灯の黄色い光は、せいぜい支柱の下を照らす程度の光量しかなく、街灯から次の街灯までの間はか細い自転車のライトだけが頼りです。

「すっかり遅くなっちゃったな。リリーは大丈夫だろうか」

ピートが窓辺で主人の帰りを待っているスパティフィラムの事を考えた時、ピートの前方の路地の暗がりから人影が飛び出してきます。

「あ、あぶなっ」

ピートは慌ててハンドルをきりますが、突然の事によけきれず、自転車は人物と衝突して、ピートの体は石畳の上に投げ出されます。

「うぅ、いてて」

ピートの前方の暗闇に衝突の相手が転がっています。街灯の灯りはほとんど届かず顔は見えませんが、声の感じと影の大きさで若い男なのが分かります。

「あの、大丈夫ですか」

相手を心配するピートに、男の影が大声を返してきます。

「やい、てめえ、いったい何してくれるんだ」

何となく聞き覚えのある声にピートが男の顔を覗くと、相手も同じ事を感じたらしく、ピートの顔をじっと見返してきます。

「なんだ、誰かと思ったら郵便屋じゃねぇか」

「あ、お前、トニオか」

目の前の相手が知った顔だった事に、ピートとトニオは同時に声をあげます。

「気をつけろ、郵便屋。俺様の顔に傷が付いたら、いったい何人の女が泣くと思ってるんだ」

トニオはピートに悪態をつきながら、えんじ色のベストのポケットから鏡を取り出し、様々な角度から自分の顔を写し見ています。

「ぶつかったのがあんたで良かったよ。頭はともかく、体は丈夫そうだ」

トニオの様子に、ピートは少しでも心配したことを後悔しながら、膝を払って立ち上がります。

「ふん、目のないサイコロにはトニオ様の魅力は理解できないらしい。こんな夜更けまで仕事か、ご苦労なこった。俺の田舎じゃ、こんな時間まで仕事してるやつは変人扱いされるぜ」

トニオはまだ鏡で自分の顔を写して、髪を撫でつけたり、顎に手を当ててみたり、様々に表情を変えては、その度に自分の顔に見とれています。ピートが何か文句を言ってやろうと口を開けた時、トニオが飛び出してきた路地の先に二つの影が現れ、ピート達の方を指差して叫びます。

「いたぞ、こっちだ」

「捕まえろ」

「おっと、遊んでる場合じゃなかったぜ」

トニオは慌てて飛び上がると、二つの影から逃げるように走り出しますが、すぐに逃げる先の暗がりから大きな影が現れ、両手を広げて行く手を塞ぎます。

怪物のような大きな影は、トニオを追い詰めるようにじわりじわりと迫ってきます。その迫力に後ずさりするしかないトニオは、ちょうど街灯の下で後ろから来た連中にも追いつかれてしまいます。

トニオを真ん中に挟んで、三つの影が黄色い光の円の中に現れます。前方の大男は長身のトニオよりもさらに頭一つ大きく、筋肉でパンパンに膨らませた服から表情の読めない彫りの深い顔を突き出してます。後ろから来た二人の片方は、逆にピートの胸よりも低い小男で、隣にいる不健康なまでに痩せた男の後ろについて回るような動きをしています。男たちは皆、一様に真っ黒いスーツを着て、お世話にも人相が良いとはいえない顔に下品な笑みを浮かべています。

逃げ場を失ったトニオを黒服の男達が路地の壁に追い詰めたところで、路地の向こうの暗がりからぺたりぺたりと粘着質の足音が近づいてきます。

「おいおい、わざわざ会いに来てやってんだ。逃げるこたねぇじゃねぇか」

ドスの効いた低い笑い声を響かせながら、大男の影から四人目の男が光の円の中に現れます。黒服の男の中でも一番に意地の悪そうな顔をした男は、でっぷりしたお腹を揺らしながら壁を背にしているトニオの前まで来ると、血走った目でトニオの顔を覗きこみます。

