手を振る誰か

逢雲千生

手を振る誰か


 これは、私が小学六年生の時に体験したお話です。

 

 都心から少し離れたところにある私の実家は、その辺りでは土地がある事で有名でした。

 父が家を継ぐと敷地内に会社を建てて仕事を始め、それほどお金に困らない生活ができるほどには裕福だったと思います。


 父が立ち上げた会社では、家族だけでなく両親の親戚達も働いていて、歳の離れた私のいとこ達も就職していました。

 親戚は実家に近いところに住んでいる人が多かったので、就職難が続いた戦後は、土地を活用した事業を行っていた私の祖父を頼って、ほとんどの人が仕事に就けていたと聞いた事もありました。


 父の会社では、当時はまだ珍しかった宅配サービスの請負をしていて、会社と民間の架け橋のような仕事をしていたと思います。

 高価な家電や一部の専門的な道具を、工場や会社から直接買いたいという一般の人がいて、買った物を安全に届けてくれる宅配業者を求める人がいたからだそうです。


 都心に近い事もあり、会社はすぐに軌道に乗りました。

 高度経済成長期に入った事もあって、今では信じられない高値で仕事が出来たという事もあったのでしょう。

 あの頃のみんなは金銭感覚がおかしくなっていて、高級外車を簡単に買ったり、海外旅行を好きなだけしてみたりと、同い年くらいの子供でも贅沢をしていた人がいたくらいでした。


 しかし血縁者の仲が良いからといって、それだけで仕事ができるほど甘くはありません。

 事務所にはいつも親戚の誰かがいましたが、家族や親戚以外の人も働いていました。


 健二けんじさんという大柄な男性は、奥さんはいましたが子供がおらず、小さかった私をとても可愛がってくれました。

 家族はみんな仕事に集中し、家に帰っても誰もいなかったので、事務仕事をしていた健二さんのところに遊びに行っては、彼の隣の席に座ってお絵かきなどをしていたのです。


 あの頃は景気が良く、働けば働くほど儲かっていました。

 両親は今でも「あの頃は良かったなあ」とぼやいていますが、子供だった私は嫌いでした。


 物心つく前から仕事に没頭していた祖父母も、私が小学生になると「一人で大丈夫だろう」とほったらかしにしていた両親も、稼ぐことしか考えていなかった親戚達も、みんな目の色を変えてお金にばかり執着していたからです。


 それを恐ろしいと思いながら会社に行っていましたが、健二さんの笑顔を見ると、一時的にも忘れる事ができました。

 それが心地良くて、用事がなければ毎日でも入り浸っていたほどでした。


 健二さんはかなり年老いていて、この頃で七十歳近かったのですが、他に事務仕事ができる社員がいなかったため、定年を迎えても働いていました。

 祖父母の代からお世話になっていると言っていたので、戦後の就職難を経験している彼には恩があったのでしょう。

 毎日文句も言わずに残業し、疲れた顔で帰っていく姿を何度も見ていましたから、それだけ彼の誠実さにみんなが救われていたのだと思うのです。

 

 私が小学六年生の頃です。


 夏休みが一ヶ月を切ったある日、友達の都合で遊ぶ約束が無くなってしまったので、暇つぶしに会社へと向かいました。


 会社に行くと、仕事場では滝のように汗をかいた両親と親戚達が梱包に追われいて、トラックへの積み込みに奔走する社員さん達が会社中を走り回っていました。


 最初は近くを通りかかった人に声をかけていたのですが、怒られはしなかったものの、あきらかに「邪魔だ」という顔をされたので、落ち込みながら健二さんがいるであろう事務所へ行ったのでした。


