第二部 前半

序章 『予兆』

クーナを連れ戻せ


 ──アルーダ国、レイリア伯爵邸。

 薄暗い部屋で、二人の男が向かい合って話をしていた。


「答えてくれ、イルジャー。それではその『銀狼王の盾』とか言う場所に、うちの娘……クーナがいたんだな?」


 イルジャーと呼ばれた男は、肩を竦めて頷いた。


「ええ。先日、うちの組織の者が白狼族の若い女を攫おうとして、失敗しましてね。どうもそれが、なんの因果か、あんたの娘さんだったようだ」


「……」


 顔色の悪い男──レイリア伯爵は、ぎゅ、と拳を握った。


「……クーナは、クーナは無事だったんだろうな?」


「無事も何も! 杖騎士団やギルドの連中に守られて、大層可愛がられていましたがね。こっちは杖騎士団にしっぽを掴まれて、もう解散ですよ。悪いが旦那、あんたとの繋がりも、ここで終いだ」


 伯爵は苦い顔をして言った。


「私とお前達の組織の繋がりも、十年以上になるか。もう頼めないのか? お前なら、……の時みたいに、クーナを簡単に攫えるんじゃないのか?」


「いや、もう俺も足を洗うつもりですから、旦那。杖騎士団にしっぽを掴まれたんじゃあ、どうしようもねえ」


 イルジャーは立ち上がると、衣装を整えた。


「取り戻すのなら、ご自分でどうぞ。それにあんたが心配した方がいいのは、そこじゃねぇだろ」


「……」


「俺たちとあんたの繋がりがもしも国にバレたらどうする?」


 初めてレイリア伯爵が笑った。


「この国で、亜人の人身売買に関わったとしても、罪などうやむやにされて終わりだよ」


「アルーダ法ではな。だがグランタニアで裁かれるとなったら、あんた、大変なことになるぜ。なんせあんたの前妻さんは……」


「もういい」


 レイリア伯爵は、首を横に振った。


「クーナのことは自分でなんとかしよう。どうもあの王太子達も、ようやく自分たちの行いの愚かさに気づいたようだ」


 レイリア伯爵は苛立ったように指をコツコツ鳴らした。


「……クーナを取り戻す。ちょうど家族も、近頃の魔物被害のせいで、家に篭りきりになって辟易していたところだ。こちらからグランタニアに出向こう」


「……好きにしな。俺はもう、あんたには手を貸さない」


 イルジャーはレイリア伯爵に背を向けて、ドアまで歩みを進めた。

 そこで立ち止まり、ポツリと言葉を漏らす。


「杖騎士に捕まった組織の一員には、どんな拷問をしても、情報を吐かせられないような呪術を施していますがね。しかし困ったことに、そいつが捕まった場所が『銀狼王の盾』のお膝元ときた」


「……何が言いたい?」


 レイリア伯爵は眉を潜めた。


「……ギルドマスターが呪術の解析に加われば、情報が全て向こうに渡ってしまう可能性がある」


「……」


「それじゃあな、旦那。十六年前の取引のことは感謝しているが、俺たちの縁はここで終わりにしよう。お互い、繋がっていてもいいことはないからな」


 そう言うと、イルジャーは軽く手をあげて部屋を出て行った。

 後に残されたレイリア伯爵は、ポツリと呟く。


「どうでもいいさ、そんなことは。私はただ、愛しいクーナを取り戻すだけだ」


 レイリア伯は、机に飾ってあった小さな肖像画を手に取った。

 描かれているのは、美しい白狼族の女性だ。


「エレナ」


 レイリア伯は愛おしそうに写真を撫でると、前妻の名前を呟いた。

 ──エレナ。

 けれど肖像画の裏には、何かそれとは別の、名前のようなものが書き込まれていた。

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