進み、知る勇気
全く身の入らなかった部活終わり。俺は顧問にこっぴどく一時間ほどしぼられ、平日より少し早い完全下校チャイムが鳴ってやっと解放されていた。
「あーあ。まっ、しゃーねーよな」
今回ばかりは思考を切り替えられなかった俺の責任だ。悩んでも仕方ないのに、あれこれと考えてしまった。結局、早めに部活を切り上げて瑠香を待ち伏せる作戦も遂行できず終いだし、どうすっかな……。
力ない足取りで小階段を下り、生徒会室の前の廊下に差し掛かった時だった。
「あれ? 君は確か、朝にここまで案内してくれた……」
「あ、ども。蔵本です」
高校に似合わないスーツ姿に、来校者用のタグを首から掛け、朝と変わらない笑顔を浮かべた長澤さんが、生徒会室前で佇んでいた。
「部活終わりかい? さっきちょっと見学させていただいたけど、陸上部って記録のためにあんなにきついトレーニングができるんだね……すごいなぁ」
「よく言われます。どうしてそこまで、っていうのもよく聞かれるんですけど、上手い説明はいつもできないんですよね」
純粋な感想を述べるように話す長澤さんに、俺も同じふうに返した。
「へぇ、そうなんだ。……ところでさ、この記事に書いてあること、蔵本くんは何か知ってる?」
長澤さんの瞳が微かに揺れ、そのまま視線は隣の掲示板に貼られた生徒会新聞へ。
「……っ!」
昨日。部活終わりに、俺が見ていた記事だった。
「……下駄箱のカタワレチョコ。こんな噂が立っていたなんて、初めて知ったな」
感情のこもっていない声で、無表情に、長澤さんは言った。
「すみません……」
「ん? なぜ君が謝るんだ?」
「い、いえ。朝、話を聞いた時に、言わなかったので……」
「ああ、ごめん。そういう意味で言ったんじゃないんだ」
薄暗い廊下に差し込む橙色の光線。その光の筋が当たらない暗がりで、長澤さんは微かに頬を緩めた。
「彼女は…………沙理奈は、明るくて元気な、友達思いの子だった。困っている人は放っておけなくて、傘を忘れて困っている話したこともない隣のクラスの子に、もう一本傘があるとうそをついて貸すような、そんな幼馴染だった」
僅かに開いた窓の隙間からそよ風が吹き込み、生徒会新聞をはためかせた。
「人付き合いが苦手だった僕を気遣ってか、何度も遊びに誘ってくれて。僕が作った冴えないお菓子を美味しいと食べてくれて。景色が綺麗な高台の丘公園や、夏祭りの花火がよく見える穴場の河原なんかにも連れて行ってくれて……」
休日で人気のない廊下に、淡々としたリズムで長澤さんの声が響く。
「北海道の修学旅行の時なんか、事前に下調べした場所に、明け方にこっそり抜け出して見に行くくらいダイヤモンドダストが好きで……」
この時、俺は気づいた。
「折れることなく真っ直ぐ伸びて、綺麗で大きな花を咲かせるタチアオイが好きで……」
驚くほど無機質な彼の声と表情は、
「どんな時も笑顔で、笑うことが大好きだった沙理奈が……」
溢れる悲しみに耐えるために身につけた、
「どうして……こんな…………」
仮面だったのだと。
「その、長澤さん……」
彼の頬を伝う雫は、朱色に染められた床へと落ちていく。夕日の陽光を受けて輝くそれは、いつの日にか屋上で見たあの輝きに、似ている気がした。
「俺、実は――」
俺は、長澤さんに全てを話した。
俺が、この『下駄箱のカタワレチョコ』の対象になったこと。
半分に割れたホワイトチョコレートのもう一方を探すため、あれこれと奔走したこと。
そして、屋上でその片方を持っていたクラスメートが来て、告白されて、付き合ったこと。
「――このカタワレチョコの噂は、ただの噂です。実際は、このチョコレートのおかげで俺たちは付き合うことができたんです。俺も恋愛には奥手だし、彼女もそうでしたから……」
そう。もしこの七不思議が無かったら、俺は好きな人と未だに想いを繋げられていなかったかもしれない。
「多分、多分だけど……この『下駄箱のカタワレチョコ』は、沙理奈さんの未練が生んだ呪いとかじゃありません。ただお節介で、沙理奈さんらしい気遣いのような……そんな気がします」
長澤さんが言うような友達思いで優しい人が、噂にあるようなことをするとはどうしても思えなかったし、思いたくなかった。
「蔵本くん……」
「……あ、すみません。よく知りもしないで、出過ぎたことを……」
「いや、ありがとう……。そう、かもしれないね。沙理奈は、そんな子だった……」
ここではない。おそらく十年以上前の思い出を見つめるように、長澤さんは窓の外へと目を向けた。
「あの……」
言うべきか迷っていたけど、言った方がいい気がした。
「屋上に、行きませんか?」
「え?」
彼の顔が、明らかにこわばった。当たり前だ。幼馴染が亡くなった事故の原因ともいうべき場所に、行こうと言われたのだから。けれど、俺は続けた。
「あの日。なぜかいつも締まっているはずの屋上の鍵が開いていました。そんな事故があったのなら点検も入念でしょうし、壊れているはずがありません。可能性として考えられるのは……」
「沙理奈の仕業、か……」
どんどん濃くなる影の中で、彼は視線を落とした。
その手は小刻みに震え、今まで全く聞こえなかった彼の息遣いが、はっきりと耳に届く。
「……わかった。行こう」
そうして。俺と長澤さんは、屋上へと続く階段を上り――開いているはずのない屋上の扉を開け放った。
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