「よぉ、トニオ。借金まみれのわりには、相変わらず血色のいい面してるな」

「よぉ、ジョルジォ。あんたはいつ見たって病気の豚みたいだな」

トニオがいつもの調子で軽口を返した瞬間に、大男がトニオの肩を掴んで壁に押し付けます。

「おい、音楽家の体だぞ。丁重に扱え」

「そうかよ、天才。それで、お前さんのレコードとやらは売れたのかい。約束の期日はとっくに過ぎてるんだぜ」

黒服達のボスらしきその男が、背広のポケットから葉巻を取り出し口にあてると、すかさず小男がライターを取り出し、わざとトニオの顔に近づけ点火します。

「ああ、そりゃ、もちろん即完売さ。来週、いや再来週にはたっぷり金も入るんだ」

左の頬にライターの熱とオイルの焦げる匂いを感じたトニオが、目線を明後日の方向にやりながら声を上擦らせます。

「はぁはぁ、そいつぁ良かったよ」

黒服のボスは乾いた笑いを浮かべてタバコを吸い込むと、脂ぎった額に何重もの皺を重ねて、鬼のような形相でトニオに煙を吹きかけます。

「おう、ふざけんなよ若造。いつまでそんなよた話が通じると思ってやがる」

息のかかる程の至近距離から鋭い目で威圧されたトニオは、さながら蛇に睨まれた蛙のように体を硬直させて額から汗を吹き出します。

「三流の貧乏芸人のくせに俺の店でさんざん飲み食いしやがって。金が払えねぇってんなら、別のものを置いてってもらおうじゃねぇか」

黒服のボスが目で合図すると、大男がトニオを引きずり倒して馬乗りに抑えつけ、小男が左腕を引き伸ばして全体重をかけて石畳に押し付けます。

「おい、止めろっ。いてっ、いてぇ」

トニオは拘束から逃れようともがきますが、左腕は硬い石畳にがっちりと固定されて、少しも動かすことができません。

「あんまり動くと余計に傷が増えるぜ」

痩せた男が冷たい笑いを浮かべながら胸ポケットから折り畳みナイフを取り出し、ひょろ長い腕で振り回して刃を広げます。

「兄貴、何本いきますか」

痩せ男の質問に、黒服のボスが指を三本立てて返します。トニオの顔から一気に血の気が引いていくのが、街灯の灯りの届かない暗がりで大口を開けて突っ立っているピートにも分かります。

「待ってくれ。来週には払うよ。指がなけりゃバンジョーが弾けなくなっちまう」

トニオの必死の弁明を、黒服の男たちはニヤニヤ笑いながら聞き流します。抑えつけられた指先にナイフの冷たい刃があたり、トニオの全身に血が凍るような感覚が走ります。

「た、頼む。本当なんだ。待ってくれっ」

痩せ男がナイフを持つ手に力を込めた瞬間、誰かの腕が痩せ男の肩を掴んで、トニオの指からナイフを離します。恐る恐る顔を上げるトニオの目の前に、弾いた弦のようにぶるぶる震える足があります。子犬のように全身を震わせたピートが痩せ男にお札を突きつけているのです。

「の、の、みだ、あ、ゆび、や、た、高い」

絞り出すような声は音も文脈も外れすぎてまったく聞き取れません。ほぼ水平に開かれた足は、おそらくそうしていないと倒れてしまうためでしょう。不恰好に突きだれたお札は、振動で枚数が読み取れません。風が吹いただけでも倒れてしまいそうな程の弱々しい姿に、黒服の男たちも、トニオですら圧倒されて言葉を失います。

手下達が呆気にとられている中で、黒服のボスはピートに近づいて、珍しい物でも見るかのようにまじまじと顔を覗きこみます。

「お前さん、この男のツレかい」

「ち、ち、違う。でも、し、知り合いだ」

黒服のボスは血走った目で、首ふり人形のように頭を揺らしているピートと震えるお札を交互に見比べ、口元を下品に歪ませると、ピートの手から乱暴にお札をむしり取ります。

「ふん、少ねぇな」

黒服のボスはお札の枚数を数えて指で弾くと、そのままポケットに無造作に突っ込んで、ピートに背を向けて歩き始めます。

「三日だけ待ってやる。きっちり耳揃えて用意しておけ」

黒服のボスは振り向きもせずにそう言い残すと、手下達を連れて路地の暗がりに消えて行きました。


男達の姿が暗闇に消え、深夜の通りが静けさを取り戻した頃、ようやくピートは体中から汗が吹き出しているのを感じます。自分がした事がものすごく恐ろしく思えて、心臓は激しく高鳴り、息をするのもやっとです。

全身の力が抜けてその場に立ち尽くしているピートの横に、いつの間にやらトニオが並んで立っていて、腰に手をあて胸を最大限に張りながら、男達の消えた暗がりを睨んでいます。

「ふん、奴ら、しっぽを巻いて逃げ出しやがった」

トニオは横目でちらりとピートの顔を見ると、先程とは打って変わって意気揚々とした様子でしゃべり始めます。

「あんな連中、今度会ったらこてんぱんにのしてやる。闘牛士の様な華麗なステップで翻弄して、ボクサーみたいな鋭いパンチで一撃だ。あんな不味い飯に一銭だって払うものか。何が三日後だ、おととい来やがれってんだ」

