第百階層手前:一人じゃないから
しばらく歩き続けると、草原を抜けた。さらに下へと続く空洞を発見する。
「ここを下ると、何もない地下空洞に出ます。さらにそこを下れば、目的地です」
シモンにそう説明され、わたしはドキドキしてしまった。
「地下へ移動する前に、休憩していきましょう」
空はすっかり夕暮れ色になっていた。
でもここの空は偽物らしいから、外とはきっと、時間の流れが違うのだと思う。
九十八階層からここまで、かなりの時間歩いたような気がする。緊張して気づかなかったけど、結構疲弊しているみたいだ。でもそのおかげか、ダンジョンにも少し慣れた。
「クーナちゃん、疲れたでしょ?」
ルージュさんが近くにやってきて、そう言った。
わたしはその辺りに腰を下ろして、うなずく。
「少しだけ……」
「すごいよ、迷宮に来るのは初めてなのに、こんなに動き回れるのは」
「そうですか?」
「うん。迷宮は潜れば潜るほど、体に負荷がかかって、地上と同じパフォーマンスは発揮できないの。歴戦の冒険者は慣れてるから大丈夫だけど、クーナちゃんみたいに初めて来た子がここまで動き回れているの、すごいと思うよ」
そう言って、頭をわしゃわしゃと撫でてくれる。
「すごいなぁ。これが白狼族の力ってやつ?」
そう、なのかな……。元々体力はある方だけど、確かにこれって、種族の特性なのかもしれない。
足が早かったり、体力があったり、力が強かったり。
前までは自分が白狼族であることが嫌だったけど、今は少しだけ、白狼族でよかったと思えた。
だってそうじゃなかったら、ここまで来られなかったかもしれない。
みんなの役に立てるなら、それ以上に嬉しいことはないもんね。
パタパタとしっぽを振っていると、リュックからルル達が飛び出してきた。
それぞれ口に何かをくわえている。
「る~!」
「……そっか、お腹減ったよね」
みんな、食べ物を持ってきてくれたみたい。
リュックには、ルーリーとダンがいっぱい食事を作って入れてくれていた。ここで食べなきゃ食べる時がなくなっちゃうから、もうみんなで食べてしまおう。
わたしはメンバーに声をかけると、リュックの中からたくさんの料理を取り出した。
みんな歓声をあげる。せっかくなので火を燃やそうと、ガントさんたちは木の枝を拾いに行った。
なんだろう。ダンジョンの中なのに楽しくて、ちょっぴり変な感じ。
ごはんを食べ終わった後。少し仮眠しようということになり、わたしは地面に横になっていた。
もふもふたちがひっついてくるから、寒くはない。けれど流石に眠れなくて、わたしはずっと目をパチパチさせていた。ルージュさんなんかすごくて、仮眠していいよって言われた瞬間、すぐに眠りに落ちてしまった。
こんな状況なのにすごいな……と思っていたけれど、これが冒険者の資質というものなのかもしれない。どんなところでも適応できるというか……。
そんなことを考えていたら、わたしが眠っていないことに気づいたのか、ギアさんがやってきた。
ちなみにシモンとキリクさんもグーグー眠っている。
「眠れないか?」
「……眠くないです」
そう言うと、彼は少しだけ笑った。
「流石にこんな状況じゃ、眠りにくいか。でも横になっているだけでも体は楽になるから、しばらくそうしているといい。君の体力が持つか、心配だ」
……ギアさんって、結構心配性なんだなとふと思った。この話が出た時から、ずっとわたしを気にかけてくれて、今もこうしてそばにいてくれる。以前よりもグッと距離が縮まった気がして、少し嬉しくなった。
ギアさんが隣に腰を下ろす。
近くで焚き火を焚いていたから、彼の黒い瞳がキラキラと光って見えた。
「ギアさんは、心配性です……?」
思わずそう呟く。すると、パッと彼がこっちを向いた。目を丸くして驚いている。
「え、あの……?」
今のは失言だったのだろうか?
