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 クラシック音楽が流れる静かな喫茶店に入ると、エルナはミルクティーを注文した。

金がないので何も頼みたくなかったのだが、いい大人が水だけですますわけにもいかない。

ここの支払いはどうなるのだろう? 

本当に話を聞くだけで1万円貰えるのなら、必要経費として注文するのは仕方がないか……。

げっ、一番安いコーヒーでも480円するんだ!? 

せっかく地下鉄代をケチっても、これじゃあ収支は大赤字だよ。

何としてでも1万円は貰わないといけないな。


 それぞれの注文がすむとエルナはさっそく話を切り出してきた。


「まずは、名前を教えてもらおうか」

「反町寛二(そりまちかんじ)です」

「仕事は何を?」


 唐突に質問されて、俺は答えに窮した。

俺の本業は小説家だ。

といってもここ数年、作品は商業利用されていない。

かつては累計30万部を売った人気作家だったけど、貯金も先日尽き果てた。

だから三日前から立ち食いソバの店でバイトを始めたのだ。

職業を聞かれて困ったのにはそういう事情があった。

蕎麦屋と答えるべきか小説家というべきか、それが問題だった。


「答えにくいなら構わぬが」


 だったら聞かないでほしい。

心が痛むから。


「小説を書いて生計を立てています」


 無職と思われるのも嫌だったので、大見得を切ってそう答えておいた。


「であるか……」


 たいして興味もなさそうにエルナは頷いている。

俺としては余計な話などしないで、さっさと本題に入ってほしかった。

明日の夕方は倫子(りんこ)との面会だけど、その前に元妻の美佐へ今月分の養育費を手渡す約束になっている。

月々の養育費は6万円なのだが、財布には3万円しか入っていないという危機的状況だ。

このままでは最愛の娘に会わせてもらえない恐れもある。

この場で金が稼げるのならなんとしてでも頑張りたい。

何と言っても、養育費は倫子のために使われる金だ。

来年は私立小学校へのお受験も控えているそうなので、できることなら全額をきちんと手渡したいのだ。

専業作家であることにこだわり、就職もしなかったダメ父ちゃんだけど、娘のために誠意は見せたかった。

そのためにもエルナ・リッツの話す仕事の内容は重要だ。


「実験とか言ってたけど、何を手伝えばいいのかな?」


 おかしな薬を飲まされる人体実験じゃないことを祈る。

でも、やせ薬の被検体になるのなら……。

空想が頭の中で分裂し、目の前の少女がマッドサイエンティストに見えてきた。


「むずかしい内容ではない。まずはこちらの本を見てもらおう」


 エルナは分厚い革表紙の本を手渡してきた。

図書館でしか見ないような、古い英語の辞書みたいに大きな本だ。


「うわっ!」


 本に触れた瞬間に手に電流が走ったような気がして、思わず叫び声をあげてしまった。

客はまばらだったけど、いくつもの視線を浴びてしまう。

俺は思わず首をすくめたが、エルナは周りの客のことなど一切気にならないようで、不敵な笑みを浮かべたままだった。


「やはり適性があるようじゃ。私の見込み通りじゃな」


 適性とは何ぞや? 

リアクション芸?


「そういえば、さっき数値がどうとか言ってたけど」

「魔力数値のことじゃ。この世界の人間は概して魔力が低いが、お主は別格みたいじゃな。ご先祖に異世界人がいたのかもしれん」


 ああ……。

はいはい、なんとなく見えてきましたよ。

この子はやっぱりコスプレイヤーなんだな。

きっと、そういう設定のキャラクターを演じているのだろう。

俺の知らない作品みたいだけど、そう考えれば彼女の言動にも納得がいく。

俺だってその手の小説を書いたことがあるから、設定自体は受け入れやすい。

ひょっとして俺のファンか? 