 しかし、事務所には誰もいませんでした。

 いつもなら誰かが電話番をしているのですが、この日は発注と発送が重なってしまい、営業から戻ってきた人も急いで出かけ直すほど忙しかったのだそうです。


 そうとは知らない私は、悪い時に来てしまったなと落ち込んでいて、健二さんの席の隣に座りながら天井を見上げていました。

 背もたれのある昔の事務用椅子は硬く、体に優しくはありません。

 金属に薄いシートを貼っただけの背もたれと、クッションがわりの黄色い綿のような素材を入れただけの座席部分は特に硬く、私はいつもお尻が痛くなっていました。


 こんな硬い椅子に座って、毎日毎日仕事をしている健二さんは大変だなあと思っていると、窓の外から声が聞こえました。

 初めは気のせいかと思っていましたが、だんだんとハッキリしてきた声に気がついて窓の外を見ると、駐車場から手を振る誰かが見えたのです。


 事務所はプレハブみたいな建物の一階にあり、三階建ての薄い鉄のかたまりでしたが、上の階がある程度の熱を遮断してくれていて、窓の外とは気温差がありました。

 外は蜃気楼が見えるかもしれないほど暑くて、扇風機だけでも十分に涼しい時に室内から外を見ていると、景色が揺らいで見えるほどでした。


 この日は特に暑かったため、事務所は冷房を入れていました。

 いつもは扇風機でもなんとかなっていましたが、3Cさんしーと呼ばれる家電が一般家庭に入り始めた頃でしたから、今では考えられないほど高価な物を買っていた事に驚いたのはこの頃です。


 家では扇風機で我慢しろと言っているのに、自分達だけは社員さん達と涼んでいたのかと怒った時もありましたが、その時健二さんにこう言われました。


『お父さん達だって、美香みかちゃんに涼んでもらいたいと思っているよ。だけどね、社長さんにとって社員は大事な仲間なんだ。仲間を大変な目に遭わせたら、お父さん達はとてもガッカリしてしまうんだよ』


 健二さんはそう言って、私にアイスキャンディーを奢ってくれたのです。


 この頃はアイスも贅沢な物で、アイスキャンディーであっても子供のお小遣いでは厳しいものでした。

 私は人より貰えていた方でしたが、それでも文房具代に消えていたので、本物のアイスを食べたのはもっと大きくなってからです。


 健二さんも一緒に食べましたが、その時はなぜ健二さんがそんなに熱心になって教えてくれるのかはわかりませんでした。

 それでも「お父さん達は大変なんだなあ」と思うところがあったため、私はそれ以来何も言わなくなったのでした。


 夏だけの贅沢だからと、私が涼みに来てもお父さん達は何も言いません。

 社員さん達も仕事の邪魔をしなければ何も言いませんでしたが、涼しさを独り占めできる状況だったのに、この時は少しだけイラついていたのかもしれません。

 いつもなら無視するのに、なぜかこの日に限って窓の外が気になってしまったのです。


 窓の外で手を振る人は、会社で使うワゴン車の前から手を振っていました。

 ワゴン車は事務所から一番遠い所にありましたが、こんな暑い日にはクーラー付きの乗用車を使っているので、新入社員の誰かが間違えてしまったのかと思いました。


 鍵は社長である父と、副社長である母、そして事務所にずっといる健二さんの三人が管理していたので、車に乗るにもどこかに出入りするにも、必ず三人の誰かに頼まなければいけなかったのです。


 なので、面倒くさがった誰かが気づいてくれるようにと手を振り、あわよくば鍵を持ってきてもらおうと考えているのではないか、と推測しましたが、そんな事をするよりも走って戻ってきた方が早いほどの暑さです。


 あまり視力が良くなかった私は、遠すぎて顔も服装もボヤけて見えなかったので、自分には関係のない事だと無視したのでした。


 涼みながら宿題を始めると、だんだんと汗がひいてきて、あれほど落ち込んでいた気持ちも元に戻ってきました。

 よく考えてみれば、忙しい時に声をかけた自分が悪かったのだと気づいた私は、後でみんなに謝ろうと思いながら問題を解いていると、もう一度駐車場が気になりました。


(そういえば、あの人まだ戻ってこないよね……)


