聖女メルティアの赦し


 ある日、王立アルーダ学園の中庭のベンチで、アニエス・レイリアはため息をついていた。


「なんで私が、亜人なんかがたくさんいる国へ旅行に行かなくちゃいけないのかしら……しかも、お義姉様が生きているですって?」


 アニエスはイライラしたように、足元の石ころを蹴った。

 石はコロコロと人気のない中庭を転がっていく。中庭を見渡しても、人っ子一人いない。


 一月ほど前からだろうか。いや、気づかぬうちに、それは進行していたのかもしれない。

 花々は枯れ、街には魔物が現れるようになった。国の対処も虚しく、瘴気が街へ濃く漂うようになってしまったのだ。王立アルーダ学園も、生徒達を守るために学園を閉鎖することになった。本日が終業式で、明日からは閉鎖となる。


 だが、終業式には僅かな人数しか集まらなかった。

 どの生徒たちも皆、魔物に怯えて登校しなかったのだ。もちろんアニエスも、母に登校するなと言われていた。


 けれどアニエスには、どうしても今日、学園に行かなければいけない理由があった。


「お待たせしてごめんなさいね」


 ぼんやりしていると、ベンチのそばから聞き慣れた声が聞こえてきた。

 振り返れば、そこには微笑みを浮かべた聖女メルティアが立っていた。


「ご機嫌よう、メル様」

 アニエスは嬉しそうに立ち上がって、淑女の礼をした。二人は並んで、ベンチに座る。

 その理由とは、この聖女メルティアとの会合のためだった。どうしても会って話がしたいと、メルティアがアニエスを学園へ招いたのだ。


「ごめんなさい、私の聖女の力が覚醒しないばかりに、こんなことになってしまって……」


「いいえ、メル様のせいじゃないです。メル様は聖女の力を持っているだけで、すごいですよ。それに魔物なら、あの野蛮な冒険者? たちがやっつけてくれるもの」


 アルーダ国は比較的平穏な国だった。

 例えば隣国グランタニアには、ダンジョンと呼ばれる、危険なモンスターを排出するスポットが数多くある。そのためグランタニアはモンスターに関する知識や、危険に対応する人員を豊富に揃えていた。しかしアルーダにはダンジョンはない。ここ数年モンスターによる被害など、数えるほどしかなかった。なのですぐにこの状況に対処できるだけの知識も人員もない。


 瘴気に侵され、凶暴化した生き物を魔物と呼ぶ。魔物はモンスターよりも強い。特殊な道具や技を用いてしか、倒すことができないからだ。

 アルーダ国では現在も、国中から戦力を集めてはいるものの、なかなか全てを討伐することが出来ずにいた。応急措置として、最近では隣国グランタニアから、野蛮な冒険者達を連れてきて魔物を退治させているのだとアニエスは聞いている。


「それで、あの……お話って?」


 しばらく世間話をしたのち、アニエスは切り出した。


「実はね……アニエスにしか頼めない、重要なことがあるの」


「!」


 アニエスは頬を上気させた。


 ──私にしかできないこと?


 普段人から頼られることの少ないアニエスは、聖女からそう言われただけで、気持ちが舞い上がってしまう。


 ……以前もそうだった。この国にとって害悪となる可能性を秘めた義姉のクーナを追い出すため、アニエスはメルティアに協力した。そしてあの断罪の場で、嘘の証言をしたのだ。

 ──義姉は、聖女を苛めていた、と。


 だけどそれは、この国を救うために必要なことだった。メルティアが言うには、クーナは心根が悪すぎて、いつかきっと「魔憑き」になってしまう。魔憑きとは、瘴気に取り憑かれ、魔物化した人のことだ。魔憑きになれば、周りの人々に危害を加えるようになってしまう。だからこの国を救うためにも、自分に協力してほしいと言われたのだ。

 聖女に協力できること。それはアニエスにとっての誇りだった。


(だって、私のことをちゃんと見てくれた人なんて……信じて頼ってくれた人なんて、今まで誰もいなかったもの)


 アニエスの脳裏に、父親と母親の顔が浮かんだ。


(お母様はずっと、お父様の前妻を恨んで、クーナお義姉様を憎むばっかり。お父様だって、私やお母様を見ずに、いつも前妻のことを考えていた。私をちゃんと見てくれた人なんて、メル様だけしかいなかったわ……)


