三十三匹目 十二不思議『夢鏡』と『雲隠れの忍者』 その⑦

 場面は変わり、時は少し遡る。

 図書館の外に立つ洋善はスマートフォンの画面に目を落とした。現在時刻が表示される。日辻が突入してから約束の時間が過ぎようとしていた。帰ってくる様子は見られない。

 緊張の高まりを感じながら、洋善は図書館内に突撃させる用の羊を具現化させようとする。その瞬間、何者かが背後から洋善の腕を掴んだ。


「ッ!!」


 敵襲か──振り向きざまに具現化させた羊の一体を、背後にいる敵目掛けて叩きこもうとする。しかし、その正体を視認した瞬間、羊の動きはピタリと止まった。


「な、なんで……」

 

 洋善の頬に一筋の汗が流れる。

 彼女の目の前にいるのは、長いストレートヘアーの小柄な少女だった。


「なんであなたがここにいるんですかッ!? 先輩!」


 積識珠緒そっくり──否、積識珠緒そのものな顔立ちをしている相手に向かって、洋善は叫んだ。


「『池』……ま、まさか実はあの時死んでいなかったとか?」


 ありえる。夢遊者の世界に身を投じてからは常識では考えられないこと続きの毎日だ。

 死んだと思っていた先輩が生きてたっておかしくない──しかし。


「こっちの世界の私はとっくに死んでるよ、みよちゃん。なーんだ残念って感じだね、あはは」


 目の前の珠緒は、洋善の期待を否定するように首を横に振った。


「私は別の世界の積識珠緒だよ」


 そう言うと、珠緒はすぐそばにあった図書館の窓ガラスを洋善の腕を握っていない方の手で指差した。中のブラインドを下ろされているそれは、周囲の風景を映す鏡になっている。しかし、現在そこに映っているのは図書館の外ではない。

 そこがどこか洋善は瞬時に理解した。蟹玉高校だ。

 両手鋏の殺人鬼によって血の海に変えられた筈の校舎は、鏡の中では血痕ひとつない平和な光景を見せている。


「『過去と未来の狭間ビットウィーン・P&Fに私たちは生きている』。どう? 驚いた? これが、みよちゃんが抱いていた『積識珠緒が殺人鬼にならず、死ななかったら』という『後悔もしも』と『願望もしも』と『空想もしも』が『ビットウィーン・P&F』によって実現した世界さ」

「…………」


 洋善は呆然としながら鏡の中に広がる世界を眺めていた。

 そこには彼女が失ってしまったものがある。平穏で、普通で、なんてことのない日常だ。

 それはなんて素晴らしい世界なのだろう。珠緒が語る甘美な言葉に、洋善はこれが敵の夢遊者による宇宙夢であることも忘れ、今すぐにでも鏡の中に飛び込みたい衝動に駆られた。

 と、その時。

 洋善は気が付く。周囲に展開していたはずの『ウール・チェイン』の羊が数を減らしていることに。


「あれ? どうして羊が消えて……」

「あははー。思ったより早く気づいちゃったね、残念」


 あっけらかんと笑う珠緒。その表情は洋善の記憶に刻まれているものと全く同じだ。


「この世界で私が殺人鬼『シザー・レザー』になることはないし、『オニキス・クローゼット』になることはない──この世界にみよちゃんが『ウール・チェイン』に入眠するためのフラグはないんだ。それはつまり、この世界にみよちゃんが染まれば、宇宙夢を失ってしまうということなんだよ」

「…………!」

「今はその最中といったところかな。このままだとあと一分もしない内に『ウール・チェイン』を完全に失ってしまうだろうね」


 洋善の腕を握る珠緒の力がさらに強まる。離さないために。引きずり込むために。

 自分が敵の術中に嵌ってしまったことを理解した洋善は慌てて、残っている羊に攻撃の指示を下そうとする──が、できない。


「どうしたんだい? みよちゃんの世界の私と違って、この私は『シザー・レザー』としての能力を何一つ持ってないただの殺人鬼未満の一般人だよ。失いかけとはいえ、『ウール・チェイン』の突進を浴びせれば、それだけで殺せるはずじゃないかな」

「そ、そんなこと……できるわけがないじゃないですかぁっ!」


 目の前の珠緒が自分の知る珠緒とは別人であることは十分理解している。しかし、だからと言って攻撃できるはずがない。こんな場面であっさり割り切った攻撃が出来るのは、どこぞの羊野ねむりサイコパスくらいだろう。洋善はあくまで普通の女の子なのだ。

 先輩を倒すか、力を失うか。

 

「ぐ、『濠』……ぐうううううう……!」


 目尻に涙を浮かべ、血が滲むほどに歯を食いしばる。

 洋善は瞼を閉じて、空想した。それはこの数日間で何度考えたか数えきれないくらいの『もしも』の夢。殺人鬼なんかじゃなかった珠緒先輩とオカルト話に花を咲かせ、放課後は一緒に買い食いをして帰る。そんな普通の世界だ。宇宙夢なんて異能もないし、死人が出る悲劇も起きない。

 できることならそちら側に行きたい──だが。

 