トニオが型になっていないボクシングの真似事をしながらピートの周りを回っていると、先の路地からガタンと音がして小さな影が飛び出してきます。とたんに、トニオは長い体を折り畳み、ピートの背中に隠れて走り去っていく猫の影を覗きます。猫の影を十分に見送ってからトニオはピートの背中から這い出すと、ふんと鼻を鳴らして、また英雄の様な立ちポーズを決めます。

「まあ、でも、お前もなかなかのもんだったぜ、郵便屋。まあ、場慣れしてないのはバレバレだけどな。いいか、喧嘩ってぇのは度胸が肝心なんだ。絶対に舐められちゃあいけねぇ」

トニオがピートの肩に腕を回して、空いた片腕をぶんぶん振り回しながら熱弁を奮います。ピートは、よくもこんなに口が回るものだと呆れますが、一言文句をくれてやる程の気力も残っておらず、トニオの腕を力なく払って横倒しのままの自転車へと歩きだします。

「おい、こら。どこに行くつもりだ、郵便屋」

「家に帰る」

逃亡する講談の聴手をトニオが慌てて引き留めます。

「おいおいおい、ちょっと待てよ。そりゃない話だせ、兄弟(ブラザー)」

「ぶ、兄弟(ブラザー)っ」

「ああ、そうさ兄弟(ブラザー)。兄弟(ブラザー)が嫌なら友達(アミーゴ)でもいいぜ」

〝いつからそんな仲になったんだ〟

ピートは両眉の高さを大きく開いてトニオに無言の抗議をしますが、トニオはまったく気にならない様子で身振り手振りを交えて熱弁を続けます。

「まぁ、とにかくだ。今、ここに二人の男がいる。街のならず者を相手に一歩も怯まず、己の拳だけで5人、いや10人もの悪党を打ち負かした偉大な男達だ」

ピンと立てた親指で自分とピートを指しながら、トニオが誇らしげにそう言い切ります。一体何をどう解釈すれば、先程の事件がそんな武勇伝になるのでしょうか。ピートはトニオの事が本気で心配になってきます。

「お前、大丈夫か。頭を強く打ったんじゃないか」

「心配無用だぜ、友達(アミーゴ)。奴らのパンチなんて一発も当たりゃしねぇよ」

トニオはピートの心配を大幅に間違った方向で受けとめ、さらに調子を上げてまくし立てます。

「そう、俺たちはいわば戦友。昨日までは見ず知らず、北、南の渡り鳥だったとしても、今日からは漠逆の友だ。さぁ、共に祝杯を交わさん。もちろん、お前の奢りでな」

トニオは最後の一言に思いっきり力を込めてピートの前に手を差し出しますが、ピートは興味なさそうにその手をするりと避けると、倒れたままの自転車を起こしにかかります。

「バカな事をいうな。そんな金があるわけないだろ。あいつらに全部持ってかれたよ」

「ないのか、一銭も。文無しか」

トニオは目をぱちくりさせて聞き返しますが、すぐにピートの肩を掴まえて得意気に胸を張ります。

「まぁ、気にするなよ。それならツケで飲める店を教えてやるよ」

〝あんなことがあったのに、こいつは少しも反省しないのか。誰のせいでそうなったか一切考えずに、まだ人の金で酒を飲む気なのか〟

トニオの図々しさに、ピートは呆れを通り越して感心すら起きてきます。トニオがピートの肩を強引に引っ張って歩き出した時、今度は通りの反対側の路地から三、四人の男女が互いの足をもつらせながら現れ、トニオを見つけると一斉に声を上げます。

「あー、トニオだ。おい、みんなトニオがいるぞ」

「本当だ。ねぇ、ちょっと、トニオさん。そろそろこないだの飲み代払ってよぉ」

「ああ、そうだ。ウチの店のツケも頼むよ」

どうやら飲食店の関係者らしき男女は、そうこうしてる間にも次々に数を増やして、トニオめがけて向かってきます。

「こりゃ、やべぇ」

トニオはまた慌てて呟くと、ピートの体ごと反対を向いて、肩を組んだまま走り出します。

「あ、逃げたぞ」

「ちょっと、待ちなさいよぉ」

二人三脚で走る二人を、多数の影が追っていきます。

「止まれ、止めてくれ。僕は無関係だ」

「はっはー、冷たいことを言うなよ、友達(アミーゴ)。俺とお前は一蓮托生だ」

走り去る影達が点々と続く街灯の向こうの暗闇に消えた頃、通りはようやく静けさを取り戻すのです。


坂道の上のアパートの窓では、スパティフィラムのリリーが、その白い体を月の光に晒しながら帰りの遅い主人を待っています。すっかり待ちくたびれ健気な白い花が、花茎を曲げて仏炎苞を葉脈の上に置こうとした時、見下ろす坂の下に二つの影が現れ、途中何度も左右に揺れながら長い坂道をジグザグに登ってきます。

