ナトリウムオレンジ

ナトリウムオレンジ

 つまるところ、今朝方降った小一時間ほどの雨が全ての悪の元凶なのだ、と僕は思った。

 薄暗いトンネルの中、僅かな汗ばみを肌で感じつつ早歩きで出口を目指すのはあまり心地の良いものではなかった。それが重い教科書を詰め込んだリュックを背負っているとなれば尚更だ。

 腕時計に目を落とす。暗がりと、文字盤で反射するトンネルのオレンジ色の照明のせいで読みにくいが、タイムリミットまであと十分といったところか。ギリギリだな。

 僕は一つため息を吐き、もう少しだけペースを上げる。帰宅部の心肺機能の限界を如実に感じつつ浮かんでくるのは一時間ほど前の自分を殴りたい衝動だけであった。




 僕が通っている高校は、山を背にしたところに建っている。

 戦国時代だったら防衛戦略的に完璧な立地だが、生憎と憲法9条に守られている現代ではそのメリットが発揮されることは無く、基本的には交通利便性を低下させるにとどまっている。あとは稀に保健体育でオリエンテーションと称した、山の神体験大会をさせられることがあるが、まあその話は一旦置いておこう。……脳筋体育教師共め、絶対に許さん。


 山、といっても別に山脈のように連なっているわけではなく、市街地の中にポツンと取り残されたように存在する山なので、それほど大きくはない。イメージとしてはエアーズロックが近いだろうか。あんなに立派じゃないけど。

 だから僕も別に毎日山を上り下りするハイジみたいな生活をしているわけではない。口笛を吹いてもそんなに遠くまで聞こえない住宅街から自転車を使って通学している。


 たがしかし雨、こいつが厄介なのだ。


 コパン君という僕のあだ名からも連想できるように、僕はメガネユーザーである。そしてメガネと雨と自転車というのは非常に相性が悪い。梅干しと鰻並みに悪い。視界のほとんどが遮られ、街灯一つですらぼやけて見えなくなるのだ。この話に共感できなかった人は、ぜひ一度安全な場所で試してみて欲しい。車にワイパーが標準装備されている理由を身体で理解できるだろうから。


 さて、では雨が降ったときはどうやって通学しているかといえば答えは簡単、公共交通機関のエース、バスである。

 わが校は非常に恵まれていることに、バス停が校舎の目と鼻の先に存在する。加えて僕個人も恵まれており、自宅付近のバス停と件の学校前のバス停が一本の路線で繋がっているのだ。そう。インフラ勝者なのである。

 とはいえやはりバスを使うとなれば、財布との相談も必要になってくる。そのため僕は雨天時以外は自転車を使うというマイルールを定め今日まできっちり守ってきたのだ。


 そして今朝、雨が降った。

 僕は嬉々としてチャリ鍵を机の上に放り投げ、バスに揺られて学校にやってきたわけだが……これがまずかった。


 一時限目が終わる頃には雨はすっかり上がり、雨雲に代わって新たに出現した太陽のせいでもわんとした暑さが世界を覆い始める中、スマホのリマインダーが元気よく声を上げた。

『デモンズファンタジー3 発売日』

 ……失念していた。

 休み時間で騒がしさを増す教室内で、僕は一人頭を抱えた。そういえば今日はデモンズファンタジーの新作の発売日だった。もうずっと前から楽しみにしていたのに、まさか発売日当日になって頭から抜け落ちてしまうとは……。今日チャリで来てないんだよなあ……。


「コパン君どしたん?」

 肩を落としため息を吐き机に突っ伏し露骨な落ち込みアピをしていた僕を気遣ってか、声を掛けてくれたのは陽キャ君だった。

「あー……、いや大事な用事を忘れててさ……」

「ふーん。大事な用事? また何か変な食い物作るつもり?」

「そうじゃないそうじゃない」

 この人の中での僕のイメージだいぶ偏ってません?


「今日新作のゲームソフトの発売日なのにバスで学校来ちゃったんだよねー」

「へー……って、ん? どういうこと?」

「だから、今日新作のゲームの発売日だったのに自転車で来なかったってこと。はー最悪」

「ん? ん? ごめん全然理解できなかった」

 え、何。こんだけ言っても理解できないの? さすが人の話を聞かないでお馴染み陽キャなだけある。

「えーと、んじゃ例えば欲しいゲームソフトがあったとしてどこに買いに行く?」

「電機屋とかおもちゃ屋じゃね?」

「だよね。んじゃその類の店でこの学校から一番近いのは?」

「えーと、あー山の裏のヤ〇ダかな」

「そうそう。そんで僕は今日の帰りにそこに寄ってゲームを買って帰るつもりだったんだけど、そのために必要なアシである自転車が無いから困ってるって話」

 ここまで説明すれば、さすがの陽キャ君でも理解できるだろう。


 と思っていたのだが、どうやら彼の表情を見るにまだ得心がいっていないらしい。なんだよ。これ以上の神授業は僕には無理だぞ。関先生呼んで来い。

「それ……明日でよくね?」

 ……。

 …………。

 カ――――ッ‼ ダメだこの男何にもわかっちゃいない!

