想像力を手早く増やすたった一つの優れた方法

やまもン

第1話

 想像力は日常から離れた娯楽にこそ価値を見出されるものである。


 これは私の個人的な意見であり、この話の主題でもある。

 だが、その説明に入る前に私は想像力について説明しなければならない。これは想像力論であるからして、日常や娯楽の説明は勘弁願いたい。


 そもそも想像力とは何か。字面から考えるに想像する力と思われるが、この名付けは些か乱暴かつ早急だと思う。なんでもかんでも力をつけるのはよろしくない。特に今回においては、想像するのに必要なのは力ではなく知識なのだから、尚更である。

 今一度、想像力を落ち着いて捉え直すと、想像力とはずばり、想像出来る範囲の広さを指すのではないだろうか?人間の想像には具体さと意外さの二点で限界があり、それは個々人の想像力に依拠していると考えられる。俗に想像力が強いと呼ばれる人は何かを想像した時に、他人よりも細かく具体的な想像が出来たり、又は当人しか考えつかないような意外なことを思いついたりする。これを想像できる範囲が広いと呼ぶことにする。

 例えば、ドラゴンを想像してねと言われた時に、鱗や表皮のシワに至るまでの具体的な想像ができたり、突拍子もない容姿のドラゴンを想像出来る者を指して想像力の強い者、想像できる範囲の広い者だと言っているである。


 さて、想像力が何か分かった所で、お待ちかねの話へと行こう。

 ズバリ、想像力の増やし方だ。タイトルに釣られてこのページを開いた人がほとんどだと思うが、それはこのカクヨムに書き手が多いからだと思う。また多くの作家が想像力を欲している証でもある。想像力がある作者は小説に意外さを出し、読者はそれに惹かれる。

 おっと、話がそれた。元に戻り想像力の増やし方だが、私の持論では二つの理論と一つの方法がある。


 まず、一つ目の理論。それは知識を増やすことだ。おっと、待ってくれ。確かにありふれた理論だが、それは重要度の裏返しでもある。

 そもそも想像するとはなんだ?実は人間の想像という行為には二種類ある。だ。ここではについて触れよう。

 例えば、積み木で三角と四角のブロックがあった時、私達はその形から四角いブロックの上に三角のブロックを積めば安定する事を推測できる。同様にして積み方を推測して積み重ねれば、一片のブロックは一つの塔に成り、塔が四つ集まれば城にだって成る。知識という名の積み木の組み合わせを推測し、推測して、推測する。繰り返した推測は積み木の城という、一つ一つのブロックとは大きく異なった新しいものを生み出す。これが想像するという行為であり、想像とは知識の組み合わせ方の推測、その積み重ねなのだ。

 そして、知識とは多様なものである。独立した四角いブロックの様なものから他のブロックとセットになる半円柱をくり抜かれたブロックの様なものまで、あらゆる種類を持つ。四角いブロックしか持たない時には作れなかった城門も半円柱をくり抜かれたブロックがあれば容易に作る事ができる。三角形のブロックがあれば尖塔だって作れる。

 つまり、知識を増やし、その種類を増やせば、より細かな、より具体的な、城門や尖塔を持つ城を想像できるのだ。まさに想像範囲を具体さの点で広げていると言える。知識は想像という行為の基盤をなす要素、要素が増えれば弄れる範囲、想像できる範囲が広がるのは道理であろう。


 次に、想像力増加の為の第二の理論。それは見聞を広める事だ。……待って欲しい。また当たり前の事かよとか思わないで欲しい。これは想像という行為の二種類目、に大きく関係するのだから。

 発想というのは、いわばアイデアを出す、という事だ。奇抜なアイデア、意外なアイデア、このアイデアの意外性を激しく競う現代において、発想は大きな役割を果たしている。

 ここカクヨムにおいても、発想の重大さは顕著に現れている。カクヨムのホーム画面から見えるランキングや注目の作品、新作投稿に最新更新、そこに載る作品の多くはタイトルやあらすじで強く意外性を主張している様に思える。読んだことのない能力、世界観、ストーリー、キャラ、とにかく自分の持つアイデアで読者を驚かせ、意外性で引きつけて読んでもらおうという強い意志を感じる。