「はあ、いったい何軒の店でただ呑みしてるんだ。お前は」

「そんなもの覚えてられるか、酒を飲ませる店なんて星の数ほどあるんだぞ」

ようやく坂を登りきったピートとトニオはアパートの前の階段に座りこみます。飲み屋の主人達に小一時間も追いかけ回された二人の足は棒のようになっています。冷えた煉瓦の上に腰掛け火照った体を冷ましているピートの横で、トニオがポケットから携帯用のウイスキーボトルを取り出して口に当てます。

「くはぁ、うめぇ」

空いたボトルの口から染み出す芳醇な薫りが、乾いた喉と夜風に冷えていく体にウイスキーの味を思い出させ、ピートの喉を鳴らします。その音に気づいたトニオがニヤニヤしながらウイスキーボトルを差し出します。

「飲むか、友達(アミーゴ)」

ピートは一瞬躊躇しましたが、トニオの手からボトルを受けとるといぶかし気にボトルの口に鼻を近づけて、それから一気に喉の奥に流し込みます。

「うおっ、ごふっ」

胸から鼻まで駆け上がるアルコールの匂いにピートはたまらず咳込みます。

「はっはー、噴くなよ。上等のスコッチだぜ」

トニオが人懐っこい笑みを浮かべて、ピートの顔を真正面から見据えます。ピートは何だか気恥ずかしくなって、礼を言う代わりに、ぶっきらぼうに名前を言いながらボトルを返します。

「ピートだ」

言葉の意味が分からないトニオが不思議そうな顔をしているので、ピートはさらに言葉を重ねます。

「僕の名前はピートだ。サイコロでもなきゃ、郵便屋でもない」

「そうか、ピートか。とにかくさっきはありがとう、ピート。もう少しで楽器が弾けなくなるところだった。音楽のない人生なんて俺には死んだも同然だ」

ピートから名を告げられたトニオは、急に態度を正して礼を言います。

ピートはトニオの態度に驚きながらも、自分が言えなかった感謝の言葉をトニオが何の気負いもなく口に出せる事が、急にとても恥ずかしく思えてきて視線を外してしまいます。

〝この男の様に楽しい事を楽しい、悲しい事を悲しいとはっきりと感じられたら、人生は違うものになるのだろうか。もしかしたら、トニオは僕よりよほど素直に生きているのかも知れない〟

リリーがいるはずの四階の窓を見上げながら、ピートは体の熱が十分取れた事を知ります。

「別にいいさ。これにこりて少しは酒を控えろよ、友達(アミーゴ)」

心の奥に湧いた気持ちを気取られないように、ピートはわざと冷たい口調で言うと、立ち上がってトニオに背を向け、ズボンのポケットからアパートの扉の鍵を取り出します。玄関の扉をくぐったピートは、細くなっていく戸の隙間から見えるトニオのもの言いたげな視線を断ち切るように、扉を強く閉めて内鍵を掛けます。

「長い一日だったな。家を出てから何日もたった気がするよ」

ピートは古い手すりを掴んで、重くなった体を一段一段引き上げながら、今日一日の出来事を思い返します。

スミレの花のようなベルの笑顔、まだ見ぬ自由の闘志ジェフリー・リッテンバーグ、ひどくだらしないけど憎めない楽師のトニオ、恐ろしい取り立て屋の連中。ピートは先の事件を思い出し、背筋に悪寒が走ります。

「まったくあいつのせいでえらい目にあったな。当分の間はご遠慮したいね」

「はっはー、誰をご遠慮したいって」

独り言のつもりだった言葉に返す声があるのに驚いたピートの肩に、長い腕が絡みつきます。

「トニオ、まだいたのか。いい加減に家に帰れよ。そもそも、どうやって中に入ったんだ」

玄関の鍵は確かに掛けたはず、ピートは手に残っている感覚を確かめて疑問を感じます。トニオは質問には答えずにニヤニヤ笑いながらピートを追い越して、一つ上の三階まで上がると階段の手すりから身を乗りだしピートの顔を見下ろします。

「じゃあ、また明日な。ピート」

ポカンと口を開けているピートに手を振って、トニオは三階の扉の中に消えていきます。

「ああ、まったく今日は何て日だ」

階下の住人がトニオだという衝撃の事実に、ピートは額に手を当てながら、あまり高くない天井を仰いで呟きました。

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