89:彼女の選択
「失礼いたします。クライヴ殿下、お久しぶりでございますわ」
「ラウラ殿か。久しぶりだね」
「お元気そうで何よりでございます。ぜひ主にもお会いしてほしかったのですが」
後半、少しだけ強調されるように言われる。
クライヴはにこっと笑った。
「僕が失礼なことをしないか気になっただけだから」
「あら。主に失礼なこととはどんなことでしょうか?」
ははは、とクライヴは笑う。
ふふふ、とラウラが微笑む。
二人はしばらく笑顔を見せ合っていた。客観的に見れば微笑ましいかもしれない。だが傍で見つめるエダン、使用人達の目には、少しだけ火花が散っているようにも見え、若干はらはらしていた。
「今回はご挨拶と、どうしても見てほしいものがありまして」
「見てほしいもの?」
「はい。夜会用の主のドレス姿ですわ。実物はお見せできなくても、魔法でお見せすることはできますから」
すっとラウラは右腕を上げる。
「
彼女の手から揺らめく光のようなものが現れる。
それは部屋の壁に一人の人物を映し出した。
緑色のドレスを身に纏うユナの姿だ。
「へぇ」
クライヴはじっと、彼女を見つめた。
まるで本物そっくりだが、ラウラの見せる幻術だ。絵のように止まっているものの、本物と変わらないほどに美しい女性が目の前にいる。
「瞳の色に合わせたのか。品があって綺麗だね」
「そう言っていただけると主も喜びますわ」
「でも肌、出し過ぎじゃない?」
「あら。これくらい普通ですわ」
「嫌だよ。肌を見せるのは僕だけにして欲しい」
「ごほっ」
黙って聞いていたユナが咳き込む。
フィーベルは慌てて背中をさすった。
その間にも二人のやり取りが聞こえてくる。
『前着ていた赤いドレスはそんなに肌を出してなかったよね』
『肌の面積よりもドレスと主の美を堪能してくださいな』
『夜会には大勢の人が来ると聞いている。見せ物は嫌だよ。ライバルが増えてしまう』
『ではクライヴ殿下がお守りすればよいのでは?』
『もちろんその予定ではあるよ。以前の交流会でも牽制はしておいたからね』
『牽制ですか?』
『うん。初対面……ということにしてたかな、あの時は。初対面でプロポーズした』
プロポーズ? と聞いて、フィーベルとユナは顔を見合わせる。もしかして、先程ユナが話してくれた時のことを言っているのだろうか。
『あの頃からアルトダストは注目されていたし、戦場の女神と言われていた側近のことも皆気にしていた。だから僕はすぐに手を打った。交際を申し込むより結婚を申し込んだ方が、本気であることが周りに伝わるからね』
『クライヴ殿下が主を口説いた話は聞いておりましたが……そんなに早い段階で色々と考えてらっしゃったのですか』
『もちろん。ユナ殿を見つけたのは僕が最初だ』
顔は見えないが、どことなく自信に溢れた声色。クライヴのことだ。もしかしてにやっと笑っているのかもしれない。
確かにユナを最初に見つけたのはクライヴだ。その時に恋に落ちたようだし、他の人に取られたくないと思ったのだろう。その時から既に策士だったとは。
ユナは赤い顔をして聞いていた。
恋する乙女の様子に微笑ましくなる。
『ドレスはいいと思うんだけど肌がな……』
『主を美しく見せるためです』
『じゃあキスマークでもつけようか』
「!?」
ユナが慌て出した。
フィーベルは落ち着くように伝える。
『そうできる関係性になってからにしてくださいね』
ラウラは窘めるような言い方をする。
さすがに無茶があるからだろう。
『ああ、そうだ』
クライヴは思い出したように、エダンを呼ぶ。がさがさと音が聞こえるので、何かしら持ってこさせたのだろう。かぱっと、開く音が聞こえた。
耳をすませると、ラウラが息を吞んだ。
『アクアマリンですわね。ネックレスにイヤリングまで……。こちらは』
『ユナ殿への贈り物。サファイアとも迷ったけど、聡明と沈着。まさにユナ殿だ。それに、幸運をもたらす石とも言われている』
ユナは聞きながら、唇をきゅっと結ぶ。誠実で芯の強いユナの良い部分と、ユナ自身の幸せを願って選んでくれたのだろう。
『これ、ラウラ殿から渡してもらえないかな』