「うううううううううううう『ウール・チェイン』ンーーッ!!」


 万時間にも感じられた葛藤の末、洋善は泣きながら己が異能を具現化し、積識珠緒の横っ腹に叩きこんだ。

 ボーリング玉級の重量が高速でぶつかった珠緒は吹っ飛ばされ、『もしも』の世界が上映されている窓にぶつかる。その衝撃で金属製の窓枠は歪み、ガラスが割れた。


「くそっ! くそっ! くそォォオ!」何度も羊を叩きこむ。とっくに珠緒の肉体は崩壊し、窓ガラスは粉々に砕け散っているのだが、それに構わず羊の突進は繰り返された。「この『敵』ッ! 絶対にぶっ殺してやるッ!!」


 まだ顔も名前も分からない敵への明確な殺意を叫びながら、洋善は腕を真横に伸ばす。

 すると、その延長線上に並ぶかのように羊が何匹も現れた。その出現のペースは凄まじく、洋善がとっくに本来の宇宙夢を取り戻していることが伺える。羊たちはみな一様に図書館内に顔を向けていた。

 次の瞬間、羊の群れは一瞬でマッハ台まで加速し、図書館内に突撃していく。図書館内からは轟音と崩落音が鳴り響き、埃が舞い上がった。中に日辻が先行していることを忘れるくらいに怒りに頭を支配されているとはいえ、とんでもない威力である。

 この攻撃で死んだ──と楽観視することはできない。

 洋善は気持ちが高ぶって荒くなった呼吸をしながら壊れた窓枠に足を乗せ、解体工事がされたかのような惨状を晒している館内に乗り込んだ。

 その足取りに慎重さなんてない。


「感情のままに動くなど、まるで獣の如き愚かしさだな。塵が」


 本棚の影から声がした。幼女の声だった。

 洋善の鼓膜がそれを感知した瞬間には、『ウール・チェイン』の大群がそこに目掛けて殺到していた。

 また『ビットウィーン・P&F』で作られた『もしも』の世界からやってきた誰かか? 物陰に隠れていたし、認識した瞬間に攻撃を開始したので、足に履いている赤い靴しか見えなかったが。そもそもあんな声を聴いたことは一度もない──洋善がそう考えていると、また別の所から声がした。 


「我が思うに、宇宙夢は心の力だ。その性能が感情で高まることは確かにあろうが、今の貴様のような精神ではエンジンを空ぶかししているようなものだ。無暗に暴れるだけなら白痴の赤子にも出来るぞ」


 羊を叩きこむ。空を突っ走るだけだった。


「あいつは『過去と未来の狭間に私たちは生きている』と言っていたな。過去に立ち返り、考えてみろ。そうすれば、本当にすべきことが分かるだろう──以上、南北!」

「誰だ、誰なんだお前は!?」


 叫ぶ洋善。返事の声はない。世界中の全てを見下すような声で語る幼女はそれ以降出現しなかった。

 怒りで頭がおかしくなったのか? さっきの幻聴に従うわけではないが、少し冷静にならなくては──反省する洋善。

 そのまま館内を歩いていると、倒れている日辻の姿が見えた。その瞬間、洋善は日辻が先行して館内に這入っていたことを思い出した。


「日辻さん!? 大丈夫ですか!?」


 慌てて駆け寄り、声を掛ける。


「大丈夫でござる……ちょっと斬られたくらいで、あまり重傷は負ってないでござるからな。ただ、拙者はこれ以上戦えそうにないでござる」

「『ビットウィーン・P&F』の力で宇宙夢を消されたからですか……」

「如何にも。『要石』の力で『ビットウィーン・P&F』からの干渉を僅かに打ち消したことでギリギリまで対抗できていたでござるが、それも奪われた今、力はほとんど残っていないでござる」

「『要石』?」

「今は時間がないので省かせてもらうが、拙者の命より大切なものと考えてくだされ──『ビットウィーン・P&F』の本体、臥水明は洋善殿の攻撃から身を守った後に、あちらへと向かって行ったでござる」


 言って、日辻は重厚な金属製の扉を指差した。地下の書庫に続く階段の扉だった。


「先の話を思い返すに、奴はここで『本』を守っているようでござる。洋善殿の宇宙夢の威力を知ったことで、逃走よりも『本』を抱えての逃走を優先することに決めたのでござろう」

「分かりました。すぐに追います。日辻さんはここで休んでいてください」


 そう言って立ち去ろうとした洋善だったが、彼女の足を日辻の左手が掴んだ。

 というより、左手でしか掴めていない。

 日辻の右手は消えていた。

 

「どうしたんですかそれ!? まさか、さっきの『大丈夫』は強がりで、本当は手を切られていたんですか!?」

「違う。上を見てくだされ」


 言われるがままに顔を上げる。そこには小さな雲が浮いていた。


「『アルトキュームラス』。残った力を全力で使って、右手だけを雲に変えた──一緒に連れていってくだされ。きっと役に立ってみせるでござる」


 日辻の覚悟が籠った言葉に洋善は頷くと、次こそは本当に書庫へと向かった。

 その先に待ち受けるのは果たして──?

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