76:二人の時間と昔話

「紅茶のおかわりはいかが?」

「はい」


 フィオの言葉にフィーベルが頷くと、すぐにアンジュが紅茶をコップに注いでくれる。柔らかい湯気と共にお花の良い香り。何度嗅いでもほっとする。


「それで、さっきの続きを聞かせて」

「ええと、パーティーの話ですよね?」

「そう。まさかフィーベルが武術を習っていたなんて。霧の魔法も使えるんでしょう? あの人と一緒ね」


 あの人、というのはベルガモットのことだろう。現在フィーベルはフリーティング王国に留まり、フィオとアンジュと共に、庭園が見える部屋でお茶をしている。フィオがクライヴに話す時間が欲しいと頼んだのだ。親子水いらずの時間を大切に、と、クライヴは快く承諾してくれた。


 ちなみにシェラルドも一緒に残っている。彼はベルガモットとファイと三人で別の場所でお茶をしているはずだ。なんとなく、あちらの様子が気になる。


「武術は生きるために身につけました。魔法は魔法兵団で少しずつ稽古を積みながら使用している感じです」

「そうなのね、たくさんの苦労が……」

「そんなことないです」


 少しだけ沈んだ声になったことに気付き、フィーベルは慌てて首を振る。フィオとは過去のことを話し合い、和解した。元々喧嘩していたわけではないのだが、フィオがフィーベルの境遇を申し訳なく思っているのだ。フィーベルからすれば仕方なかった状況であるし、実の母親に愛されてなかったわけじゃない。むしろ愛してくれていることが十分に伝わってくる。


「シェラルドくんは優しい?」

「はい」

「一番いい笑顔。本当に素敵な人なのね」

「素敵すぎて、私にはもったいないです」

「あなたは可愛くてとてもいい子よ。分かるわ」

「そ、そうでしょうか」

「もちろん。私の娘ですもの」


 少しだけ照れてしまう。


「他にも話を聞かせてくれる?」

「はい」


 二人でたくさんの話に花を咲かす。


 いつの間にか時間も過ぎ、夕陽の光が窓から差していた。朝から話していたというのに、時間というのは本当に過ぎるのが早い。一通りフィオが聞きたい話をした後、二人は紅茶を飲んで一息つく。


 フィーベルは不思議な心地のままだった。自分の母に出会ったわけだが、なにせ子供の頃の記憶がない。物心つく前に離れたので、思い出がないのだ。なのでまだ実感が湧かない。それでも居心地が良いと思ってしまうのは、やはり血なのだろうか。自然と安らぎを感じている。


 だから気が緩んでいた。

 相手の言葉に反応するのが遅れた。


「しばらくここに残らない?」


 言葉の意味を理解するのに少し時間がかかった。驚きのあまり、固まりながら相手を見つめてしまう。一方フィオは、緊張した面持ちだ。


「こんなことを言っても困らせるだけだと分かっているわ。でも話してみて分かったの。私達は、あまりにも過ごした時間が少ない」

「…………」

「親子として過ごした時間が少ないから、あなたともう少し一緒にいたいと強く思ったわ。それにシェラルドくんがいるなら、結婚のことも考えているんでしょう?」

「け、結婚なんて、まだ」


 そんな話は互いにしていない。

 最近恋人になったばかりだ。


「でも、いずれはするでしょう? いつかは嫁いでしまう。あなたと、ずっと離れ離れになってしまう……」

「…………フィオ様」


 お母さん、とまだ呼べなかった。出会ってまだ二日くらいしか経っていない。だからなのだが、フィオは少しだけ苦笑する。母と呼んでくれないことに、呼べないことに対して思うことがあるように。


「あなたと、もっと親子の時間を過ごしたいの」

「…………私の一存では、決められません」


 心苦しくなりながらも、そう答える。本来なら、自分で決めていいはずだった。だがフィーベルは、できなかった。理由はクライヴだ。


 彼にはたくさん救われた。助けてもらったから今の自分があり、こうして実の母と再会することもできた。フィーベルはクライヴのためなら一生を捧げられる。恩を返すために、一生仕え続けるつもりだ。だからこそ、自分一人で決められる問題ではなかった。


 フィオはゆっくり頷く。


「そうよね。……でも、考えてほしいわ」

「…………」

「あなたに少しでもその気があれば。……クライヴとシェラルドくんともよく話してほしいの」







「で。うちの姪とはどこまでいってるんだ」

「ぶっ」


 思わず飲みかけた珈琲を噴き出すところだった。

 いや若干噴き出した。


 シェラルドは今、フィーベルの母親の弟であるファイと、実の父であるベルガモットと一緒にお茶をしている。まさかこの組み合わせにされるとは思っていなかったが、致し方無い。母親であるフィオが、一番フィーベルに会って話したいだろうから。