思わずこちらも目を丸くしていると、彼はポツリと言った。
「……名前」
「え?」
「初めて呼ばれた」
まだグランタニアに来てそんなに経ってないからかな。
確かに名前、呼んだ覚えがないかも……。
「さん、なんか付けなくていい。驚いた」
「でも……」
「誰も俺をそんなふうに呼ばない。俺は孤児上がりで、爵位だって元々持っていたわけじゃない」
そう言って、彼は口元に笑みを浮かべた。ギアさんの事情を聞いて、わたしは少し驚く。知らなかった。ギアさんにそんな事情があったなんて。だけどそれよりも気になったのは、ギアさんの浮かべたその笑みに、どこか自嘲的なものが混じっていたことだ。
「ギアさんは……」
「ギアでいい。そう呼んでほしい」
「え、ええっと……ギア?」
「ああ」
ギアはすごく嬉しそうに笑った。その笑顔がとっても綺麗で、どきりとしてしまう。
「……ギアは、すごい人です。いつも街を守ってくれているし、今もこうして、わたしを気にかけてくれています」
ちょっと恥ずかしかったけれど、素直に自分の気持ちを伝える。
「出自も身分も、種族だって、きっとその人の本質には関係ないと思います。ギアが尊敬できる人だということに、変わりはないです」
自分に言い聞かせるように、わたしはそう呟いた。この街に来てから学んだことだ。種族の違いに優劣はないし、身分があってもアルバートさんのように尊敬できない人だっている。
「きっと本当に大切なのは、その人の生き方なんだって、今ではそう思うようになりました」
照れたように笑ってそう言うと、ギアは少し驚いたような顔をした。
「……君は変わったな」
「そうでしょうか」
「ああ。随分」
ギアは柔らかく微笑んだ。
「君の言う通りだと思うよ。種族や身分なんて、俺や君の本質には関係ない」
ギアさんは目を伏せて、少し悲しそうに呟いた。
「分かってはいるんだ。だが……俺もまだ、種族の呪いから完全には抜け出せていないんだな」
小さな、本当に小さな声だった。それはきっと、独り言のようなものだったのだと思う。でもわたしの大きな耳は、ギアさんの呟きをしっかりと聞いてしまった。
種族の呪いって、どういうことなのかな。彼の言い方だとまるで、彼もわたしのように、何か種族に関するトラウマを抱えているみたいだ。ギアはしばらくして、でも、と呟いた。
「君の言葉で、少し救われたよ。ありがとう、クーナ」
「……ギアは立派です。わたしの憧れです」
そう言うと、ギアは嬉しそうに微笑んだ。
彼の事情は深く聞かないことにした。誰にだって、話したくないことはあるだろう。その代わり、ダンジョンに来ることになってから、ずっと気になっていたことを聞いてみる。
「ギアは、どうしてここまでわたしを心配してくれるんですか?」
「……」
彼は少し黙った後、言った。
「君を見ていると、なんだか……」
「? なんだか、なんですか?」
ギアは何を言いかけたんだろう? キョトンとしていると、彼はいや、と首を横に振った。
「一般市民を守るのが俺の役目だ。それにまだ子どもの君を、こんなところに来させるわけには行かなかった。なのにキリクときたら……」
グースカ寝ているキリクさんを見て、ギアはため息を吐いた。
「クーナ、怖くなったらすぐに言ってくれ。絶対に助けるから」
そう言って、心配そうにわたしを見る。わたしは少し考えてから言った。
「みんなが一緒だから、大丈夫です」
「……」
「もう一人じゃないから……」
そう言うと、ギアはわたしをじっと見つめた。その黒い瞳に、炎に照らされたわたしの顔が映る。わたしの顔に迷いはない。孤独と恐怖に震えていた昔の自分ではないのだと、改めて認識する。
ギアの顔を見つめているうちに、不意にわたしは理解した。
あの、雨の日の喫茶店で初めてギアにあった時。彼は独特の、寂しさのようなものを纏っていると思った。その正体が、やっとわかった。彼もきっと、苦労して育ったのだろう。そしてまた、わたしのように、今は仲間がいる。
だからどこかで、わたしはこの人と似ていると感じていたのかもしれない。
「……そうか」
ギアは納得してくれたようだった。なんだか眠くなってきて、わたしは瞬きをした。
「眠るといい。今はゆっくり休もう」
そう言われて、わたしはコクリと頷いた。
けれどふと、ギアが俯いた時。
黒くてさらさらとした髪が下へ落ちる。その髪の間に、わたしは何かきらりと光るものを見つけた。艶やかな、宝石のような黒い何か。
あれは一体、なんだろう……?
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