1-3
世界が暗転する。
意識ははっきりしているのに突然視界が闇に閉ざされたような感覚だ。
だけど、すぐに視覚は戻った。
頭痛や眩暈などは一切ない。
俺は元いた喫茶店の椅子に座ったままだった。
だが、目の前のエルナは消えていた。
それだけではない。
まばらにいた客もいなければ、店内に流れていたクラッシック音楽も聞こえない。
室内は薄暗く、電気の灯りさえも消えている。
かび臭い店内は物音一つしなかった。
立ち上がって辺りを見回した。
店のドアが外れかけて斜めについているのが見える。
扉の横の窓ガラスも粉々に砕けているではないか。
まるで、この場所で戦争でもあったみたいだ。
「どういうこと?」
周りに問いかけてみるけど返事はどこからも聞こえなかった。
「嘘だろ……」
まったく信じてはいなかったのだが、俺は本当に異世界へ転移してしまったのだろうか?
いやいや、落ち着け。
ひょっとしたらこれは夢かもしれない。
もしくはおかしな催眠術をかけられて、不思議な世界を見せられている可能性もある。
すでに実験は始まっていて、エルナが飲み物に変な薬を入れたのかもしれない。
「あの、これはどういうことなの?」
俺はエルナに呼びかけていた。
ひょっとしたら俺のことをどこかで見ているような気がしたのだ。
「エルナ・リッツ!」
咎めるように大声で叫んだけど反応はなかった。
「おい、いい加減にしてくれ! できたら催眠術を解いてほしいな。実験はもう充分だろう!?」
やっぱり返事はない。
「無視かよ……」
腹が立ったが、考えてみれば金に釣られたのは俺の方だ。
想像の埒外なことが起こったとはいえ、バカなことをしたと猛省した。
てっきり原稿の依頼だと勘違いしたのが運の尽きだったな。
問題はどうやってこの状況から脱するかだけど、それは最初に伝えられている……。
本当に死ぬしかないのか?
そう、俺が死ねば元の世界へ帰ることができるとエルナは言っていた。
だけど、それは安全にだろうか?
死体となって元の世界に戻ったとしても、意味なんてないぞ。
大事なことの確認を怠った自分をぶん殴ってやりたい気分だったけど、今さらどうにもならない。
だいたい死ぬってどうしたらいいんだよ?
飛び降り自殺?
そんなことを簡単にできるはずもない。
とりあえず状況把握に努めることにして、まずは自分が今いる店の中を調べることにした。
店の中は酷く荒れていた。
テーブルや椅子のいくつかはひっくり返っていたし、カウンターの中の棚も物色された形跡があって、床には割れたカップやグラスの破片が散乱している。
「誰かいませんか?」
声をかけながらカウンターの奥へと進むと、そこに人が倒れていた。
いや、既に人という単語は当てはまらないかもしれない。
なぜならそれは白骨化した死体だったからだ。
声を上げられないほどびっくりしたけど、思ったほどの嫌悪感はなかった。
ホラー映画とかスプラッター映画は大の苦手なのだけど、リアルなそれは案外平気なようだ。
「どうなっているんだよ……」
注意深く白骨を観察していると、近くにスマートフォンとナイロン製の財布が落ちていることに気がついた。
どちらも埃をかぶって薄汚れていて、長く人に触れられた形跡はない。
この人の持ち物だろうか?
壊れてはいないように見えるが、スマートフォンの方は電源ボタンを押しても全く動かなかった。
充電が切れているのだろう。
次に財布を確認すると、中には現金と免許証があった。
現金は札だけで2万3千円。
免許証には葉山洋二という名前がある。
昭和55年生まれとあるから、俺よりは年上のようだ。
写真にはパーマのあたった長髪でメガネをかけた軽薄そうな男が写っていた。
ガタン。
突然、後ろで物音がして心臓が飛び出るくらいに驚いた。
持っていた免許証を取り落としてしまったがそれどころではない。
だって、そこにいたのは大型犬をさらに一回り大きくしたようなネズミだったから。
それも三匹。
「ちょっ……」
武器になるものを探したけれど、床に落ちているガラス片以外は何も見つからなかった。
そんなものを持ったところで、俺にはどうしようもなかったと思う。
「待って!」
冷静に考えればネズミに言語が通じるかどうかもわからないのだが、俺は冷静とは対極の位置にいた。
たとえ言葉が通じたところで、ネズミが俺の言うことに従う義務もない。
奴らは一斉に飛びかかってきて俺の首筋に食らいついた。
きっと人間の急所を本能で知っていたのだろう。
神様の粋な計らいに感謝しなければならないな。
だって、おかげで俺はほとんど痛みを感じずに即死だったのだから。
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