 にしてもなかなかに鬼畜な場だ。

 シェラルドは若干気まずかった。


「どこまでと言われてましても……最近、想いを伝えたばかりですから」

「キスはしたのか」

「それ言わないといけませんか」

「まさか一線」

「不誠実なことはしていないと命を懸けます」

「ならいい」


 ファイはやっとコップに口をつける。


 それが気になって飲まなかったのか。

 一応叔父の許しはもらえたようで息を吐く。

 

 それよりも。

 ちらっともう一人に目を移す。


 先程からベルガモットはなにやら難しい顔をしている。前はフィオが傍にいてくれたのだが、男しかいない今、一体何を言われるのだろう。ここにきて「娘はやらん」などと言われてしまうのだろうか。


「…………君は」

「はい」


 自然と背が伸びる。


「フィーベルを一生幸せにする覚悟はあるか」


 瞳が真剣だった。ただ純粋に、娘のことを心配している父の姿だ。シェラルドは迷わず答える。


「あります。幸せにします」


 これだとまるでプロポーズなのだが、シェラルドからすればいずれフィーベルに伝えるつもりだった。だがその前に、家族からの承諾がいるだろう。結婚は自分達だけの話ではない。家族同士のつながりもある。と同時に、伝えたいことがある。


「俺はフィーベルに、いつも幸せをもらっています」


 ベルガモットもフィオも、フィーベルのことをあまり知らない。当たり前だ、ずっと離れていたのだから。だから伝えたいのだ。彼女の良さを。


「あいつはいつも人のために動けます。人に優しく、いつも笑顔をくれます。俺だけじゃない、彼女に救われた人はおそらくたくさんいます」


 救われた者は多いからこそ。


「俺が彼女の笑顔ごと守ります」


 他の誰でもない自分が。

 その気持ちは誰にも負けないだろう。


 しばらくその場が静かになる。


 いや、ファイが遠慮なく珈琲をごくごく飲んでいた。場をあえて壊しているのか、あえて空気を作ってくれたのか、どちらなのだろうか。それを少し気にしながらも、シェラルドはベルガモットの目を逸らさない。


 すると彼の方が目線を下にした。


「そうか……。それならいい」


 思ったよりあっさり言われる。


「それほどの覚悟があるならいい。元々俺は長年、フィオとフィーベルと離れていた。何か言える資格はない」

「そんなことはない。今更だがベルガモット、式は挙げろよ。姉上の花嫁姿は見ておきたい」

「……ファイ陛下、その話は後でよろしいですか」


 一応自分の主人だから、ベルガモットは敬語を使った。


「婚約してないから妻と呼べないだろう。式を挙げてちゃんと夫婦になれ」

「……分かりましたからそれは後で」

「プロポーズもしてないだろう。それも」

「ファイ、今は娘と彼の話だ。後でたっぷり聞く」


 真顔で少しだけ口調が強くなる。


 ベルガモットにとって彼はこの国の王であり仕えるべき主人。であるが、実際のところはこの世で一番愛している女性の弟であるし年下であるし、若かりし頃を知っている仲だ。地位や権力以外ではベルガモットの方が優位な気がする。さすがに話を中断され、ファイは黙った。が、平然とまた珈琲を飲んでいる。反省しているのかしていないのか。


 ベルガモットはシェラルドに目を戻す。


「俺はあの時、フィオを幸せにできなかった。娘のことをどうか頼む」

「はい」


 力強く答える。


「幸せにできなかったんじゃない、これから幸せにするんだろう」


 結局ファイが茶々を入れる。

 ベルガモットは諦めたように答える。


「無論そうだが、過去のことを思えばの話だ」

「シェラルドのこと、あっさり認めるんだな」

「娘が選んだ相手だ。悪い奴ではないだろう。それに」


 一度言葉を止めた。

 わざとらしく咳払いをする。


「相思相愛の二人を引き離すようなことはしない」

「……ベルガモット殿、ありがとうございます」


 自然と頬が緩む。


 認めてもらえた。シェラルドの意志と覚悟を確認した上で。最も、フィーベルのおかげだろう。フィーベルを大切に思うからこそ、認めてくれたのだ。


 するとベルガモットは腕を組んだ。

 少しだけ気難しい表情に戻る。


「泣かせたら承知しないぞ」

「はい」


 そんなことになったらフィーベルから実家に帰ると言われてしまうかもしれない。おそらく最悪の事態が起きた場合。それは避けたい。本当に帰るとか言われたら距離があるから寂しくなる。そんなことはさせないと、ベルガモットに誓うが如く、気を引き締めた。