 オホン。話を戻そう。まず、発想と推測は違うものだ。生物学や考古学の知識を増やした上で推測を重ねれば、ドラゴンの鱗や皮膚のシワは想像できるかもしれない。でも、そのやり方では、意外な、例えば全身がレインボーで点対称な体を持つドラゴンは想像できない。

 何故ならば、それは発想の産物だからだ。が積み木を重ねて洋風の城を作る一方で、という種類の想像行為は偶然和風の城の形を持つ木が生えてくる様に、全く別の過程を通る。

 だが、それでは想像力を増やしたい我々としては困ってしまう。安易に力とつけるのは憚られるが、仮にアイデアを発想する頻度や発想されたアイデアの意外さを発想力として、発想力が奇形の木が生えるのを待つ様に自然に委ねる形でしか発揮されないのであれば、今すぐ発想力に頼るのをやめ、知識の増大を切に励むべきである。


 が、実のところ、発想力を増やす方法というのは存在する。それが想像力増加の為の第二の理論、見聞を広める事である。

 発想力の向上を目指す上で、注目すべきはアイデアの意外性である。え?頻度はどうしたって?アイデアなど、思いつく時は思いつくし思いつかない時は思いつかないのだから、時々降ってくるアイデアが十発百中で意外性を持っている様に目指すのが生産的というものだ。消去法で発想力を上げる=アイデアの意外性を上げる事となるのは大丈夫だろう。

 ところで、今述べたアイデアの意外性を上げる事が想像力の増加、想像できる範囲の意外性での拡大と等しいのは分かるだろうか?

 人は自分の想像力の外に「こんな考えがあるのか!」と意外さを感じる。故に(他人にとって)意外なアイデアを生むためには、他人よりも想像できる範囲を広げる必要があるからだ。

 発想力を上げる=アイデアの意外性を上げる=想像範囲の意外性での拡大。ここまでを再確認してもらったところで、一つ、話すべきことがある。


 それは人の成長だ。目から鱗が取れる、一皮むける、1UP、古今東西人の成長を表す言葉が存在する。だが上記の例は全て、一瞬で成長した例である。本来人の成長とは時間をかけて行われるものだ。経験を積み、場数を重ね、緩やかに年の功を重ねていく。想像力もまた本来は、時の流れの中で知識を蓄え、徐々に徐々に増やしていくものだ。

 しかし、ここまで読み進めてきた諸君はそんな悠長に待てないだろう。それに時を無為に過ごしても、発想力は1ミリも増えないのだ。我々が求めるのは1UPであり脱皮であり剥き出しのまなこなのだ。じゃあどうすればいいのか?

 答えは刺激。外からの強い刺激、それは全身を覆う殻を打ち破り、我々に外界との接触を強要する。卵の殻から出た稚魚が大きく成長する様に、人においてもまた、殻を壊し、その身を外の世界、外の文化に触れさせることで、大きな成長が望めるというものだ。

 見聞を広めるというのはまさにそれだ。外の世界、外の文化に触れ、刺激を受け、自分の持つ世界を広げることだ。当然だが世界が広がれば想像できることも広がる。世界が広がれば思いつくことの幅も大きくなるだろうし、発想力の向上、ひいては想像力の(意外性での)拡大につながるというわけだ。


 だが、待てよ。誰も彼もが外の文化に易々と触れられるだろうか。例えそうであったとしても、世界中の文化に触れ終えたなら?その後は?