 時計を確認すると二十分以上も経っていたので、さすがに楽するのを諦めたのかと思ったのですが、それにしても事務所に来ないのはおかしい事です。


 会社で使う鍵は、車の鍵も含めて全て事務所で保管しています。

 社長や副社長、健二さんに声をかけたとしても、必ず三人の誰かが保管場所の鍵を開けて直接手渡しをするのが決まりだったので、あのまま三人の誰かに鍵を貸して欲しいと頼んだとしても、こんなに時間がかかるものなのかと不思議に思いました。


 いくら発送に時間がかかっても、車を使う人を後回しにはしません。

 この頃はまだパソコンが無かったので、発注をする場合、販売元の会社などに直接頼みに行かなければならなかったので、それを知っていた私はおかしいと思ったのです。


 おそるおそる窓の外を見ると、一瞬悲鳴が漏れました。

 しかしそれを我慢して口を押さえますが、目に入った光景は変わりません。


(な、なんで……?)


 心の中でそう呟きながら見ていたのは、窓の外で遠くから手を振る男性でした。


 先ほどは一番遠いワゴン車の前にいた人が、今度は数メートル近づいて、社員の車の前にいるのです。

 その前で思いきり手を振っていて、先ほどよりも事務所に近づいてきているのが、はっきりとわかりました。


 手を振っているのが作業着を着た男性だとわかったのですが、それでも顔が見えるほど近くはなかったので悲鳴は飲み込むことができました。

 ここで悲鳴をあげたら駄目だと直感した私は、気づかなかったフリをして宿題を続けたのです。


 事務所で聞こえるのは時計の針が進む音だけでしたが、いつもは気にならないその音が、この時は怖くて怖くて仕方ありませんでした。


 ーーどうしよう、このままお父さん達の所に行こうかな。

 ーーそれとも、健二さんが戻ってくるまで待っていた方がいいのかなあ。


 心の中でそんな言葉が何度も繰り返されましたが、どうしても考えがまとまりません。

 動いていいのか悪いのか、誰も答えをくれない状況で何十分も耐えた時、もう一度窓の外を見ようと顔をあげたのです。


「ひっ」


 男の人はまた数メートル移動していました。

 駐車場の一番端、事務所から一番近い場所に止まっている車の前から手を振っているのです。


 事務所との距離は十メートルほどだったと思います。

 視力の弱い私でも顔が見えるほど近くなっていて、男の人が三十代くらいの髪の短い作業着姿だというのがハッキリとわかったのです。


 作業着はうちの会社の支給品ではなく、工事現場で着ているような厚手の物でした。

 首には薄汚れたタオルが巻かれ、つい先ほどまで作業でもしていたんじゃないかという姿です。

 しかし、この辺りで工事をしている所が無いことに気がつくと、さらに怖くなってうつむいてしまいました。


 あれは誰なんだろう、と思いながら、鉛筆で問題を解いていきます。

 少しでも恐怖を紛らわせたいと、次々問題を解いては男の人を忘れようとしますが、問題につまずくたびに顔を上げそうになって涙が出てきました。


 このままお父さん達の所に逃げたかったのですが、もしあの人が自分に気がついていて、外に出た途端に捕まってしまったら、と考えると怖くなりました。

 新聞でも不審者の問題が取り上げられていたので、学校でも夏休み中に変な人について行かないようにと注意されたくらいです。

 けれど、ここら辺は顔見知りが多いので安心だろうと考えていましたが、今は他人事だった自分を怒ってやりたいくらいでした。


 とうとう問題を解く手が止まってしまい、かと言って外に出ることも出来ず、顔を上げる気持ちにもなれません。

 誰もいない事務所では針の動く音だけが響いていましたが、窓の外には手を振る男の人がいます。

 いつここに来るかもわからないのです。


 そこで私は、勇気を出して事務所の出入り口に走りました。

 この事務所は出入り口が一つだけしかなく、階段も外にしかなかったため、一階から二階に行くことも、二階から一階に来ることも、室内からは絶対にできない作りだったのです。