『クライヴ殿下からお渡した方がいいのでは』
『ううん、いいんだ。これを渡す時に言ってほしいことがある』
箱を閉じた音が聞こえる。
クライヴは少しだけ真剣な声色で言った。
『僕を好きになったら、これを身につけてほしいって』
「……!」
ユナの大きな目が揺らいだ。
『それは……』
『僕への気持ちがない状態ではつけないでほしいんだ。つけてくれたら、僕は彼女を迎えに行く。これは、その合図に使ってほしい』
そうクライヴが言った後、ユナは静かになる。
先程から静かではあるのだが、まるで動き自体が止まったかのようだ。フィーベルは心配になって「ユナさん……」と声をかける。
すると彼女は、少しだけ苦笑した。
「すまないフィーベル。少し、一人になりたい」
ユナはバルコニーに移動した。
自室に近いその場所で、共もつけずに一人でいる。元々剣の腕前があるので、使用人は一人もつけていない。たまにラウラが一緒にいてくれるくらいだ。外を眺めながら、先程のクライヴの言葉を思い出した。
彼が本当に想ってくれていることは、ユナも分かっている。くれた宝石も、その意味も、素直に嬉しかった。
ユナは目立つ容姿をしている。赤い髪。緑の瞳。この容姿に合う宝石があまりない。宝石をつけることで逆に派手になってしまう場合もある。だからいつも無難なものを選んでいる。
そんな中、彼はアクアマリンを選んでくれた。
淡く瑞々しい青色。決して目立つ色ではないが、繊細さと美しさを表現している。普段から合わせやすいように、色もきっと気遣ってくれただろう。クライヴは常に、こちらのことを一番に考えてくれる。
好きになったら宝石を身につけてほしい。
彼はそう言った。
それを聞いたユナは。
(……身につけたい、と思わないのはなぜだろう)
そんな自分に、少し驚いている。
クライヴのことは、人としては好意的に見ている。いい人であり愛情深い人だ。フィーベルを自国で匿い、大切にしてくれた。フィーベルが純粋なままでいるのも、彼のサポートがあったからだ。
それは分かっている。分かってはいるが、どうやら自分は彼のことを、本当の意味では好きではない。おそらく。宝石の話を聞いて、そう思ってしまった。
これでようやく自分の気持ちが分かった。……はずなのに、それはそれで、なんだか心に重いものが乗ったように、落ち込んでいる。なぜだろう。
ユナは思わず溜息をつく。
(……もしやクライヴ殿下のことを好きになったのではないかと思ったが)
彼の言葉を嬉しいと、彼の行動が嬉しいと思えるようになった。ということは、その可能性もあるんじゃないかと、ちらっと思ったことはある。これはフィーベルにも言っていない。だが結局、そうではなかった。そうではなかったことが、残念に思っている自分もいて。自分のことが、やはりよく分からない。
(……私は一体どうしたいんだ)
いっそそれは好きなのだと、誰かが言ってくれたなら。そうかもしれないと、自信を持てたかもしれないのに。……いやこれではまるで、自分がクライヴ殿下を好きになりたいように聞こえてしまう。
「――ユナ」
振り返れば、ユギニスが傍に来ていた。
いつの間に。自分がクライヴのことをどれほど考え、悩んでいたのかを思い知らされる。国王となる予定の大事な兄の気配に気付かなかったなんて。側近だった頃ではあり得ないことだ。
「兄上」
「お兄様、と呼んでほしいんだがな」
「これでも譲歩したつもりです」
相手は苦笑する。
「手厳しいな」とぼやいた。
そのままユナの隣に並ぶ。
同じく目を景色に向けていた。
「ラウラから事情は聞いた」
「……」
「今あいつは休ませている。本当に、謙虚なんだか大胆なんだかよく分からないな」
クライヴのことを指しているのだろう。
鼻で笑っていた。
「もうすぐ戴冠式だ」
「はい」
「その時に俺は婚約発表を行う」
「はい。喜ばしいことです」
ユギニスは国王になると同時に、王妃を発表する。
相手は常に傍で支えてくれた女性だ。前々からユギニスの相手はこの人しかいないと、皆思っていた。ユギニス自身も思っていた。だが当の女性は最初拒んだ。身分が違うからと。隣ではなく、後ろで見守りたいからと。