 安心して欲しい。私はこう述べた筈だ。


—— 元に戻り想像力の増やし方だが、二つの理論と一つの方法がある。


 そう、これまでの話は理論に過ぎない。理論上は殻を打ち破り、見聞を広めるべきだと言っているのである。理論上は知識を増やすべきだと言っているのである。しかし、理論は実践できれば心強いが、そうではない事がほとんどである。


 ここで満を座して私は言わなくてはならない。「想像力を短期間で増やす方法はある」、と。


 それはズバリ、本を読む事だ。

 誰もが知っている事だが、本とは知識の収集に役立つ便利な道具だ。本を読めば、専門家に話を聞かなくてもある程度の知識は知れるし、専門家とは違い、どのようなジャンルでも手軽にかつ総合的に学ぶことができる。

 さらに本は見聞を広めることにも役立つ。外の文化に触れる、例えば海外旅行をするのは中々に難しい。間違いなく本を読む方が手軽だ。手軽でありながら、読書というのは外の世界を、を、限りなく外の世界を、我々に教えてくれる。

 読書をしていてこう思ったことはないだろうか?「こんなの考えたこともなかった」、そう考えた時、貴方は成長したのである。自分の想像範囲の外、自分の想像力の先を知り、刺激を受け、自らの想像の限界を自ずと打ち破る。いわば、読書とはパワーレベリングに近い。地道に年月をかけて増やす想像力を、強大な想像力によって外側から強引に引き広げる、読書という行為はそういう面も含むのだ。


 さて、読書が想像力の増大に大いに役立つと分かったところで、初めの話に戻ろう。先に述べておくが、ここまででタイトルの「想像力を手早く増やすたった一つの優れた方法」は終わりである。ここからは話がすこし変わる。

 つまり、「想像力は日常から離れた娯楽にこそ価値を見出されるものである」、これについて話すことにしよう。

 初めに述べた通り、ここでは想像力について語りたいので日常や娯楽の説明はしたくないのだが、最低限の説明はやはり必要であると思われる。そこで、端的にここでの定義だけ述べよう。

 まず、日常。日常とは日々の繰り返しであり、暮らしのルーティンを指す。つまり、変化の無い、刺激のない、同じ暮らし、同じ行動、その繰り返しを指す。

 次に娯楽。娯楽は日常とは反対に刺激に満ち溢れている。人は慣れる生き物であり、娯楽は人に刺激を与え、快感を授けるものであるからして、娯楽は日々成長、変化しなけばならない。人に慣れさせない為、人に意外さと変化を感じさせる為、日々悦楽奇想の方角へ進歩を重ねるものである。

 このように日常と娯楽を定義した上で、主題へ移ろう。手始めに想像力のある人、想像力の強い人とはその具体性、意外性だけではなく、知識の組み合わせについてを繰り返し、沢山の積み木で見上げるような塔を築ける人も指すと言うべきだろう。彼らには試行錯誤の末に知識の塔を少しでも高くしようとする、例えば学者や技術者が相当するが、ここで重要なのは、想像という行為に試行錯誤が含まれている事だ。

 日常、それは変化の無い繰り返し。そこに試行錯誤は必要だろうか?日常とは定義の通り、同じ事の繰り返しだ。毎日の暮らし、食べて働いて寝る、その暮らしに試行錯誤は必要ない。試行錯誤が必要なのは、現状に問題がある、不満がある、例えば新生活の始まりなどの非日常に近い暮らしである。

 結論として日常に想像力は必要ない。


 対して娯楽、娯楽は試行錯誤の繰り返しである。人に慣れさせない為、常に意外性を求めて試行錯誤が繰り返される、そこにおいては集客率や客の反応、満足度に流行り廃り、それらの実践的な知識を組み合わせ、推測し、新しい娯楽の形を具体的に想像できること、即ち想像力の重要性は明らかと言える。

 余談だが、娯楽のうち特に映像や音楽の分野では具体性を求める。より美麗に、より精密に、より具体的な表現が目指され、想像されている。結果、具体性と意外性の両方で娯楽は大きな想像力を必要とするのだ。


