四匹目 十二不思議『シザー・レザー』 その③

 刃の進行を阻む綿の登場に『シザー・レザー』は困惑していた。顔の殆どが襟に隠れていてもそうだと見て取れるくらいである。

 綿を両断しようとする。だがどれだけ力を込めても、刃がそれ以上進むことは無かった。

 ならばと腕を振りかぶり、綿が浮いていない別の経路から改めて洋善の体に刃を走らせようとする。しかし次の瞬間にはふたつ目のコットンボールが現れ、先ほどの繰り返しのように鋏はふんわりと受け止められたのであった。

 三度目、四度目、五度目──目にも止まらぬ速度で次々と空間を切り刻む。その斬撃は全て、洋善の体に触れる直前で停止させられる。何度目かの攻撃が終わった頃には、夥しい量の綿が空中を浮遊していた。


「これは……」襟で覆われた向こう側から声がした。くぐもっていて聞き取りづらい声だった。「宇宙夢コスモチューム……?」


 『シザー・レザー』が呟いた聞きなれぬ単語に、洋善は胸中で首を傾げる。その意味が気にならないと言えば嘘になるし、それが自分の身の回りで突如として起きた『綿の発生』に関係があるなら猶更気になるのだが、今はそんなことに考えを巡らせている場合ではない。

 

「なんだか分からないけど今がチャンス!」


 慌てて立ち上がり、逃走を再開した。一心不乱に走っていく洋善を『シザー・レザー』は追いかけない。

 両腕をだらりと下げ、じい……と洋善の背中を睥睨するのみだ。

 すっかり見えなくなった頃、『シザー・レザー』は口を開いた。


「相手の能力が不明な今、深追いは避けたけど……あの様子はもしかして自分でも『宇宙夢』が分かっていないのか? つまり入眠したてってこと?」


 「いや、違う」と首を横に振って自分の推測を否定する。


「綿が空中に現れた時、あの子の服装は制服のままだった。『コスモ・トランス』をしていなかった。それはつまり、まだ完全に宇宙夢に入眠してすらいない未熟な状態ってことだ」

 

 『シザー・レザー』は己の腕から生える鋏を見つめた。その刃には一切の欠けも無ければ錆もない。そこにあるのは触れるもの全てを絶対に両断するという執念じみたものすら感じさせられる鋭さだけだ。


「あの子は宇宙夢が未熟なのに私の刃を止めてみせた……そんなことがあっていいのか? ──いいや、ダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだ……ダメだッ!!」


 病的なリズムで喋りながら、両腕をぶんぶんと振り回す。次の瞬間、彼女の周囲の壁と床と天井に夥しい亀裂が走り、轟音を立てて崩壊した。土煙が上がり、空間を灰色に染め上げる。


「遅達洋善──君だけは絶対に許さない。『彼女』から与えられた私の宇宙夢『バッドバッド・マリオネット』を以て、体中寸刻みにしてやるんだから」


 崩落が収まって土煙が晴れた時、その場にはもう誰も居なかった。



 洋善は荒い息を吐きながらもなんとか自転車置き場に到着した。後ろを振り返ってみても、『シザー・レザー』は追いかけてきていない。

 ポケットからカギを取り出し、自転車のロックを解除する。

 横から伸びてきた手が洋善の腕を掴んだ。


「ぎゃあああ!?」


 『シザー・レザー』に追いつかれたと思った洋善は悲鳴を上げた。しかしよく見ると、自分の腕を掴んでいるのは鋏ではなく人の手である。まるで綿でできているみたいに白くて柔らかい子供の手だ。

 視線を上げて、手の本体に目を向ける。

 洋善の腕を掴んでいたのは、羊の仮面を被っている少女だった。

 どうして性別まで断定できるのかと言うと、そのファッションがヒラヒラでフワフワのロリータファッションだったからだ。女装趣味の少年という可能性もあるかもしれないが、描写の上では少女と断言して差し支えないだろう。

 

「え、あなたって、ええ?」


 昨日の『蟹北湖』での聞き取り調査で土産物屋の店主から聞いた話に登場したものとそっくりそのままな存在の登場に目を丸める洋善。


「また遅かったか……」


 羊仮面の少女は後悔の念が混じった声で呟いた。


「だけど、生存者を見つけられたのは僥倖だ。それに『シザー・レザー』と真正面から対峙して逃げられた辺り、『宇宙夢』に目覚めている、あるいは素質があると見て間違いないしね」

「あの、貴方はいったい誰なんです? それに『宇宙夢』って……」

「そうだね、まずは自己紹介をしなきゃいけないか。相変わらず人付き合いが上達しないな」


 人付き合いで言うと少女は人と会うのに仮面を被るという失礼を現在進行形でしているのだが、それはさておき、そのファンシーな見た目とは裏腹に聞く者に力強い意志を感じさせる口調で、彼女は言った。


「私の名前は羊野ねむり。二週間前に崩壊した夢遊者ギルド『春眠』に属していた夢遊者だよ」

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