 その後も一通り、フィーベルとどのようなことがあったかを伝える。花嫁のふりをしてもらっていたことを伝えたら「……その間、何もなかっただろうな?」と訝しげな目で見られた。不誠実なことはしていないはずだ。多分。それはフィーベルに聞いてほしいと伝えた。


 そろそろ日が暮れた頃。


「……君に渡したいものがある」

「?」


 ベルガモットがある物を取り出した。


 ベルベット生地の、少しだけ高級そうに見える小さい箱。片手に載せられるくらいの大きさだ。それをそっと、シェラルドの目の前に置かれる。


「これは……」







「ふぅ……」

「大丈夫か」


 フィーベルははっとしてシェラルドを見る。


「だ、大丈夫です」

「今は二人きりだ。無理するな」


 みんなで食事を取った後。


 フィーベルとシェラルドは別室に通された。しばらく二人でのんびりすればいいと通された部屋は広い造りになっており、現在二人は横並びでふかふかのソファーに座っている。座った瞬間に思わず息を吐いてしまった。


「すみません。少し……緊張していたみたいで」

「あれだけ話したら普通疲れるだろう」


 苦笑される。


 確かに何時間も話したから、というのはあるが、フィーベルはフィオに言われたことを気にしていた。ここに残らないか、と言われたことだ。結局あの後何も言えなかったのだが、考えてほしいというのは彼女の願いだろう。どうしようと、悩んでいたのだ。


 クライヴとシェラルドに相談したいとは思っているが、まずは自分でしっかり考えたいと思っていた。突然の再会に、たくさん会話をしたばかりだ。自分の気持ちも、正直に言うとよく分からない。


「フィオ殿下も気にされてた」

「え。気を遣わせてしまったでしょうか」


 自分が知らぬ間にそんなに気を遣ってくれていたのか、と、青い顔になってしまう。シェラルドは苦笑したまま首を振る。


「違う。慣れない土地で、慣れていない人達とずっといるのは緊張するだろうと。だから俺達二人の時間を取ってくれたみたいだ」

「そうだったんですか」

「さすが母だな。娘のことをよく分かってる」


 シェラルドは柔らかい表情になる。その様子にフィーベルも嬉しくなった。実の母親に会えたのは本当に嬉しかった。それに。


「素敵な方です。お美しくてお優しくて。……私のお母様だなんて、なんだか信じられません」

「そうか? よく似てると思うぞ。見た目の美しさも、意外と押しが強いところも」

「えっ」


 フィーベルはぎょっとする。


「思えばフィーベルは最初から押しが強かったな。俺は途中申し訳なさもあったが、どんな時も花嫁のふりをしてくれた。俺に向き合ってくれた。最初はクライヴ殿下の頼みだからだったと思うが」

「あ、あの」

「ん?」


 いつの間にかフィーベルは下を向く。

 顔を赤らめて、恥ずかしそうになっている。


「どうした?」

「その……き、綺麗だと思って下さってるんですか?」

「なにが」

「その……私の見た目を」

「…………」


 シェラルドはやっと気付き、自分の口元に手をやる。無意識だった。思ったことを言っただけだ。だが見た目は今まで褒めたことはないかもしれない。シェラルドにとってはいつも思っていたのだが、それを伝えるタイミングがなかった。


 話しながら自然に出たわけだが、こうも本人に照れられると、顔の赤みが移ってしまう。シェラルドはしばらく黙ってしまったのだが、嘘を言ってもしょうがない。今伝えればいい。


「最初から、思っていたぞ」

「えっ」

「綺麗だって。大人っぽいって、最初に言っただろ」

「それは……そうですが」

「エリノア殿下の誕生祭の時に着ていたドレスだって似合ってた」

「あ、ありがとうございます……」

「「…………」」


 しばらく互いに無言になる。


(……嬉しい)


 フィーベルは嬉しさのあまり顔が緩んでしまう。見目に関しては今まで他の人に褒められたことはある。あるが、シェラルドに褒められたことが嬉しいのだ。しばらく余韻に浸ってしまう。


 と、思い出すように伝える。


「私だって、最初から思っていました」

「な、なにが」

「シェラルド様がかっこいいことです!」

「はぁ?」


 今度はシェラルドが困惑する。


「かっこいいですし私より年上だから、エリノア殿下の誕生祭に出席するとき、見劣りしないか心配でした。ほら、可愛らしい方とか、麗しいお姉さま方もいらっしゃったじゃないですか。私じゃ、シェラルド様の隣に相応しくないんじゃないかって」