 ところで、今まで娯楽は提供する側から話してきた。それはカクヨムに作家が多く、読者にも作家が多いことを考慮してである。人は近い境遇の方が理解できるのだ。

 しかし、日常は送るものしかいないが、娯楽は提供する側と享受する側がいる。

 実は娯楽を楽しむ側にも想像力は欠かせない。私の実体験を交えて明しよう。


 一年前、受験を終え暇を持て余した年上の友人に頼まれ、当時読み専だった私は彼にカクヨムを紹介した。特筆すべきはその友人、読書感想文にネット上のあらすじを丸々写し、人生で図書館や本屋に一度も行った事のない、想像力貧困野郎だったのだ。

 先日、私の受験の応援に(私は高校三年生)やってきたその友人と話している時、私はあることに驚いた。すっかり本の虫となり果てた友人の、「お前に勧められてカクヨム読み出してから、なんか世界が広がったというか、検索するのが楽になったんだよねー。初めはカクヨムの小説、ランキングでしか読みたい本を探せなかったけど、いくつも読んでいるうちに色んな事を想像できるようになってさ、好きな世界観やシチュエーションで検索できるようになったんだよね。あとは〇〇漫画の検索の時、あれもランキング以外に色んなシチュエーションで検索できるようになってめっちゃ嬉しいわ」という発言に、想像力の大事さを知らされたのだ。

 つまり、友人は『タグ検索』を使いこなせるようになったのである。読書を通して育んだ大きな想像力は彼に『クラス転移』や『巻き込まれ』などの作品を探しやすくさせたのだった。


 大半の人にとってもっと分かりやすい例がある。

 物語を読むとき、からっとした太陽や朝露に濡れた下草といった限られた描写の中からどこまで具体的に想像できるか、それはその物語を読んだ後の満足感に大きな影響を与える。全く想像できない人と頬を撫でる風やじめっとした土の感触まで想像できる人、この二人はもはや読んでいる物語すら違うといっても過言ではない。

 以上の例の通り、私の友人ほど顕著ではないとしても、娯楽を満足に楽しむ為には多かれ少なかれ想像力は欠かせないのだ。


 そう考えると娯楽とはなんと難しい事か。楽しんでもらうため、享受側の想像力を広げなくてはならない。しかし娯楽自体は常に彼らの想像力の外でその意外性を発揮し続けなくてはならない。もちろん娯楽を作る側はその更に外、(享受側にとっての)意外なアイデアが(自分にとっての)想像力の内にあるように、しなければならない。読書とは娯楽の一例であるから娯楽もまた、享受側の想像力を自ずと広げてしまう。したがって娯楽の作り手は享受側の広がる速度よりも速く想像力を広げ続けなくてはならない。いったいどうやっているのだろうか?

 作家を含む娯楽の作り手たちは提供意識の有無にかかわらず想像力と娯楽の相乗効果に突き動かされている。誰だって自分が、誰かが楽しめるものを作る。その為には前段落で説明した通り急速な想像力の拡大が欠かせないし、短時間で想像力を拡大するには読書という娯楽が欠かせない。娯楽による意外さという名の刺激は人の殻を突き破って成長を促し、想像力の拡大という形で現れた成長は更なる娯楽の発見と進歩を生む。人間を媒介として両者は加速させあい、一度動き出したら止まらない車輪となって人をハムスターの如く走らせ、車輪同士で社会を舞台に競争している。カクヨムは百均とかと並んでスポットライトが当てられている場所だ。


 私にこの競争を批判する意図はない。これを書いている時点で私も競争からは逃れられぬ身であるし、逃げる気もない。ただ、これだけは言いたい。がむしゃらに前へ前へ突き進む人へ、時には楽をしよう。狙って娯楽の性質を利用すれば、大きく前進できるはずだ。

 幸い我々の身の回りには手軽な娯楽があふれているのだから。

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