第36話『ただいま』

 王都地下の下水道から抜け出し、

 家族の待つ家へと向かう。



「そういえば、今日の夕飯は野菜スープと言っていたな」



 妻の作る料理は基本的にはすべて旨い。


 さすがは元大賢者と呼ばれていただけのことはあり、

 限られた食材でも美味しい料理を作る。




 そのなかでも、特に俺が好きなのは妻の作る野菜スープだ。


 あたたかい野菜のたくさん入ったスープを口に含むと、

 それだけで、なんだかほっとするのだ。



 女手一つで育ててくれた母の作ったスープの匂いに似ているから、

 自然と懐かしくなるのかもしれない。オフクロの味という奴だ。


 もっとも、オフクロの味と言っても、

 母は俺を育てるため夜職をしていたから実際に俺が、

 母と一緒のテーブルで食事をしたことはほとんどなかったのだが。


 こんなことを考えるのはダンジョン内での、

 さまざまな出来事が心に負荷をかけているせいかもしれない。


 この世界に転生してからも、ふとした瞬間に前世のことを思い出す。

 そういう時は決まって何かの壁にぶつかったり、

 感傷的な雰囲気になっているときだ。



 前世の出来事で思い出すのは劇的な出来事ではなく、

 日常のなかのちょっとした匂いや、触感、音の記憶だったりする。



「まぁ。俺の前世の出来事で劇的なことなんてほとんどなかったな。強いてエピソードを挙げとすれば、最後のゴミ山で死んだ時くらいのものくらいのものか」



 ダンジョンのなかで俺は醜悪な存在を見た。

 この世界の知らなかった一面を見た。



 いまになって感じることだが、

 転生してからソピアと出会うまではなんとなく、

 この世界が死後の楽園のようなものだと思っていたように思う。



 もちろん仕事を手抜きしていたとか、

 何苦労をしなかったという訳ではない。


 転生した当初はどうやって食べていったら良いのか分からず、

 死にかけもしたし、適応するための努力もした。

 それなりに必死だった。



 だけど、当事者意識……現実感が薄かったように思う。



 一生懸命頑張っているはずなのに、

 どこかふわふわと地に足のつかない感じ。

 当事者ではなく、傍観者のような感覚。


 前世の例で言うならば海外のリゾートに遊びにきた観光客、

 そんなどこか浮ついた気分、

 それが無自覚にあったことを否定できない。



 俺が本当にこの世界の一人の生を持った人間、

 つまりこの世界の当事者であるというふうに実感するようになったのは、

 一人の女性と出会い、そして恋に落ちてからである。



 俺は転生したこの世界で、

 ソピアという女性と知り合い恋に落ちた。


 彼女との出会いも、

 恋をする相手も少し特殊だったかもしれないが、

 そんなことは些細な問題だ。



 恋をする心はごく普通の男女の間のソレでしかなかった。



 人が人を好きになる感覚、心が燃え上がるような感覚、

 目の前の世界が、景色が輝いて見えるような感覚、

 好きな人と一緒に居られない時間が苦しいという感覚、


 前世でもいつからか感じる事ができなくなった、

 自分が"生きている"という実感だった。



 俺は死に、この世界に転生し、一人の女性に恋に落ち、

 そして生きる意味をやっと知ったのかもしれない。



「ははっ……。"馬鹿は死ななきゃ治らない"って言うコトワザはあるけどさ。まさか、それが事実だったと理解する日が来るとは思わなかったぜ」



 ソピアとの交換日記を始めこの世界の形を知るうちに、

 俺がソピアという個人を好きになればなるほど、

 転生したこの世界が現実のものであり俺は傍観者ではなく、

 当事者なのだと感じるようになった気がする。



 一人の女性に燃え上がるような恋をし、

 この世界が、この王都が愛おしく感じるようになった。



 どこか色あせていた世界の色が鮮やかに感じるようになった。

 きっと、前世もこの世界も世界が色あせていたのではなく、

 俺の心が色あせていたのだ。


 そのことを知る機会をくれた存在、

 この世界に転生させ、『生きる』という、

 本当の意味……それを実感させてくれた神さまには感謝しか無い。



 この世界、家族が暮らす平和な王都、

 当たり前のように存在する"魔法"、

 それらも全てはこの世界に生きる、

 過去の人々が築いた努力の積み重ねなのだと理解した。



 王都で俺が知り合った人たちは善良な人間ばかりだった。

 だが、この世界が善意だけで成り立っている訳ではない。

 それは、この世界の名もなき先人たちが勝ち取ったもの。



 実際にこの世界にも悪意の塊のような存在を目にした。

 三賢者を自称する者たちだ。



 だが、程度の違いこそあれ、

 邪悪な存在は三賢者だけではないだろう。



 この世界に生きる一人の現地人として、

 俺はそういった存在を看過できない。


 妻が体験させられたような理不尽な悲劇は、

 絶対に起こしてはならない。



 この世界に転生させてもらった、

 せめてもの恩返しとして、

 自分なりにできることをしたいと思った。



 この世界には歴史があり、

 その大きな流れを経て現在がある。



 そして俺も、傍観者ではなくその流れの中に居る当事者だ。

 この王都に生きる、この王都に根を張った一人の人間だ。



「俺は第二の人生を異世界から来たよそ者の"転生者"としてではなく、この世界に暮らす一人の現地人として、自分のできる限りのことはしたい。俺の出来ることは限られているが、出来る範囲のことはなんだってやりたい。遠回りかもしれないけど、そういった積み重ねが妻子の幸せにも繋がるはずだ」



 この世界にも前世の世界と同じように明確な悪は存在する。

 王都下水道のモンスターのように、

 人々の命を脅かす身近な危険も存在する。



「俺に、出来ることか……。王都の地下下水道の掃除。病気で苦しんでいる人の治療。人々の命を守る重要な仕事だ。明日からはもっと張り切って頑張ろう。手の届く範囲だけでも、出来る限りのことはしよう。そうでなければ、前世では何も成し遂げられなかった俺に、もう一度チャンスをくれた神さまに対して申し訳がたたない」



 俺は自分のできる範囲でせめてこの王都に暮らす人々を、

 少しでも安全に快適に暮らせるようにしたい。



 俺の器を超えた大きな大志を持つのではなく、

 目の前の仕事をコツコツと着実にこなす。

 きっとそれで良い。それが、良い。



 俺は顔をあげて、空を見上げる。

 気がついたらもう夕方、

 黄昏時たそがれどきである。



「いつも俺は家に帰る時に感じる。黄昏時のこの王都の景色は綺麗だ。俺の仕事は、この王都の人たちが笑顔で健康に暮らせるようにすること」



 ちょっと感傷的な気持ちになっているせいか、

 家路に着く間にいろいろなことを考えてしまった。



 俺は気を引き締めるため、

 自分の両頬をピシャリと叩く。



「おしっ。もう大丈夫だ」



 気づけば目の前には、俺の家の扉があった。

 家の扉の前で少しだけ、笑顔の練習をする。

 そして、俺はドアのノブを握り、ゆっくりと扉を開ける。



「ただいま」



 玄関を開けると野菜スープの美味しそうなにおいが漂っていた。

 俺はこれ以上にないほど、家に帰ったと実感するのであった。

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