「なに馬鹿なこと言ってるんだ。あの時俺はフィーベルしか見てない」

「っ!」


 さも当然、と言わんばかりだった。

 しかもなんだか険しい顔になっている。


「大体途中であのドレスを着るなんて思ってもみなかった。他の男に見せられるか」

「…………」

「俺だけならいいが他にも色んな人がいた。どう隠そうか、そのことで頭がいっぱいだった」

「……そ、そうですか」


 フィーベルはまた頭を下にしてしまう。当時のことを今言われて、そう思っていたのだと改めて知る。嬉しい気持ちもあれば、若干気恥ずかしさもある。


 あのドレスは胸元が大きく開いていたこともあり、人前に出るのが恥ずかしいところもあった。思えばあの時のシェラルドは堂々としていた気がする。内心はこちらのことを気にしてくれていたようだ。


「……なんだか、懐かしいですね」

「……そうだな。だいぶ前の話だ」


 シェラルドも少しだけ照れ出した。あの時と今は関係が変わっている。だからこそ、なんだかくすぐったい気持ちになるのだろう。


「そういえば全てが終わった後に踊りましたよね。シェラルド様はお酒を飲みすぎて顔が真っ赤になって」

「飲みすぎたというより飲まされた」

「私は寝過ぎてました」

「ぶっ」


 思い出したのか笑われてしまう。

 フィーベルも同じように笑ってしまう。


「曲はなかったけど、一緒に踊れてあの時嬉しかったです」

「一生懸命練習してたな。アルトダストでも本当は一緒に踊りたかった」

「私もです。結局難しい状況になってしまって……」

「次は必ず踊ろう」

「はい」


 自然と次の約束をする。

 それができることがとても嬉しい。


 互いに朗らかな笑みを向ける。シェラルドは優しい眼差しで、愛おしげに見つめてくれた。最初は二人きりになって安心感があったのだが、改めてじっと目を合わせている。フィーベルは無意識に胸が高鳴っていた。


(……今、二人きりなんだ)


 今更だが、そのことに気付く。世界で一番好きな人と、共にいる。二人だけの時間だ。思えば互いに唇を重ね合わせた後、しばらく離れていた。ということを思い出し、さらに顔が熱くなってくる。別の意味で緊張してしまう。


「フィーベル?」

「えっ?」

「どうした。疲れたか」

「い、いいいえ」

「少し横になれ。俺は飲み物でももらってくる」


 フィーベルの様子を疲れだと思ったようで、シェラルドはその場を立とうとする。おそらく一人にさせて休ませようとでも思ってくれたのだろう。フィーベルは慌てた。その気遣いはありがたいが、別に一人になりたいわけではない。


「ま、待ってくださいっ!」


 立ち上がって歩こうとしたシェラルドの腕を引っ張る。すると相手は意外と強い力で引っ張られたことで「!?」と目を丸くする。身体がぐらついた。


「あっ」

「わっ」


 どすん、と音を立てながら、シェラルドがソファーに倒れ込む。と同時にフィーベルも横になってしまった。シェラルドに覆い被されるような形になり、顔の距離が近い。互いがはっとした。


「「…………」」


 フィーベルの行動により、あの夜のことを思い出すような形になる。しばらく互いが固まってしまう。だがシェラルドの方が動きが早かった。


「悪い。大丈夫か」


 すぐに身体を離し、手を差し出す。その顔に焦りの色は見えず、心配そうな表情になっていた。


(…………どうして)


 いつものフィーベルなら、ここで素直にありがとうと口にしていただろう。だが今は、沸々と不満の思いが出てしまう。せっかく二人きりなのに。二人きりで緊張しているのは自分だけなのだろうかと。こんなにも一緒にいて嬉しいのは、共にいたいと思っているのは自分だけなのかと。


 少しだけむっとしてしまう。


「フィーベル? どうし」


 た、と言われる前にフィーベルは自らシェラルドに抱きついた。相手は少しだけ身を引きそうになったが、それを許さない。力は負けない。


 前はあんなにも毎日のようにハグしていた。なのに今は、すごく久しぶりな気がする。シェラルドは固まったままで、背中に手を回してもくれない。それがフィーベルは少しだけ寂しく思った。


「な……どうした」

「どうしたじゃないです。私達恋人なのでしょう?」

「それは、そうだが」

「なんで触れてくれないんですか」

「っ!」

「ハグだって、前は毎日してたのに」


 さらにぎゅっ、と力を込める。


 するとやっとシェラルドの強張った身体が緩んだ気がする。そっと背中に包まれる感覚を得た。抱きしめ返してくれたのだ。ささやくように言われる。


「……あのな、確かに恋人にはなったが、俺は俺で考えてることが」

「なんですかそれは。前はあんなに積極的だったのに」

「ばっ」


 腕が緩み、今度は肩を掴まれた。あの時の夜のことを言っせいか、シェラルドは焦ったような顔になっている。フィーベルは先程と変わらずむっとしたままだ。そのまま指を相手の唇に当てる。


「!」

「……私の気持ち、分かりますか?」


 シェラルドは少しだけ顔を顰める。


「……ここにはお前の両親もいるんだぞ。できない」


(ええっ!?)


