お母さまの名前


 ふわふわと暗闇に体が浮いていると思った。

 すごく眠い。わたし、何やってたんだっけ?


「……クーナ」


 懐かしい声が聞こえてくる。


「起きて、クーナ」


 声に導かれて目を覚ますと、わたしはまた、懐かしい夢の中にいた。幼い頃の夢だ。

 どうやらお母様の膝の上でうとうとしていたらしい。

 中庭の木々がさわさわと揺れている。今日はわたしとお母様、二人しかいないみたいだ。


「おかあさま」


 目をくしくしと擦って、ぼんやりと滲むお母様の顔を見る。

 少し苦笑気味な、優しいお母様の顔。懐かしい。優しい蜂蜜色の瞳。大きくてふわふわな耳。

 けれどひどく、既視感を感じる。わたしは最近、どこかでこの顔を見たことがあるような……。

 眠たくて、どこで見たのか、よく思い出せない。


「ふふ、クーナはよく寝るわね」


「んむぅ……」


 あったかい。ふわふわの耳ごと頭を撫でられて、とっても幸せ。


「……今なら誰も聞いていないわ。あの人も、使用人たちもいない」


「……」


 半分眠ったようなわたしに、お母様は呟いた。


「クーナ、あのね。お母様はね、本当は名前がもう一つあるの。見張られていて、どうしても言えなかったの」


 名前が、もう一つ……?


「いつか、もっと遠い未来かもしれないけれど……この名を聞けば誰かが助けてくれるかもしれない。今すぐじゃなくていい。だからどうか、この名前を遠い未来で、思い出して」


「……」


 お母様の名前は、エレナじゃなかったの?

 教えて、お母様。本当の名前は、なんていうの……?


「お母様の本当の名前は──」



 暗転。


「……?」


 わたしはなぜか、水の中にいた。悲鳴をあげようとしても、ぶくぶくと泡が上っていくだけ。

 それから激しい流れに巻き込まれて、深い水の底へ落ちていく感覚。

 ひどく覚えがある。この感覚は……そうだ、初めてルルとあったとき、願いを叶えてもらったときの感覚だ。ここではないどこかへ行きたい。そう願ったんだっけ。

 そうしたらわたし、なんだかどこかへ落ちちゃって……。


 苦しい。体が重い……。

 そう思っていると、誰かがまたわたしを呼んだ。


「大丈夫か!? しっかりしろ!」


 まぶたの裏が明るくなる。この人の声、聞いたことがある……。


「カーバンクルに導かれて来てみれば、まさか、こんな……」


 薄らと目を開ける。


「しっかりしてくれ」


 そう言って心配そうに覗き込む、男の人の顔。


「まだ生きてる……シモンのところへ連れて行こう」


 ──ああ、そうか。

 わたし、あの時、誰に助けられたのか全然覚えてなかった。

 この街へやって来たとき、わたしは街外れの川辺で見つかったらしい。本当にひどい状態で。

 美しい青緑の瞳が、わたしを覗く。


 あの時、わたしを助けてくれたのは、ギアだったんだ……。

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