 事務所で唯一の出入り口であるドアの鍵は、内側からであればつまみ一つで開閉ができるため、子供だった私にも簡単にできました。

 つまみをひねって鍵を閉めると、急に安心して体から力が抜けたのです。


 これで大丈夫だ。

 そう思って窓の外を見た事を後悔しました。


「ひいぃっ」


 駐車場側に並ぶ窓の一つ。

 私が何度も見ていた窓のすぐ外に、あの男が立っていたのですから。


 男は相変わらず手を振り続けていて、窓ガラスに息がかかるほどの近さから事務所の中を覗いています。

 腰が抜けた私は、見つからないようにと机の陰に隠れようとしましたが、男と目が合ってしまいました。


 この時の恐怖は今でも忘れられません。

 目が合った男は何度か瞬きをすると、私に向かってニヤぁっと笑ったのです。

 見たこともないほど君の悪い笑みに、再び「ひぃっ」と悲鳴を上げると、男は振っていた手を下ろして、窓ガラス越しに歩いて私に近づいてきました。


 事務所の出入り口には防犯用に窓が一つだけあり、ここからドアの外に誰がいるのか確認していたのですが、今回はそれが最悪の状況を生み出しました。

 私は動かない足を引きずるように腕だけで動き出しましたが、恐怖でパニックになった子供に冷静な判断などできません。


 案の定パニックで動けなくなり、出入り口にある窓の真下で止まってしまった私は、恐怖から助けを呼ぶこともできませんでした。

 このままじゃまずい、どうにかしなければと思っていると、横から何かを思いきり叩く音が聞こえたのです。


 その音が何を意味するのかはすぐにわかりました。

 認めたくありませんし知りたくもありませんでしたが、子供の好奇心からか混乱していたからか、私は出入り口の隣にある窓を見上げてしまったのです。


 そこには、窓に張り付くあの男がいました。

 君の悪い笑みを浮かべ、窓に上半身をベッタリとくっつけたその男は、窓を叩きながら私に何か言っています。


 口が窓にくっついていたのでよく聞こえませんでしたが、聞こえなくて正解だったと思います。

 これ以上パニックになってはまずいと思った私は、男から目を逸らして耳を塞ぐと、男が去るまでうずくまっていることに決めたのです。


 耳を塞いでも男の声は聞こえましたし、窓を叩く音も聞こえてきます。

 もうやめてと叫んだりもしましたが、男はやめることなく何度も叩き続けるのです。


 ーーこれほど騒ぎになっているのに、どうして誰も来てくれないんだろう。

 ーーそんなに仕事が忙しいのかな。


 自分が怖い思いをしているのに、社員さんもお父さん達も来てくれない状況に怒りがこみ上げてきました。


 ーーこっちは大変な思いをしているのに、今は休憩の時間だから、みんなでおいしいお菓子でも食べているのだろう。

 ーーきっと高いお茶を飲んで、私の気持ちも知らずに笑っているに違いない。


 そう思ったら、だんだんと恐怖が苛立ちに変わっていきました。

 何度も何度も窓を叩いては何かを言ってくる男に、私はとうとう怒鳴ってしまったのです。


「もう、うるさい! そんなに騒ぎたいなら他でやってよ!」


 すると、ピタリと音が止んだのです。


 音が止んでからしばらく経って、ゆっくり目を開けると、男は消えていました。

 足が動くようになっていたので、怖がりながらも窓の外を見ましたが誰もいません。


 そこで気が抜けたらしい私は倒れ、気を失ってしまったのでした。


 目を覚ますと、私は事務所の隅にある応接用のソファーに寝ていました。

 体を起こして事務所の方に顔を向けると、仕事をしていた健二さんが気付いてくれました。


「ああ、良かった。目が覚めたんだね」


 私は健二さんの声を聞くなり泣き出し、彼に抱きついてしばらく泣きました。

 恐怖と混乱で泣きじゃくる私を受け止めた健二さんは、何も言わずに背中を撫でてくれたのです。


 泣き止んでから、私は健二さんに全てを話しました。


 手を振る男のこと。

 窓の外に現れて私に気づかれたこと。

 そして出入り口の窓を思いきり叩いていたことなど。


 話せるだけのことを話すと、健二さんは驚いていましたが、子供の話だからと疑うことはなく、真剣な顔で謝ってくれたのです。

 その理由はすぐに話してもらえました。


「実は最近、事務所で幽霊を見たという話を何度も聞いていたんだ。いつもは夜に残業していると、窓の外に知らない男が立っているというものだったから、昼間に来る美香ちゃんに話して怖がらせるほどではないと思ったんだけど、どうやら、その男は昼間も出てきたようだね。社長にも話していたんだが、いったいどうしたものか……」