 アニエスの母親は、幼い頃からずっと、レイリア伯爵に恋をしていたのだ。そして本来なら、結婚可能な年齢になればすぐに、レイリア伯に嫁ぐはずだった。けれどレイリア伯はクーナの母である獣人のエレナに一目惚れし、婚姻を結んでしまった。結局エレナは流行病ですぐに亡くなってしまったため、アニエスの母親は後妻としてレイリア家に入ることができた。けれど彼女は、ずっとエレナを恨んでいた。だからエレナにそっくりなクーナに、きつく当たっていたのだ。例えいっときであっても、自分からレイリア伯を奪ったエレナに復讐するかのように。


 レイリア伯もレイリア伯で、エレナ亡き後も、結局アニエスたちに見向きもしなかった……とアニエスは思っている。父親としてアニエスに人並みには接してくれてはいたけれど、心の奥底ではいつもエレナのことを想っていた。それがまた、アニエスの母や、アニエス自身を苛立たせるのだ。結局いつも、自分たちはエレナやクーナに振り回されているのだと。


(だからお義姉様なんて、大っ嫌い)


 そんなアニエスの心の傷を見透かしたように慰めてくれたのが、メルティアだった。あなたは何も悪くない。こんなにいい子なのに、どうして誰もあなたを見ないのかと、メルティアはアニエスの本当に欲しかった言葉を言ってくれた。アニエスはその言葉に救われたのだ。だからメルティアの役に立てるのは嬉しかったし、クーナを追い出せたら、両親は自分だけを見てくれるかもしれないと思って、メルティアに協力したのだった。


「あのね、レイリア家の皆さんが、しばらくグランタニアへ滞在するって聞いたのだけど……」


「……ええ。本当は嫌なのですけど、お父様の決定ですから、仕方なく」


「お父様がグランタニアへ向かうというのは……クーナさんが、生きている可能性があるから……よね?」


「……」


 アニエスは渋い顔をした。

 クーナが追放されて、しばらくした後。父であるレイリア伯は、その処分があまりにも非道なものだったのではないかと、国に訴え出たのだ。実際、裁判もせずに、まだ十五歳の女の子を魔物の森へ捨てたことは、平民たちから──主に亜人たちから、強い批判を受けていた。

 それを行ったのが同じ年代の少年少女達、おまけに人間だと言うのだから、反感を買って当然だろう。それに加え、王太子はアルーダ王にこのことを伝えていなかったのだ。


 ──獣人の女性のことだから、別に何があっても構わないだろうと。


 これではまるで私刑も同然だ。ちゃんとした調査も裁判もせず、一人の少女の命を奪ってしまった。アルーダ国では人間が中心となって文化を築いてきた歴史があり、未だに亜人差別が続いている。しかし今代のアルーダ王は病弱ながら親亜人派で、国際社会に後れを取るまいと、積極的に優秀な亜人官吏の雇用も行っていた。


 この事件に関しては、聖女の意見もあったといえ、王も渋い顔をしたと言う。そもそも現時点で聖女が聖女の仕事を全うできていないと言うことも、国民の不安を煽っていた。

 亜人ではなくとも、今、聖女達に対する不満が、募りつつある。

 ──いつになったら、この事態は収束するのか。

 多くの国民たちがやきもきしているのだ。


「ねえ、お願い。クーナさんが本当にいたら、この国に連れて帰ってきて」


「えっ?」


 まさかそんなことを言われるとは思わず、アニエスは硬直した。


「だってお姉様は、将来魔憑きになるって……」


「ええ、そうよ。でもね、確かにやり過ぎたかなって思うの。私を苛めたことに関しては、許してあげてもいいかなって」


 メルティアは市井でずっと育ってきた。

 だから平民達の支持を得られないのは、よくないと感じているのだろうか。


「でも私、自分の判断が間違っているとは思えないわ」


 だったら、なぜクーナを取り戻したいと思うのだろう?


「あなただけに教えてあげる」


 アニエスの耳元で、メルティアが囁いた。


「実はね、私に神様のお告げを持ってきてくれた神獣が、いなくなってしまったの」


「!」


「どうもね、クーナさんが隣国へ逃げる際、盗んだのを見たって言っている人がいるのよ」


 そんな。姉はどこまで罪を犯せば気が済むのだろう?


「だからね、連れ戻してくれない? 神獣ごと。これは公になってしまったら、レイリア家の罪にもなるのよ」


 アニエスはゾッとしてしまった。流石にそのような大罪を犯せば、家族である自分たちにも影響が出てくるだろう。思わずコクコクと頷く。

 ただでさえクーナのことで評判が落ちているのに、これ以上余計な泥は被りたくない。


「……分かりました。私、必ずお姉様と神獣を連れて帰ります!」


「そう。ありがとう」


 メルティアはアニエスの手を握って、ニッコリと微笑んだ。

 その笑顔から、アニエスは目を離すことができなかった。

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