1-4
色と音が一気に甦った。
バッハの無伴奏チェロ曲が流れる店内に、いささか興奮した面持ちのエルナが座っていた。
「おかえり」
「な……」
あまりに不可思議な体験でうまく言葉がまとまらなかった。
「いかがであった、異世界への旅は? 我が故郷、王都ルクテンシュタインは美しい都だったであろう?」
ルクテンシュタイン?
きちんと確認したわけではないが、俺が行ったのはここと同じ喫茶店のはずだ。
「お主はどれくらいの時間を向こうで過ごしたのだ? ひょっとして3日、それとも30年くらいか?」
俺は転移した1秒後の新宿に戻ってきているはずだ。
向こうにいたのは10分足らずのことだったと思うけど、ここは俺の知っている現代に他ならないようだ。
よかった。
あっ、首の傷は⁉
大ネズミに噛まれたはずの頸動脈を探ってみたけど、血が流れている様子はない。
痛みもなければ、手触りもいつも通りだった。
本当に無事に帰ってこられたんだな。
「さあ、未だ夢を見ているような気持ちであろうが、向こうであったことを話してたもれ」
エルナはニコニコしながら俺を見つめていた。
気を落ち着かせようと深呼吸をしてからテーブルの上の水に手を伸ばす。
カルキ臭い水だったけど、その飲み慣れた不味さが安心感を与えてくれた。
「びっくりしたよ。まさか本当に転移するなんて思ってなかったから……」
「そうであろうな。この世界で魔法の存在を信じる人はむしろ少数。そなたも信じてはいなかったのであろう」
エルナは、ぐいっと胸を張って満足げに頷いていた。
胸はちっちゃいけど態度はでかい。
「それで、どのあたりに転移したのじゃ? 計算上ではラブロス広場の噴水前に設定しておいたが、座標に誤差はつきものじゃ。お主の体験を交えて修正したいから、さっそく教えてもらいたい」
さっきからルクテンシュタインとかラブロス広場とか聞いたこともないような地名ばかりが現れる。
これは早めに否定しておいた方がよさそうだ。
「そんなところには行ってないよ」
「なん……じゃと?」
「俺が行ってきたのは、こことはまるで違う感じの新宿だった。場所もこの店の中だったよ」
「新宿? この店の中?」
驚愕の表情でエルナは俺を見つめていた。
「うん。ただ、こう……ずっと荒廃した感じだったな。店の中も荒れ放題で、人が見当たらないんだよ。おまけに巨大なネズミに襲われて10分くらいで死んでしまったんだ」
そこで、俺は向こうの世界で拾った財布をそのまま握りしめていることに気が付いた。
握りしめていたせいで一緒にこちらの世界へやってきてしまったのだな。
なんとなく人目を避けなくてはならないような気がして、俺はさりげなく財布をポケットにねじ込んだ。
エルナに見咎められるかと思ったけど、彼女にそんな余裕はないようだ。
俺が荒廃した新宿に行ったことがよほどショックだったらしい。
青い顔になって頭を抱えている。
「そんなバカな。術式は完璧なはずじゃ……。絶対にイシュタルモーゼへと渡れるはずなのに並行世界を越えられないだと? この男の魔力が足りないということか? いや、数値は規定値をはるかに上回っていたはずだ……」
何やら考えを巡らせながらエルナはブツブツと独り言を呟いている。
俺はまだここで彼女の実験に付き合わなくてはならないのか?
「あの、そろそろ家へ帰りたいんだけど」
バイトの蕎麦屋では8時間ものあいだずっと立ち仕事だった。
その上、異世界では臨死体験までしたのだ。
肉体的にも精神的にも限界が来ている。
「何かが間違っているのだ。何かが……」
「あの……」
頭を抱え込むようにしていたエルナが突如顔を上げた。
「アドレスを交換してもらえるだろうか?」
突然の申し出につい頷いてしまった。
だって言葉づかいや、やっていることは変なんだけど、エルナは美少女なんだもん。
やっぱり連絡先を交換しようなんて言われたら、ちょっと嬉しいよな。
アドレスの交換が終わると、エルナは挨拶もしないで店から出ていこうとした。
「あの、アルバイト代は? 実験に付き合ったんだけど……」
それこそ命がけでだ。
というより並行世界で死亡してしまったわけだが……。
どんよりとした顔でエルナは財布から万札を6枚出して手渡してきた。
こんな小さな少女から現金を受け取っているなんて、自分が本当にダメ人間になった気がしたけど、よく考えてみれば疚しいところは何もない。
臨死体験の恐怖まで味わったんだから6万円のバイト代は高くないだろう。
金を払うとエルナはブツブツと独り言を言いながら立ち上がった。
もう俺のことなど見えていないようで、そのままフラフラと出て行ってしまう。
そして、店には俺と伝票と本が残された。
コーヒーとミルクティーの代金は俺が払わなくてはならないのか?
6万円も貰ったのだからそれはいいだろう。
だけどこの本はどうする?
ここに置いていくわけにはいかないよな。
重たい本を小脇に抱えて会計を済ませにレジへと向かう。
そこで俺は叫び声を上げそうになってしまった。
なぜなら、レジの中にいたのは免許証の写真にあったパーマの男、葉山洋二だったからだ。
あの白骨死体がこの人か……。
拾った財布を渡そうかとも考えたが、犯罪を疑われるくらいが関の山だろう。
俺は何も言わずに店を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます