35:ここから
フィーベルは固まっていた。
相手の言葉に思考が追いつかない。
(緊張……? 私に? どうして?)
触れるたびに、ということは、さっきの一回だけじゃなく、今までもそうだったということだろうか。全然気付かなかった。むしろそんな素振りすら見えなかった。シェラルドの言葉に疑問が残るばかりだが、それよりもフィーベルは自分が思ったより動揺してることに驚いた。
それを悟られたくなくて、早口で別の話題を出す。
「そ、そういえばどうして手のひらなんですか? 普通、手の甲じゃないかなって思ったんですが」
フィーベルは普段から様々な本を読むようにしている。外に出ることがあまりなかったこともあり、稽古をするか部屋にこもって本を読むか、どちらかしかなかったのだ。本の中には、王子が姫の手にキスをする描写が出てきたことがある。エリノアにもしたことがあると知り、全く同じなのだと分かったが、その場所は違っていた。
「え? あ、ああ」
急に話が変わったからだろう、一瞬ぽかんとした顔になったが、シェラルドは自分の手をフィーベルの目の前に持っていく。手の甲を差しながら「これは外側」。手のひらを見せながら「これは内側だろう?」と言われ、フィーベルは頷いた。
「外側は御身を守る意味合いがある。騎士が忠誠を誓う時は、手の甲に口付けることが多い。だが、御身だけでなく、内側。つまりは主君の心と共にあることを伝えるために、手のひらにするんだ」
シェラルドはまるで先生のように丁寧に説明してくれた。フィーベルは「へぇえ……!」と感嘆するような声を出す。式典や儀礼、その時々によって変わるようだが、重要な時ほど手のひらにするのだとか。場合によっては手の甲にすることもあるようだ。
と、ここでまた一つ疑問が残る。
「でも私にも手のひらですか……?」
特に重要な場面でもないし、ルカに示すには手の甲でもよかったのではと思った。だがその言葉にシェラルドは考えるような表情になる。フィーベルは慌てて言い直した。
「あ、でも、普段から手のひらが多いなら、咄嗟の場合もそうなりますよね」
へらっと笑いながらなんとか誤魔化す。我ながらそれらしい理由を伝えられたと思う。シェラルドは少し俯いていたが、しばらくしてから口を動かす。
「確かに、咄嗟だったが」
すっと目が合う。
まるでこちらの奥を覗き込むような瞳に、いつもとは違う、何かを感じる。フィーベルは一度心臓が鳴った。と同時に、これ以上はおそらく聞かない方が身のためであるという直感が働いた。今度はフィーベルが視線を下にしてしまう。
「二人ともお待たせ~。あら?」
二人は同時に声の主に目を動かした。するとルカはきょとんとした顔をしながら首を傾げる。
「もしかしてお邪魔だったかしら」
「いや」
「いいえ」
ほぼ同時に声を発し、二人は若干気まずくなった。その様子にルカは「?」と眉を寄せていた。
「ごちそうさまでした。あの、本当におごってもらってよかったんですか……?」
「ええ。こっちが一緒に食べましょうってお願いしたんだもの、気にしないで」
ルカはにこにこと笑う。
追加で注文をしてしまった身なので、フィーベルは自分の分は払うと伝えたのだが、いつの間にか会計が終わっていたのだ。丁重にお礼を言えば、ルカは楽しそうに笑いながらひらひらと手を振った。
食事が終わり、三人は店を出る。
そのまま城まで帰ろうとした。
と、フィーベルはリンゴが転がってくるのを見つけた。少し先に目を動かせば、女性が慌てて拾い集めている。どうやら市場で買ったようだが、持っていた紙袋に穴が開いたらしい。フィーベルはすぐに走って林檎を拾ってあげる。笑顔で女性に手渡していた。