最近でこそ少なくなったけど、昔は町で声をかけられることもあったのだ。

顔出しなんてするべきじゃなかったな。


「もしかして、俺のことを知っているの?」

「詳しく知っておるわけではないが、ぜひ仕事を依頼したいと思っておる」


 やっぱりそうか。

偶然だったけどこの人は俺にライターの仕事を頼みたいんだな。

きっと俺の顔と作品をどこかで見て、覚えていてくれたんだろう。

だから声をかけてきたに違いない。

そうじゃなきゃ、こんな美少女が小デブのオッサンを呼び止めるわけがないもんな。


 渡された本をペラペラとめくってみた。

さっきは手が痺れてしまったけど、どこかに電池でも仕込んであるのか? 

革は絶縁体じゃないから電気を通す。

手の込んだ小道具だと思ったけど、中身を見ると感心を通り越して呆れる思いがした。

数百はありそうなページのすべてに、手書きの文字が書いてあったのだ。

手書き風のフォントかとも思ったのだが、字の大きさが微妙に違う。

しかも日本語やアルファベットですらない。

見たこともない文字だった。


「これ、何が書いてあるの?」

「魔法術式じゃ」


 予想通りの答えが返ってきましたな……。


「なるほど、これが魔法術式か。随分と長い術式なんだね」


 やっぱりこれは仕事の依頼なのだろう。

ゲームやオリジナル同人のシナリオかな? 

だったら6万円という額もうなずける。

原稿用紙50枚以内の短編なら請け負わないこともない。

ここは話を合わせて機嫌を取っておくことにしよう。


「一般に時空魔法の術式は長くなるものじゃが、この術式は極限まで無駄を省き、画期的なまでに短縮化がなされたと自負しておる」

「それは……素晴らしいね……」


 当たり障りのない言葉をぼそぼそと言いながらコーヒーに口をつける。

目の前の美少女はキャラに没入している感じだ。

大丈夫かな、この子?


「しおりを挟んであるページを開けてみるのじゃ」


 見ると、本の間に赤いリボンの先端が小さく顔をのぞかせていた。

促されるままに開くと、そこのページは他とは趣が違うことが一目瞭然だった。

両開きの左右に大きな手の型が描いてあるだけで、文字はまったく書かれていない。

眩しいくらいに白かった。


「私の依頼は簡単じゃ。今から、この場所で、そのページの絵に、お主の手のひらを乗せてもらいたいのじゃ」


 エルナは言葉を区切って、明瞭に依頼内容を伝えてきた。

んっ? 

シナリオの依頼じゃないのか? 

ああ、そういう設定ということを説明しているんだな。

だったら俺も詳細を確認しておかないとまずいだろう。


「手を乗せると、どういうことが起こるの?」

「お主の魔力を使用して魔法術式が発動し、時空転移が起こる」

「時空転移……。つまり、俺が異世界へ飛ばされるということだよね?」

「その通り! 話が早くて助かるぞ。ただし、お主がこちらに戻ってくるのが少々厄介だ」

「どうすれば戻ってこられるの?」

「死ななければならん」


 死ぬ? 

あまり聞かない設定だな。

異世界転移物には行ったり来たりできる作品も多いけど、この設定はマイナーな部類だろう。


「それはつまり……」

「お主が向こうの世界で死亡すれば、転移した1秒後のこちらに戻ってくるのじゃよ」

「なるほど。時空系の魔法だから、巻き戻しのような設定なんだね」

「おお! お主、素人ではないな!」


 何が嬉しいのか、エルナは満面の笑顔になっている。

まあ、異世界転生系で何冊か出版してますから。

そっちだってわかっていて声をかけているんだろう? 


「私はこの研究にこの1年の歳月をかけてきたのじゃ。なんとか協力をしてもらえないだろうか?」


 基本的な設定は理解した。

あとはどういうキャラクターを登場させるかで作品の雰囲気が変わってくる。

ボリュームによって原稿料は変わるけど、とりあえず受けても問題ない仕事内容と見た。

俺は了承の証に自分の手のひらを本の上にのせてみる。


えっ?


 世界がグニャっとねじ曲がった感覚がした。

店内を流れていたバッハの無伴奏チェロ曲が無秩序な悲鳴に代わっている。

目の前のエルナの姿が歪んだ。

そして、暗闇が訪れた。

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