三匹目 十二不思議『シザー・レザー』 その②
自転車で慣れない道を走って駅に着いた洋善が姉から与えられた報酬は、熱い抱擁だった。
感謝の言葉を言う姉に胸元へ抱き寄せられ、髪がぐしゃぐしゃになるまで撫で回された。そのせいで朝から周囲の冷たい視線があちこちに突き刺さったが、まあそれは些細な問題だ。些細な問題だということにしよう、と洋善は考えた。
何せ、彼女にとって今最も重要な問題は、学校に間に合うかどうかだからだ。
駅前を発つ際に見た時計を信じるなら、現時点で朝のホームルームの時間はとっくに過ぎている。今からどれだけ全速力でペダルを回したとしても、一限の授業に遅れるのは不可避だろう。
「いっそのことこのまま家に帰って休んじゃおうかな」
気だるげな声で呟く。姉との濃密な交流は朝から彼女の元気を搾り尽くしていた。
洋善がもう少し不真面目な学生だったら、その言葉通りに家へ直帰していたかもしれないが、彼女は良くも無ければ悪くもない何処にでもいる小市民である。
故にめんどくさがりながらも、その足は着々と蟹玉高校へと向かっていた。
そして十五分と少しが経って──洋善は蟹玉高校に到着した。
「……?」
洋善は校門を潜りながら奇妙な違和感を抱いていた。そりゃあ、普段とは異なる時間帯に通る校門に違和感を抱くなという方が無理な話なのかもしれないが、それにしてもどこかおかしい──静かすぎる。
校舎の方に耳を傾けると、同じく奇妙な静けさに支配されていた。
まるで中に誰もいないみたいだ。
「今日ってもしかして創立記念日で休みでしたっけ?」
記憶の中にあるスケジュール帳を開いてみても、そんな予定は一文字とも書かれていない。
不気味に思いながら自転車置き場に愛車を置き、校舎に足を踏み入れる──出迎えたのは、大量に転がっている一センチ四方の肉片と、赤黒い水溜まりだった。
「え?」
その光景を目にした洋善が最初に見せた反応は、困惑だった。
慣れ親しんだ学び舎に異物が混ざり込んでいることに対する困惑──やがて、鼻腔を刺激する鉄の臭いと肉片と共に転がっている細切れの布から、それらが元は何だったのかを理解し──
「お、う、ぐぅ、ええええええええええええええ」
嘔吐した。
洋善はオカルト研の資料で死体の絵や写真をいくつも見てきたが、彼女の目の前に広がる光景には、それらとは次元の違う悍ましさがあった。視覚だけでなく、それ以外の全ての感覚も総動員で死の感覚を伝えてくる。
「だ、誰か!! 誰か来てください!! 死体が!!」
あまりのショックで途絶えそうになる意識を必死に持ちこたえさせながら、吐瀉物まみれの口で叫ぶ。
返事の声はなかった。
校舎内には依然として、誰もいないかのような静けさのみが漂っている。
「……………もしかして」
頭に浮かんだ推測に顔をますます青ざめさせながら、靴を履いたまま玄関口を上がり、付近の教室に向かう。
窓越しに見えた教室は、大量の血と肉片が撒き散らされていた。
次の教室も、次の次の教室も、次の次の次の教室も、室内で巨大なミキサーが回転したかのような光景があるだけである。
女子も、男子も、生徒も、教員も、若人も、大人も、それら一切合切が切り刻まれていた。
「お、落ち着け。まずは警察を呼ぼう。そう、警察を……『洋』、『海』、『洲』、『滝』、『湖』、『油』……」
狂いそうになる頭を正常に保つべく、さんずいが付いている漢字を思いついた傍から暗唱していく。己の名前にも含まれているさんずい付きの漢字を口にすることが、洋善の精神を安定させる普段からのルーティーンであった。もっとも、この状況でそれにどれだけの効果があるかは分からないが。
フラフラな足取りで歩きながら、携帯電話を取り出す。
「『汁』、『汗』、『汎』……」
まるで一時でも途切れれば死んでしまうんじゃないかと思わされるくらいに深刻そうな表情で漢字を呟きながら、警察に繋がる三文字の数字を入力する。
いくつかのコール音の後に電話が繋がった。通話口の向こうに居る相手に救難信号を届けるべく、洋善は口を開こうとした──が。
視線の先にいつの間にか立っていた人影を目撃したことで、彼女の開かれた口はぽかんと開いたままになる。
その人影は、遠目からでも特徴が詳細に分かるくらい目立つ外見をしていた。
顔の下半分を覆うほどに高い襟。全身を包む革製のコート。本来ならば手があるはずの位置から生えている長く鋭い二対の鋏──鋏。
その刃は血に塗れていた。
「『波』、『泳』、『汲』……まさか……」頬を汗が伝う感触を感じながら、洋善は呟いた。「まさか、こんな地獄のような惨劇を生み出したのって──」
『シザー・レザー』。
K市に突如として現れ、数多の人間を切り刻み、その犯行と異形の風貌を以て人々から恐れられている怪物は、洋善の姿を認めた途端、凄まじい勢いで駆けだした。
「ひっ、うわあああああああああ!!!!!」
洋善は脇目も降らず逃げ出した。その拍子にスマホを落としてしまったが、拾いに戻る余裕はない。背後からは『シザー・レザー』が走る際に両手の刃同士がこすれることで生じる甲高い金属音が鳴っており、洋善の背筋に怖気を走らせた。
逃げて、逃げて、とにかく逃げる。