シェラルドも手伝おうとしたが、フィーベルが全て拾ってしまったので、出る幕がなかった。彼女を見つめていると、隣にルカがやってくる。
「やっぱりいい子ね、彼女」
「……ああ」
「シルにも紹介はしなさいよ。会いたがっていたから。領主だとなかなかこっちにも来れないし」
「分かってる」
シャウルの領地はここより少し距離がある。会いにくるのは容易ではないだろう。父も母も、そして今回姉も来た。なら、兄を放置するわけにはいかない。
それにシャウルは、厳しいところはあるがルカよりは優しくて理解がある。騎士になりたいと幼い頃に伝えた時も、力強く背中を押してくれた存在だ。
「にしても本当に可愛いわねぇフィーベルさん。シラのためにキスまでしようとしてくれるなんて」
「あんまりあいつをからかうな」
思わず横目で睨んでしまう。
だがルカには一切ダメージはないらしい。
清々しいほどに微笑んでいる。
「私はあなたたちのことを思ってしたのよ?」
それがあれか。やるにしても他のやり方があるはずだ。と抗議しようとしたものの、これ以上何か言ってもおそらく効果はないだろう。シェラルドは諦めて黙った。するとルカは自分の顎に人差し指を置き「でも」と続けた。
「ちゃんと歩み寄る努力はしなさいよ。フィーベルさんばかりが頑張っているように見えるわ」
「…………」
元々歩み寄るつもりがなかった。と言えばおそらくルカは怒ると思うので口にはしない。フィーベルがクライヴの命令で花嫁になったように、シェラルドも命令で今の立場にいる。フィーベルのことを、花嫁だからというよりは、一人の女性として見守っている。花嫁だから、と負担をかけたくなかった。
フィーベルは正義感と責任感が強い。だからなんでもしようとしてくれるのだろう。シェラルドにとってそれはありがたいと同時に……申し訳ない気持ちになっていた。
「せめて好意は相手に示さないと」
「俺は別に、」
「あら、『好意』にも種類があるわ。シラだって家族のことは大好きでしょう? 好意くらいあるわよね?」
思わず顔をしかめる。わざとそういう表現を使ってきたに違いない。するとこちらの表情をどう思ったか、ルカもむっとしてきた。
「あのね、女性は好意があると分かったら自然と好きになってしまうものなのよ。好意がないならじゃあさようなら、ってなるんだから。フィーベルさんもそうじゃない。好きじゃないなんて言ったから、じゃあ他にいい人見つけなきゃ、みたいになったんでしょ?」
ぐ、と痛いところをつかれる。
「女性は愛されたい生き物なんだから。彼女の場合はそうじゃないかもしれないけど。……でも、少しでも気にかけてるって自覚させた方が、いいと思う。嬉しそうだったもの」
ルカの言葉を聞いた時、確かにフィーベルはどこか嬉しそうな様子だった。それを見て、そう思ってくれるのかと、少し胸にくるものがあった。本来なら自分が言うべき言葉だった。だがあの時は言えなかった。
……だから、今度こそ自分の口で伝えなくなったのかもしれない。触れるのは簡単ではないと。すると彼女は目を見開いて、戸惑っていた。あの後すぐに話題を変えられたし、やっぱり言わない方がよかったのでは、と少し後悔する。むしろ言ったことで、困らせたんじゃないかと。神妙な顔つきになったシェラルドに、ルカは息を吐く。
「彼女の場合はおそらく慣れてないのよ。クライヴ殿下から大事にはされているけど、ずっと人から隠されてきた。それは彼女自身の境遇もあるんだろうけど……愛をよく知らないんだわ。だからシラ。あなたが教えてあげなさい」
「別に俺ではなくても」
「馬鹿ね。友人や仲間からの愛もあるけど、男女の愛はまた別物なのよ? 一番近くにいるのに愛を与えなくてどうするの」
最後の言葉に、何度も瞬きしてしまう。
(愛を、与える?)