 思いのほか言われたことにショックを受けた。できないとは何がだろう。ハグか。そういえばいつもより力が弱かった気がする。それともキスだろうか。そんな。せっかく二人きりなのに。前はキスの長さと多さに慣れなかったが、それはそれで幸せだと感じていたのに。


 フィーベルはだいぶ落ち込んだ。落ち込んだことに自分でも驚いている。シェラルドと一緒にいられるだけで嬉しいと思っていたのに、恋人になった途端にこれだ。もしかしたら、欲張りになってしまったのかもしれない。


 しょぼん、と頭が下を向く。

 するとその頭にそっと触れたものがあった。


「……?」

「今は、これで許してくれ」


 今度は額に唇が落ちる。

 さっきは頭にしてくれたのだと分かった。


「…………口は?」

「……煽るな」

「一回。一回だけ」

「…………」

「前はたくさんしてくれたのに」

「……あの時は想いが通じて、高ぶってた。今は反省してる」

「でも私、嬉しかったんですよ」


 シェラルドは渋い顔をしている。

 何かに耐えているようにも見える。


 さすがにそんな顔をされたら分かる。決してしたくないわけではないのだと。そろそろ可哀想に思えてきたので、フィーベルは許してあげようとした。と、シェラルドの腰辺りに紙切れが落ちているのに気付く。


「これは?」


 思わず拾う。

 シェラルドも気付いた。


「さっきフィオ殿下に渡されたものだ。中身は見てないが」

「見てもいいですか?」

「ああ」


 中身を開いてみると。



『フィーベルの願いはなんでも叶えてあげてね。なんでもよ』



 文字の美しさや内容的におそらくフィオだろう。

 その下に文字がある。



『羽目を外しすぎないように、と言いたいが、フィオの言葉で察してくれ。俺からは何も言わない』



 おそらくこれはベルガモットからだ。

 その下にも文字がある。



『気にせずのんびり過ごせ』



 多分これはファイだろうか。


「「…………」」


 二人は思わず顔を見合わせる。


 フィーベルはきらきらとした期待の眼差しを向ける。一方シェラルドは苦虫を嚙み潰したような顔になっている。この期に及んでまだ決意できないらしい。


「シェラルド様」

「…………」

「……やっぱり、駄目ですか?」

「……止まらなくなる」

「いいです」

「簡単に言うな」

「いいんです。だって……シェラルド様のこと、好きだから」


 シェラルドは無言で片手で自分の顔を隠す。

 耳元が赤くなっているように見えた。


「……私、シェラルド様とキスしたいです」


 続けてフィーベルは口にしてしまう。

 小声にはなってしまったが。


 すると相手は大きい溜息をつく。


「俺の方がしたい」


 少しだけ吹っ切れていた様子だった。


 そっちの方がなんだかシェラルドらしい。最近のシェラルドは、フィーベルに対してかなり優しい。初対面の時の方がもっと思ったことをなんでも口にしていた気がする。フィーベルにとってシェラルドは、そういう人物だ。男らしくて、かっこいい。


 シェラルドは艶っぽく見つめてくる。


「息ができないくらいキスしたい」

「……!」


 なかなかの殺し文句だ。


 フィーベルは今までで一番顔が熱くなってしまう。心臓も先程から何度も鳴っている。だが。そう言われて嬉しいと感じている自分がいる。


 おそるおそる、口にする。


「したい、です」

「……」


 するとシェラルドはフィーベルの身体を引き寄せた。そのまま自分の腕にすっぽり閉じ込める。ぎゅっと抱きしめられ、フィーベルも抱きしめ返した。お互いに触れたところが温かい。ずっとこのままでいたくなる。


 と、シェラルドの腕が緩む。

 自分の額とフィーベルと額を合わせてきた。


 互いの瞳が映る。

 至近距離で、互いしか見えていない。


 しばらくそのままでいると、頬に手が添えられた。

 フィーベルは自然と目を閉じる。


 近付いた唇を、受け入れた。

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