2-1出稼ぎへの決意

 疲れ切っていた俺は地下鉄を使ってアパートまで戻ってきた。

180円の節約なんてクソくらえだ。

部屋にたどり着くと同時に敷きっぱなしの布団に潜り込んで目を閉じる。

頭も体も痺れるような疲労感に覆われていて、とても何かを考えることなどできない。

脳裏に甦るのは、並行世界で味わった死の恐怖だけだ。

あんな目に遭ったというのに、明日の朝には蕎麦屋の調理場で仕込みをしなくてはならないんだぜ。

日常と非日常のギャップが大きすぎて、脳みそが状況整理の処理を拒んでいやがる。

もう、何も考えずに眠ってしまうのが一番幸せだろう。

意識を手放す前に思ったのはただ一つ。

最近、一文字も小説を書いていないな……、だった。


 目が覚めて時計を確認すると朝の五時で、外はまだ暗かった。

九時間近く寝ていたようだ。

ベランダにいるらしいハトが「ふるっふー」と挨拶してくる。

パンの耳でも分けてやりたいくらい気分爽快な朝だ。

「……金っ!」

 起きてすぐに財布を確認したのだが、そこには間違いなくエルナからもらった六万円の金が入っていた。

さらに、白骨死体から頂いた財布の中にも二万三千円の金があった。

「夢じゃなかったんだ……」

 目の前にある現金を見て、ぼんやりとした頭が急加速で動き出した。

「うっしゃぁっ!」

 小汚い部屋の中で、小汚いオッサンがガッツポーズを決めていた。

まさに危機的状況からの大逆転だ。

つまり俺は、10分足らず異世界へ行っただけで8万3千円もの金を稼いでしまったわけだ。

まさにドラマチック!


とりあえず、手近にあった茶封筒に6万円だけ別にして入れた。

これは美佐に渡す、倫子の養育費だ。

これさえあれば、言い訳もサラ金も考えなくて済む。

ありがたくて、諭吉君六人を拝んじゃったよ。

そして、養育費を差し引いても5万3千円もの金がまだ残っているという事実が俺を浮かれさせる。

小デブが3cmくらい宙に浮かべそうな勢いだ。

今晩は倫子を連れて夕飯を食べに行こうかな。

新しい服や靴を買ってやるのもいいかもしれない。

6歳なんてあっという間に成長するから、次から次へとサイズが変わってしまうのだ。

もし、美佐が許してくれるのなら3人で食事に行ってもいいだろう。

早めに連絡を入れておくべきだな。


 シャワーを浴びて、コーヒーを淹れ、着替えを済ませてもまだ6時だった。

早起きをすると時間がゆっくりと過ぎていく。

だったら久しぶりに小説のプロットを練ろうと考えた。

金銭的余裕ができると精神的ゆとりが生まれる。

数日ぶりにワープロを立ち上げて、俺は作品に向き合った。


 気が付くと時間は8時になろうとしていた。

珍しく集中できていたようだ。

慌てて美佐にメッセージをいれて、朝食の準備をした。

食パンにピザソースをかけて、チーズを乗っけて焼くだけだから大した手間ではない。

金も入ったことだから今朝はチーズをマシマシでいこう。

申し訳程度にタマネギとピーマンのスライスをチーズの上に乗せた。

たったこれだけの野菜でもデブには免罪符になる。

ないよりはマシだろう? 

良心の呵責が軽減する上に味もぐっと良くなる。

隠し味にマヨネーズでハートの線を描いてからトーストした。


 スペシャルピザトーストの用意をしている間に、美佐からの返信があった。

食事に付き合ってくれるそうだ。

養育費の用意ができていることを書き添えたのがよかったのかもしれない。

倫子は三人そろってが好きだから、きっと喜んでくれるだろう。

ことさらいい夫婦を演じるつもりはないけど、こちらが約束さえ守っていれば美佐だって穏やかな態度でいてくれる。

今夜は少し奮発してもいいかな。

なんせ臨時収入があったのだから。


 ニュースを見ながらピザトーストを食べて、バイトへ行く準備をした。

さて、今朝はどうしよう? 

徒歩で行くべきか地下鉄で行くべきか。

俺は地下鉄を利用することを即決した。

単に意思が弱いからじゃないぞ。

少しでも体力を節約して、本業の小説を書こうと思ったのだ。

立ち仕事は大変だから、バイトが終わると何もする気が起きなくなってしまう。

それじゃあ、いつまでたっても物語は完結しない。

それに、地下鉄は時間の節約にだってなる。

一時間あれば原稿用紙2~3枚くらいの執筆は進むものだ。


 時間に余裕のできた俺はコーヒーの追加を淹れた。

心にゆとりが持てる状態はいいね。

やっぱり人間の生活はこうでありたい。

もっとも、あと1時間もしない内にバイトに出かけなくてはならない。

俺の仕事は巨大ボールに山盛りの刻みネギを作ることから始まる。

行きたくないな……。


 ふと疑問が湧いた。

俺の目の前にはエルナが置いていったあの本が転がっている。

例の巨大な革表紙の魔法書だ。

もしかして、この本に手をおけば、もう一度あの世界に行けるのだろうか? 

もし行けたら、また簡単に金が手に入るのだろうか? 

死ななければ帰ってこられないのはわかっている。

だけど……。


 真っ当な人間なら、そんなことは考えずにバイトに行くだろう。

堅実であることは美徳だ。

だけど、そもそも俺が真っ当な人間なら、美佐は倫子を連れて出ていったりはしなかったはずだ。

生活費の大半を美佐の稼ぎに頼って、俺はひたすら売れない小説を書き続けた。

その報いが今の状況だ。

ひと月の間、体を酷使すれば18万円の金が確実に手に入る。

そこから養育費を払い、残りを生活費に回せばギリギリの生活はできるだろう。

だけど、それは所詮ギリギリの限界生活でしかない。

このままでは作品だって書きあげられない気がする。

普段の生活においてギャンブルはしないのだが、この苦境を打破すべく、異世界への出稼ぎに賭けてみるべきではないのか? 

蕎麦屋のバイトと異世界への出稼ぎだったら、どちらが楽で多くを稼げるだろうか? 

俺は真っ当な人間じゃない。

答えははなから決まっていた。

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