「今のあなたはフィーベルさんからもらってばかりじゃない。相手の為に何かしたいって気持ちは、立派な愛の一つよ。もらってると自覚してるならちゃんと返しなさい。相手が喜ぶこと、望むことをしてあげなさい。今のフィーベルさんが望んでいることは何? シラの役に立つことじゃないの?」
「…………」
「自分の花嫁になったことで迷惑をかけているんじゃないかとか、嫌なんじゃないのかとか、女々しいこと思ってるのかもしれないけど」
う、と傷を抉られるような気持ちになる。
ルカの言葉はいちいち棘が鋭い。
「でも、シラの役に立てたらフィーベルさん、すごく嬉しいと思うわ。今までもそうじゃなかったの?」
確かに今までも、花嫁として何かしたいと言ってきた。最初にハグの提案をしてきた時はガラクを恨んだが、受け入れたら嬉しそうに微笑んでくれた。それは分かっていたのだが、このままでいいのか、と何度も考えた。今までのフィーベルの言動を思うと、全部こちらの為だった。自分のことを考えない言動の数々に、もっと自分を大切にしてほしいと願った。
だが、それこそが彼女の願いであるのなら――。
「すみません、お待たせしました!」
フィーベルが息を切らしながらやってくる。手には林檎を持っていた。拾ったお礼にもらったようだ。連れがいると伝えていたようで、人数分もらったらしい。シェラルドとルカも一個ずつもらった。
「じゃあそろそろ私は帰るわね。子供たちも待ってるし」
「あ、お時間大丈夫ですか?」
「ええ、早いくらいよ。今日は旦那が見てくれているし大丈夫」
ルカは個人で仕事を請け負っており、働く時間や休みも自分で決めることができる。幅広く色んな分野で仕事をしているため休みを取ること自体難しいことはあるが、少しでも空いた時間があればそれは全て子供たちに時間を費やしているようだ。
「私は仕事が大好きだけど、なにより大事なのは家族なの。だから家族に一番時間を使いたいし、何かあったら仕事なんて放りだして家族の元へ向かうわ」
「素敵です」
フィーベルが優しげな表情になる。
家族がいない分、そういった話に憧れがあるのかもしれない。シェラルドと母があまり仲が良くないことも気にかけてくれていた。自分のことではないのに相手のことを思えるのは、フィーベルの美点でもある。
「子供は可愛いわよ。シラとフィーベルさんの子供も見てみたいわね」
「「え」」
「なんてね」
にこっと笑って冗談だと伝える。
あまりにも心臓に悪い冗談だ。
「そうだ、最後にいいことを教えてあげるわ。指輪の光だけど、真っ赤になったら一番相性がいいってことだから。じゃあまたね」
言いたいことだけ言い終われば、ルカは軽快な足取りで去ってしまう。背中を眺めながら二人はしばし唖然としたが、しばらくしてからフィーベルは笑い出した。シェラルドもつられて笑みをこぼしてしまう。
「だいぶ強烈だっただろ」
姉ではあるもののシェラルドは容赦なく言う。するとフィーベルは少しだけ苦笑しつつ、「確かにあまり見たことがないタイプではありました」と正直な感想をくれた。
「でも、私は今まで色んな人と深く接したことがないので……ルカ様もですが、皆さんと色々お話できるのは嬉しかったりします」
正式に魔法兵団として働くようになったことで、クライヴの元にいる時よりも人と関わる機会が増えた。だからフィーベルにとっては、一人一人との出会いがおそらく新鮮で、心に残ることなのだ。しみじみとそう言う姿に、シェラルドはルカと話したことを思い出す。
歩み寄る努力に。愛を、与える。
今なら、できるだろうか。
「フィーベル」
名前を呼べば、彼女はこちらを見上げた。
「手を繋がないか」
「……へ?」
「ルカが言っただろ。少しは夫婦らしい姿を見せろと」
「あ……はい」
おずおずと、林檎を持っていない方の手を差し出す。それをシェラルドはしっかり握った。少し風も出てきたからだろうか、手が冷たい。少しでも温まるように包み込んでいると「あの」と言われる。
「? どうした」
「今も……緊張してるんですか?」
ぎこちなく聞かれ、シェラルドは目を丸くする。
それを聞ける辺り、フィーベルのすごいところなのかもしれない。普通は避けそうであるのに。だが聞かれたのならきちんと答えたい。シェラルドは「……ああ」と答える。緊張していたせいで、どことなくぶっきらぼうな言い方になったかもしれない。
「そ、そうですか」
「「…………」」
互いに黙ってしまう。
この後何を言えば、と迷ったが、シェラルドはひらめく。この機会に、聞いてみたいことがあった。