「ダメだよ! ダメに決まってんじゃん! デモファン、デモファンだよ⁉ あの超大作RPGデモンズファンタジーの五年ぶりの新作だよ⁉ これを発売初日に買わずして君はそれでもファンを名乗れるの⁉」

「お、落ち着けよコパン君……。てか俺一度もファンを名乗ったこと無いんだけど、その、何だっけモ、モエヤン? みたいなやつの。俺ゲームそんなに詳しくないし。そんなに凄いの?」

 デモファンな、デモファン。言ったか? 僕そんなヌーブラヤッホーな名前、言ったか?


「凄いよ! もう一大ニュースだよ! サッカーで言ったらメッシがJリーグに移籍してくるレベル。あとはゴッホの新作が見つかったとか、投票率が百パーセント超えたとか、とにかくそのレベルで凄いよ!」

「うっそマジかよ! そいつはすげぇや‼」

 ごめん嘘さすがに盛った。正確には多摩川のタマちゃんが荒川に引っ越してたとかそのレベル。


「そんなに凄いなら、そりゃ発売日に是が非でも欲しいよなぁ」

「うん。だから落ち込んでたんだよ」

「ん? だったら歩いて行きゃいいんじゃないの? そこのヤ〇ダでしょ?」

「いや、そこって言ったってトンネル抜けなきゃだから結構距離あるし、帰りのバスの時間もあるから遅れるわけにもいかないし……」

「そうか? 俺たまに部活であの辺まで走りに行くけどそんなに遠くないぞ。歩きだって三十分あれば足りるんじゃない?」

 むむ……。確かにそう言われるとそんなに遠くない気がしてきたぞ……。

「もう雨も完全に上がってるし、これからもっかい降ることも無いでしょ。そんなに楽しみなら、ちゃっと歩いて買って来なよ」

 陽キャ君がニコッとはにかむと同時に授業開始のチャイムが鳴った。




 結論から言うと、陽キャ君の予言は片方は当たり、もう片方は思いっきり外れた。

 的中したのは天気の方で、おかげでプラ袋に収まっているデモファン3のパッケージが雨に濡れるなんていう悲劇は起こらなかった。


 外れたのは距離感と時感のほうだ。

 何がそんなに遠くないだよ、おい。片道だけで三十分オーバーしたぞ。おかげで今こうしてトンネル内を競歩する羽目になったんだからな。責任とってくれよ。

 いや、そもそもバリバリの運動部の発言をそのまま自分に置き換えて受け取った僕が馬鹿だったのか。というかそもそものそもそもを言えば、朝少し濡れてでも自転車で来ればよかったのか。


 つまるところ、今朝方降った小一時間ほどの雨が全ての悪の元凶なのだ。


 バスの時間まではあと十分。ギリギリだ。田舎の路線バスだから、それを逃したら次はいつやってくるか分かったものではない。絶対に逃すわけにはいかない。

 顔を前に見やり、ようやくはっきり見えてきたトンネルの出口に向かってオレンジ色の照明の下を駆け出す。


 そういえば前に、トンネルのあの独特なオレンジのぼやんとした光の主成分はナトリウムだとどこかで聞いたことがある。オレンジ色を背にして走るとかいうせっかくの青春チックイベントなのに。僕の背中を押すのは夕日なんていうカッコいいもんじゃなくてナトリウム。塩の片割れ。同じオレンジ色なのにどうしてこんなにダサくなるんだろ?


 そんなことを考えながら走り続けていると、いつの間にかバス停に着いていた。バス停の側に置かれた青ベンチに座る人達の姿を見るに、どうやら時間には間に合ったようだ。ふー。良かった。


 額の汗を拭い、息を整えながら空を見ると、綺麗な夕焼けが目に飛び込んできた。午前中の雨のおかげで空気が澄んでいるのか、いつもより色鮮やかで文字通り焼けるようなオレンジだった。なんだよ、雨も少しはいいことすんじゃん。


 上気した汗で曇った眼鏡を制服の裾で拭いつつ、もう一度夕焼けを見上げる。


 裸眼のぼやっとした視界で見たからだろうか。


 太陽の強烈なオレンジも、あのナトリウムのチープなオレンジも。


 どちらもそう違い無く美しいように思えた。

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放課後のパルプンテ おぎおぎそ @ogi-ogiso

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