 私が見た男は、ここ最近事務所で騒がれていた男の幽霊に間違いありませんでした。

 服装も顔も、見たという社員さんの証言にピタリと合い、改めてお父さんが調べてみたところ、とある配送先の近くで若い男性が事故死したという話が出たのです。


 男性は工事現場の作業員で、話を聞いたというトラック運転手の話からも外見が一致したため、間違いないという結論に達しました。


 神主さんを呼ぶか、それともお坊さんを呼ぶかで迷っていた両親でしたが、健二さんが事務所内に花とお茶、そしてお供え物を置いてしばらく供養すると良いと言うと、両親はさっそく幽霊に対する供養を始めたのです。

 毎日お茶とお花を取り替え、お供え物は毎日のおやつを供えていたそうなのですが、それが良かったのか、幽霊騒ぎは半年ほどでおさまりました。


 今になって思えば、なぜうちに出たのかとか、どうして私にあんなことをしたのかと不思議に思うのですが、健二さんは「気づいてくれた人に幽霊は頼ってしまうからね。美香ちゃんが優しい子だから、彼は頼りたくなってしまったんだろう」と言っていました。


 それから数年後、健二さんは静かに退職しました。

 働けるギリギリまで動いていたそうですが、ある日倒れてしまい、医者から仕事を辞めるように忠告されたそうなのです。


 両親は残念がっていましたが、事務仕事ができる後輩を育てていたそうなので、健二さんほどではなかったようですが、真面目な女性が会社の事務を一手に引き受けてくれたと聞いています。


 私は中学校に上がると会社に行くことはなくなり、部活に熱中するようになっていました。

 高校に上がると健二さんも退職してしまったので、それからは一度も会社に行ったことはありませんでした。


 結婚した今は、幼い子供を連れて実家に帰ったりしていますが、仕事熱心な両親と親戚は相変わらずの対応で、私のいとこにあたる男性を後継者に任命したらしく、引退までの短い時間を精一杯頑張っているそうです。


 会社はすでにあの頃の面影は無くなっていて、久しぶりに見た事務所は綺麗な建物に変わっていました。

 懐かしくも怖くもある事務所を見るたび、私はあの幽霊と健二さんを思い出していたのですが、子供が生まれてすぐに改装したらしく、外観も内装も面影は無くなっていたのです。


 あの幽霊を最初に見た駐車場も変わり、もっと立派で広いものになっています。

 事務所から駐車場が見える造りは変わりませんが、今はもう幽霊騒ぎを知っている人は両親と一部の社員だけになりました。


 もう、あの幽霊について話を聞くことはなくなりましたが、それでもたまに考えてしまいます。

 あの幽霊は、本当に助けを求めていたのだろうか、と。


 突然死んでしまった彼は、誰かに助けてもらいたくて来てしまったのだろうとは思いますが、今でもあの笑みは忘れられません。

 時々夢に見ては夫に心配されますが、夫に幽霊の話はしていません。

 思い出したくもないからです。


 けれど健二さんのことは何でも話しています。


 優しくて大好きだった健二さん。

 彼は去年、病気で亡くなったと母から聞きました。


 健二さんの奥さんは数年前に亡くなっていて、身寄りのなかった彼は一人で自宅に暮らしていましたが、最後は近所の夫婦が看取ってくれたのだとも聞いています。


 亡くなる直前まで優しい笑みを浮かべていたという健二さんは、今頃奥さんと再会していることでしょう。

 近いうちにお線香をあげに行ったら、私は健二さんに、夫と子供を紹介したいと思っています。


「あなたの新しい息子と孫ですよ」とーー。





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手を振る誰か 逢雲千生 @houn_itsuki

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