年齢はユギニスより上で、かなり落ち着いている。ユギニスから想いを打ち明けられても「もう少しちゃんと選んで下さい」と眉をひそめられたという。いかにも彼女らしい。
ユギニスはひたすら粘って粘って頑張っていた。最後には、いつもは凛とする彼女が微笑んで承諾してくれた。これにはこっそり見守っていたみんなで拍手喝采。今後ともこの国をきっと支えてくれるだろう。
「同時にシュティの婚約も発表する」
「はい」
この度傭兵として雇っていたリオが、シュティの婚約者となった。彼は出自が不明だ。さすがにそんな者を姫の婿にするわけにはいかない。そのため、とある侯爵家の養子に入ることになった。貴族のマナー、経営に関しても勉強している。元々賢く要領もいいので、特に苦労している様子はない。
彼は与えられた仕事さえ終わればこの国を去るようだったが、ユナが引き留めた。シュティのことを任せたいと伝えた。最初は渋っていた様子だったが、後々この国で骨を埋める覚悟を示してくれた。今後は傭兵ではなく、使用人でもなんでも、役に立つことをしてやる、と言ってくれた。
それを聞いたユギニスが、じゃあ貴族の養子に入れ、と命令した。彼が優秀だったおかげもあり、あっという間に立派な侯爵家の一員となった。そしてシュティを任せた、と肩を叩いた。リオはユギニスの言葉に唖然としていた。まさかシュティの婚約者にされるとは思っていなかったらしい。
慌ててユギニスに抗議した。
『おかしいだろ! なんで俺を』
『お前達の仲くらい、俺が把握してないと思ったのか』
『っ! 別に、何もない』
『そんな心配はしていない』
『いいからっ! どう見ても俺じゃ不釣り合いだろ』
『身分の問題か? それはもう解決しただろう』
『勝手に解決してたなっ!』
『何が不満なんだ』
『いやだから……大事な姫だろ。将来まで任せていいのかよ』
リオは困惑していた。
思えば最初から、アルトダストの王族の態度に困惑していた様子だった。ただの傭兵に姫を任せられるわけがないだろうと。ユギニスは笑う。側にいたユナと顔を見合わせた。
『任せられると思ったから、任せたい』
『魔法使いの気持ちが分かるお前なら、この国に住む魔法使いたちのために動いてくれるだろう。それも期待している』
『…………』
『シュティのこと、頼むな』
それを聞いたリオは思い切り溜息をつく。
両手を腰に当てて言い放った。
『分かったよ。シュティまとめて、みんな幸せにしてやる』
男気溢れる言葉が、頼もしかった。
「なんだかんだ情に厚い奴だ」
「彼が側にいてくれるなら、安心です」
「ああ。……ユナ」
「はい」
「今聞くことじゃないかもしれないが、あいつのことはどう思っている」
「……よく、分かりません」
正直に答えた。
自分が一番知りたい。
先程好きではないのだと分かったはずだったが、それでもそうはっきり言える自信もなかった。迷走している。自分の気持ちなのに、自分が一番分かっていない。
ユギニスは「そうか」と言った。
「これだけは言っておく。国内部でお前を妻に迎えたいと望む者は多くいる」
「……! ご冗談を」
「本当だぞ。見合い話も来ている」
ユナは眉を寄せた。
そんな話は聞いていない。
おそらく隠していたのだろう。
「今の返答だと、誰でも可能性はあるということだ。戴冠式後の夜会でも、声をかけられるだろう」
「……私は最近まで側近で、手を汚したこともあります。そんな者を妻になど」
「この国でお前は英雄のようなものだ。加えて美しい母譲りの容姿。手に入れたいと思う男は多くいる」
ユナは視線を下げる。
悪態をつくように言った。
「物好きですね」
自分の何が良くて妻にしたいのだろう。つい最近王族になったばかりなのに。側近であった時はこのような話を聞いたことがなかったのに。王族になった途端これなのか。そもそも自身の良さがよく分からない。だから相手の真意が見えない。
「……ユナ。今の願いはなんだ」
「え?」
急に話が変わり、聞き返す。
「以前はフィオ殿とフィーベルのことだっただろう。それはもう解決した。今は?」
