この耳としっぽがなければ(前編)


「う……」


 吐き気がして目が覚めた。

 胃がむかむかする。


 わたし、何やってたんだっけ……?


 重いまぶたをこじ開けるようにして持ち上げる。

 すると、ぼんやりとした視界に見覚えのない、薄暗い倉庫のような場所が映った。

 大きな貨物がたくさんある。


 なんでわたし、こんなところにいるんだろう……?


 間違っても、こんなところくるはずが無い。

 ズキズキしている頭に顔をしかめつつ、体を起こそうとする。


 ……ダメだ、体が鉛みたいに重い。

 全然体が動かなかった。


「旦那。白狼族の女は力が強い。縛っておいたほうが安全ですよ」


「まさか。こんなに小さくてか弱いクーナが、抵抗なんてするわけないだろう?」


 聞き覚えのある声がして顔を上げる。

 貨物のそばで会話をしていた二人を見て、ハッと意識が覚醒した。

 一人は黒いローブを着た男。今はフードを脱いで顔を見せている。

 中身は壮年の男性のようだった。

 そうだ。わたし、あの男に口元を塞がれて……。


 ここへくる前のことを思い出して、ゾッとした。

 いったい彼はなぜ、わたしにこのようなことをしたのだろう。


 そうしてもう一つ解せないのは、なぜかそこに、アルバートさんがいたことだった。会いたく無い人が、なぜここにいるのか。

 わたしの意識が戻ったことに気づいたらしい。

 二人がこちらを見て、驚いたような顔をした。


「驚いたな。強い薬を嗅がせたはずなのに」


 ローブの男が、呟く。


「なん、で……」


 あなたたちがここに?

 

 わたしの疑問は当然わかっているのか、ローブの男は鼻で笑った。


「そりゃあ嬢ちゃん。嬢ちゃんみたいな質のいい獣人族の若い女は高値で売れるんだから、当たり前だろ? しかも白狼族ときた」


「……」


 靴の音が近づいてくる。

 ローブの男が屈んで、わたしの顎をグイッと持ち上げた。


「獣人族の女は愛らしいから、よく売れる。犬系は特に。従順な性格が人気なんだろうな」


 男はふと、眉を潜めた。


「もう十年以上前の話になるが、若い白狼族の女をアルーダ国に売ったことがあった。あの国は不思議なもんで、亜人を嫌う割に、亜人の女を囲いたがるんだよなぁ。嬢ちゃんも、その時の女によく似てるな」


「……」


 そうか。

 わたしは人身売買の商品として、今、さらわれそうになってるんだ。

 

 アルーダにいた頃も何回か、おかしな人に後を付けられたことがあった。

 けれどあの時は、まがりなりにも伯爵令嬢という身分があったし、何よりわたし自身が警戒していたから、最悪の事態にはならなかった。

 最近、グランタニアは安全だからと気が緩んでいたのかもしれない。


「でもよかったな。お前の主人は、ここにいるベルタ公爵の三男、アルバート様だ」


「……は?」


 そう言われて、初めてアルバートさんがここにいる意味を少し理解した。

 まさか、そんな……。


「君を買い取りたいと、さらってくれと言ったのは、この人なんだ」


 体に冷や汗が浮かんだ。

 アルバートさんは笑う。


「犬系の獣人族の女の子は、自分の決めた人としか添い遂げないからね。どんなに他に魅力的な男性がいてもだ。そういう馬鹿な女の子が多いから、君みたいなまだ主人を決めていない女の子が欲しくてね」


 ……それは人間側が勝手に都合の良いように作った嘘だ。


 獣人は男女とも、この人だと決めたら、一生その人と添い遂げる。浮気なんてしない。その部分はあってる。

 だけどそれをいつまにか人間側が、『犬族の女は従順だから、旦那を『主人』として一生付き従う。主人の言うことは絶対きく』などと都合の良いように解釈してしまったのだ。

 犬族の女性たちが人身売買の憂き目にあうのも、この人間が作った噂を信じている人たちがいるから。


 もしそれが本当だとして、誰が自分をさらったやつなんか、好きになると言うのだろう。


「ああ、良いな、君は。こんなに綺麗なのに、子犬みたいにまだ小さい。いろんなことを教えてあげられそうだ」


 なんでこんな場面で、ニコニコ笑っていられるんだろう。

 アルバートさんは、心底嬉しそうに笑っていた。

 近づいてきて、耳に触れられる。


 ゾッとして身をよじった。

 虫唾が走る。

 すると彼の笑顔が引っ込んだ。


「いいのか? 『主人』に逆らっても」


「……」


 黙っていると、ため息を吐かれる。


「大人しくついてくるなら、この子も一緒に買い取ってあげようと思ってたんだけどな」


「っ!」


 目の前に、ガシャと置かれた小さな檻。

 そこにはぐったりとしたルルが入れられていた。


「ルル!」


「……るぅ」


 ルルは薄目を開けて、か弱く鳴いた。

 籠の中には、小さなキャンディが転がっていた。

 


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