「俺に触れられることは、嫌じゃないか?」
少し俯きかけていたが、ぱっとフィーベルは顔を上げる。
「嫌じゃないです!」
「そ、そうか」
食い気味で言われた。
そこまで全力で答えなくていいのだが。
「嫌だったら、ちゃんと言ってくれ。無理はさせたくない」
「シェラルド様にされて嫌なことなんて、一度もありません」
「え……でもあの時は怒ったよな……?」
「あの時」というのは押し倒してしまった時のことだ。
あまり思い出したくない黒歴史になりそうなのだが、それでもあの時のフィーベルは珍しく怒った。意味とかそんなもの知るかと言わんばかりに。……今なら分かる。誰だって怒るだろう。それに、確かにそこまで追求することじゃなかったと、シェラルドはあの時の自分を今でもぶん殴りたくなる。
するとフィーベルが慌てて首を振る。
「あれは、あれは驚いただけです。それに、シェラルド様の言う通り、自衛することはできたはずでした」
普通の女性であれば拘束を解くのは難しい。だがフィーベルなら、おそらく相手を痛めつけるのも簡単なのではと思う。クライヴからも、城の警備をしていた時いい働きをしてくれたと聞いた。フィーベル一人で守っていたのだ。ということは、男性に対してもそれなりの対処できるのだろう。はっきりこの目で見たことはないので、少し手合わせをしてみたいと思ったこともある。
シェラルドはもう一つ聞いてみたいことがあった。
「……怖かったか?」
理由はあったとしても、するべきではなかった、と思う。それほど反省している。女性に対してしてはいけない行為だ。一歩間違えればトラウマになる可能性だってあった。あの時の自分は酔っていたのもあるが、それでも許されることではない。
すると相手はあっさり言い放った。
「いいえ。見とれました」
「……は?」
「やっぱり男性なんだなって。かっこいいって」
「…………いや、ちょっと違うと思う」
「え。何がですか?」
彼女からしたら普通に答えただけなのだろう。嫌がる様子もなく、もう随分前の出来事のように懐かしんでいた。シェラルドはそれを見て小さく笑ってしまう。
――本当に彼女といると、どうにも調子がくるう。
そう思いながらも、行動に移す。
シェラルドは繋いでいた手を引っ張った。
フィーベルはバランスを崩しそうになったが、それをシェラルドは受け止めた。そのまますっぽりと自分の身体に包ませる。相手は泡を食うように耳元で呟く。
「あ、あの。人が見てますよ」
そういえばここは城下の通り道で、周りには多くの人がいた。買い物をする者、仕事から帰宅する者、これから食事を楽しむ者と、それぞれだ。大通りでもあるため、知り合いが歩いている可能性もある。だがシェラルドは、そんなことを忘れてフィーベルを抱きしめていた。
「いい。このままで」
「でも……」
「フィーベルが嫌なら離す」
「嫌じゃ、ないです」
さらに小声になっていた。ちょっと声が震えているように感じ、そっと顔を覗き見る。すると今日見た中で一番顔が赤くなっていた。それでもぎゅっと制服の裾を掴んでくれている。離さない、と示しているように。
その可愛げのある姿に、口元が緩む。
「フィーベル」
「はい」
「これからは遠慮しない」
「? はい。私も、遠慮しません」
迷いのない声色だった。
ちゃんと意味が分かっているのか? と物申したくなったが、ルカから自分の思うままに行動しろ、と言われたからだろう。そうか、と呟けば、はい、とはっきり返してくれる。
これからはおそらく、お互いに今までとは違った関係性になる。なんとなくだが、シェラルドはそう思った。そうなることとに驚く自分と、どこか落ち着いている自分がいる。まるでそうなることをなんとなく予想していたかのように。
だが今は考えるより感じていたい。この温もりを感じたままでいたい。……が、さすがに今はずっとこのままの格好ではいられない。ゆっくり身体を離した後、帰るか、と言えば彼女は頷いた。頬にまだ赤みを残していて、シェラルドは少しほくそ笑んでしまう。
二人は再度手を繋ぎ直す。思ったより人に見られていたようで、複数の目がこちらを向いていたが、シェラルドもフィーベルも対して気にしていなかった。ただ繋がれている手が温かく、時に熱く、だけどそれが心地よかった。
二人の指輪が淡く光る。
その色は、淡い桃色に変化した。
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