「急にどうしたのですか」
「いいから」
ユギニスは真剣な様子だった。
急に何の話なのだろう。
ユナは少し考えて答える。
「この国を良くすることしか考えておりません。陛下となられる兄上と共に、王族としての役目を全うするだけです」
すると彼は少しだけ表情を変える。
それが少し、悲しく見えた。
「この国、か」
「? はい」
「
「…………」
冷水をかけられたような気分だった。
「もっと自分の幸せを考えろ」
「……この国の発展が、私の願いであり、幸せです」
「そういうことじゃない」
「おっしゃっている意味が、よく分かりません」
本当に分からないから、そう答えるしかなかった。自分の幸せも願いも、すぐ側にあるのに。
するとユギニスはより悲しみを濃くする。
「……今までお前は、周りのことしか考えていなかった。自分がどうなろうと、構わない様子だった」
「それでいいのです」
「それを見ていた俺達がどんなに辛かったか」
はっきりと告げられ、黙ってしまう。
「何も受け取らない、傷を増やしたところで顔に出さないお前を、俺とシュティは、どんな気持ちで見つめていたか分かるか」
険しい表情で見つめられる。
怒ってるようにも、心配しているようにも感じられるが、ユナにはよく分からなかった。なぜそのように感じるのか。なぜそのような顔になっているのか。
「……おっしゃる意味が、」
するとそっと、ユギニスが両手を握ってきた。
優しく、大きな手でユナの手を包む。とても温かい。と思っていると、今度はぐっと、強めに手を握ってくる。まるで望むように。願うように。
「直感でいいから、感じたままに動いてみろ。それが自分の気持ち、自分の幸せに繋がる」
「…………」
「俺もシュティも、お前の幸せを一番考えている。結婚も、ユナを絶対に幸せにしてくれる人としてほしい」
「……王族となった時点で、自分の責務は弁えております。政治的な理由や国のためであれば、相手は誰であろうと」
「少し前のシュティのようなことを言わないでくれ。それだとユナの意志がない。俺はユナ自身に決めてほしいんだ。周りのためじゃない。自分のために決めてほしい」
そんなことを言われても。
自分の意志で決めたことなんてあるだろうか。
国のためになるなら、ユギニスやシュティのためなら、躊躇なく何でも決めてきた。だが自分のことはどうだ。決められない。決めたことがない。
それはなんでもいいからだ。特に希望がないからだ。誰かにそうしろと指示された方が、素直に言うことを聞くことができるのに。
黙るユナに、ユギニスはそっと声をかける。
「クライヴのことで悩んでいたなら、結婚のことも少しは考えたんじゃないか?」
実はそこまで、考えていなかった。
だって人に好かれることなど、自分にはないと思っていた。ユギニスやシュティのように、誰かと添い遂げる未来が自分にもあるなんて、考えられなかった。溢れる想いを受け止めることさえ難しいのに、その先の未来なんて、誰が想像していただろうか。
「俺は一生ここにいるし、シュティもこの国にいてくれる。お前は自由にしていいんだ。ここにいても、国を出ても」
(……そうか)
ユナは気付いた。
他国の者と結婚してしまうと、当たり前だが国を出ないといけない。つまり、もうユギニスとシュティに仕えることができなくなる。国を、王族を、支えることができなくなる。
それは――困る。
側近になったのは支えるためだった。
例え自身が王族になっても、忠誠心がなくなることはない。王族になったからこそ責任も生まれるし、立場を使用し、できることもある。自分はずっと、この国のために尽くすのだ。尽くすことができるのだ。
ユナは一旦目を閉じた。
次開いたときには、冷静になれた。
側近だった頃の自分のように。
迷いなく口にする。
「私は、あの方の手を取ることはできません」
心の奥に、何か分からぬ思いがよぎっても。そんなものは最初からなかったと、彼女は平気で蓋をする。
ユギニスは、何も言わなかった。
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