校長室付近を横切る際に、扉の前に飾られていた壺を掴み、後方目掛けて放り投げた。別にこれが『シザー・レザー』の頭に当たって意識を奪えるなんていうミラクルは期待していない。多少の足止めを望んでの行動である。しかし、飛んできた壺に対してとった行動は、右手の鋏をぶんと横薙ぎに振ることだけだった。たったそれだけで、壺は空中で三十四分割された。目の調子を疑いたくなるほどに現実離れした絶技である。校舎中に転がっている肉片も、あんな風に生産されたのだろうか。
「どうしよう……『泥』……どうすればいい……『泡』……」
現状の打開策を生み出そうと脳をフル回転させる。だが、精神に著しいショックを受け、背後からは殺人鬼のプレッシャーを感じ、決して高くはない身体能力で全力疾走を続けている状態では、考えひとつまとめることにすら多大な労力を要される。
「まず今の私にとって最も重要な目的は『殺人鬼を相手に生きて帰る』こと……『洞』……なら、そのためにすべきことは?」
洋善がパッと思いついたのは、以下の三択だった。
①殺人鬼を返り討ちにする。
②どこかに隠れてやりすごす。
③警察でもなんでもいいから、安全な場所まで逃げて保護してもらう。
「『浜』……まず①は論外。腕の一振りでサイコロステーキを量産できるような奴を相手に勝てるわけがない……『浦』……②もダメ。こんな足で隠れても、すぐに見つかっちゃうでしょうし」
蟹玉高校の床の至る所をレッドカーペットにリフォームさせている血の海を走り回った洋善の足元は、真っ赤に染まっていた。まるで赤い靴を履いているみたいだ。そんな状態で歩けばフットスタンプが付いてしまうし、どこかで洗い流す暇もない。
「残った③は……『活』……一番現実的な案ですけど、どうだろう。あんな化物を相手に私はあと何分逃げられる? ……『渇』……その間に『安全な場所』に着くことは出来るんでしょうか」
それに。
「ひとつの学校を皆殺しにしてみせた『シザー・レザー』から私を保護できるような場所がこの近くに……ううん、この世界にあるんですかね?」
口から出た絶望的な予想で足取りが重くなりかける。
「『添』……とりあえず自転車置き場を目指しましょう。見たところ『シザー・レザー』が走る速度は人の域を超えていないし、流石に自転車で逃げれば追いつかれない……はず」
目的地が定まった洋善は、そこで床を強く踏みつけた。その行動によって起こされる当然の結果として、彼女は更に加速し、足元にあった血の水溜まりが『シザー・レザー』の顔に飛び散った。
「液体の血なら、どれだけ刃物を振っても切ることはできないでしょ? ……同じ学校に通っていた『誰か』の血を足蹴にしたのは罪悪感があるけど、あなたのような化物から逃げるためにはこうするしかない!」
洋善が放った血の目潰しを文字通り面食らった『シザー・レザー』は、その動きを鈍らせる。それはほんの僅かな減速だったが、そのおかげで洋善は更に距離を作ることに成功したのであった。
得られたアドバンテージが縮まらぬ内に自転車置き場に戻ろうと、洋善は一番近い窓を開けた。これまでは殺人鬼から逃げるのに必死で窓を開ける時間さえなかったが、過去と未来の狭間ならチャンスである。洋善が居る階は一階なので、窓から飛び降りたとしても死ぬことはない。
開かれた窓枠に足を乗せ、そのまま勢いよく飛び出そうとした──その瞬間だった、洋善の真横から刃が高速で飛んできたのは。
「うわああああああああああああ!!!」
乗せかけていた足で窓枠を蹴ることで、仰け反るようにして後方に跳ねる。寸でのところで刃の襲来を回避した。標的を仕留め損ねた刃の弾丸は、そのまま空中を突っ走り、数十メートル先にあるコンクリ製の壁に深々と突き刺さった。
串刺しになることは避けられた洋善であったが、咄嗟の行動の所為で床に腰から墜落してしまう。慌てて起き上がろうとしたが、その頃にはとっくに『シザー・レザー』が追いついていた。
「な……『清』……どうして刃が飛んで……」
見ると、『シザー・レザー』の右腕にさっきまであった鋏が消えていた。
まさか自ら鋏を外して飛ばしたというのか?
ニョキニョキと新たな刃が生えてくる『シザー・レザー』を見た洋善は「そうか」と声を漏らした。
「遠距離に対応した攻撃が無ければ、校舎内に居た人間を一人も逃がさずに皆殺しにするなんて不可能ですよね。よく考えれば予想できた攻撃でした」
もっとも、今更分かっても全てが遅いのだけども。
洋善がそれ以上の言葉を言うのを待たずに、『シザー・レザー』は新生した右腕の鋏を振り上げる。
あと一秒もしない内にそれは下ろされて、新たなバラバラ死体を生み出すだろう。
だが、己の死を悟った洋善は、恐怖や怯えから目を瞑るなんてことはしなかった。
何故か分からないが、そうしなければならないと心のどこかで思ったからだ。
それは彼女に残された意地だったかもしれないし、最後まで活路を探そうとする抗いだったのかもしれない──そして。
そして。
『シザー・レザー』の刃が洋善を両断することはなかった。
なぜなら、空中に突然出現したバレーボールサイズくらいの『コットンボール』が刃をふんわりと受け止めたからである。
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