27:熱に浮かされ体温を

「……全く。こんな大きいものよく隠してたねぇ」


 そう言ったのは白髪の長い髪をお団子にまとめている女医だ。てきぱきとフィーベルの服を脱がせてここに常備されている寝巻きに着替えさせる。


 ここは夜の街にある一つの診療所。


 娼婦が多いこの場所では診療所が何件もあるらしい。女医はかなりありがたい存在らしく、多くの娼婦がお世話になっているようだ。病気のみならず悩みを聞いてあげたりもしているらしい。


 衝立の向かいでアンネは処置が終わるのを待っていた。フィーベルが倒れたことを通信で知り、慌ててここまで来たのだ。フィーベルは怪我をすることはあっても、病気とは無縁だった。だから驚いたし、同時に不安だった。女医から命に別状はない、と聞いて、やっと息を吐くことができた。


「で、旦那が来てるんだって?」


 その言葉にどきっとする。


 この診療所を見つけたのはヴィラだ。ヴィラが状況を説明し、女医は「すぐに連れておいで」とフィーベルを受け入れてくれた。衣擦れの音も止んだため、着替えも終わったのだろう。女医からの言葉に、アンネは苦い顔になる。なんと答えればいいのか迷ったのだ。


「ちょっと、聞いてるのかい?」


 しびれを切らしたのか女医が出てくる。


 名前はロマと言うらしい。顔には皺が多少あるものの、若い頃はおそらくかなり綺麗だったのだろう。化粧は軽めだが、赤い口紅がよく似合っている。こちらを見ながら眉を寄せていた。


「いえ、あの」

「旦那がいるなら話は早いよ。身体が冷え切ってる。毛布でくるませてるが人の肌の方が確実だ。すぐに彼女を温めてあげな」

「ま、待って下さいっ!」


 慌ててアンネは止める。


 確かに普通の夫婦なら、いや恋人以上の関係ならばそれでいいかもしれない。うっかりヴィラが「旦那がいる」なんてことを言ったせいでこんなことになっている。だが待ってくれ。あの二人はそれ以上の関係にはなっていない。


 ロマから「旦那がいるならここに呼びな」と言ってきた時点でアンネの中で危険信号が鳴っていた。実はフィーベルが花嫁のフリをしている、と知っているのは、あの場ではシェラルドとアンネとヨヅカだけだ。それにシェラルドだってさすがにそれはできないだろう。


 するとロマは眉を寄せる。

 「ひょっとして」と小声になった。


「まだ夫婦の営みをしてないのかい?」

「……その、二人はまだ出会って間もなくて」

「それなのに結婚したのかい?」

「……色々、あるんです」


 それ以上どう説明していいのか分からない。どうにかフォローしようとアンネがここまで来たのはいいものの、これ以上はどうしたらいいだろう。するとロマは息を吐いて腕を組んだ。


「そんな初心な夫婦が今どきいるんだねぇ」

「あの二人は特殊で……」


 あっけらかんと話すのはここが娼婦館の近くにある診療所だからだろうか。アンネは少しだけ頭が痛くなる。言い訳がだんだん苦しくなってきた。


 だが意外にも、ロマはふっと笑う。


「いいじゃないかい。夫婦だからって必ずしも身体を合わせる必要なんかない。大体人間は肉欲に走り過ぎなんだよ。そんなものなくても、幸せになれる方法はいくらでもあるっていうのにね」


 目を丸くして相手を見てしまう。

 アイスグレーの瞳が綺麗だった。


「ここで働いているとね、女の子達の境遇を嘆いてしまうのさ。身体目当てに来る奴もいる。……でもね、人というのは、本来は心で通い合うものさ。身体を合わせないと不安に感じるのは本当の愛じゃない」

「…………」


 ロマは長いことここで女医をしているようだ。おそらく、たくさんの少女や女性たちを見てきたのだろう。だからこそ出てくる言葉なのかもしれない。


 すると彼女はより笑みを深くした。


「余計なことを言ったね。このままでも大丈夫だろう。必要な治療はしてる。これから熱が上がりそうだから、世話はしてもらうよ。それくらいなら旦那にもできるよね?」

「は、はい」

「じゃあ呼んでくれ」


 ロマに言われ、シェラルドを連れてくる。


 彼は神妙な顔つきになってきた。動きも少し固い。フィーベルのことが心配だからだろうか。それともここに呼び出されたことに緊張しているのだろうか。


「あんたがこの子の旦那かい?」

「あ、ああ……」


 旦那呼びが慣れないのだろう。

 どこかぎこちない。


 ロマは寝台に眠るフィーベルの元へ案内する。先ほどより呼吸は落ち着いていた。プラチナの髪は下されており、真っ白なネグリジェ姿になっていた。


 首元は鎖骨が少しだけ見えるほど開いている。胸元には細いリボン、襟元と手首はフリル。腕の部分はシースルーで、薄っすら肌の色が見えた。シンプルではありながらも見るものをどきっとさせる姿だ。診療所の寝巻きのはずなのにこの豪華さ。聞けばこれでも地味らしい。薄いんじゃないかと心配したが、機能性には優れているとのこと。さすが夜の街。


 ロマはフィーベルの肩まで毛布をかける。


「よく寝てるよ。水を浴びたとか圧迫があったとか、それだけのせいじゃないね。この子、最近よく眠れてない」

「え……」

「化粧で上手く隠しているが、目の下の隈が濃い。魔法兵だっけ? 仕事で身体を酷使していたようだね」

「…………」


 シェラルドは険しい表情になっていた。


 アンネはそれを見て言いたくなった。今回の任務に向け、フィーベルは入念に準備をしていた。だから睡眠時間も削っていた。寝たほうがいいと伝えていたものの、自分は元気だと笑って聞かなかった。


 シェラルドは責任感が強い。おそらくフィーベルのことをよく見ていなかったと自分を責めるんじゃないかと思った。違う。責めるならばこちら側に問題がある。心配をかけないよう、あえてシェラルドに会わせないようにしていたのだから。


 一切目を逸らさないシェラルドに、ロマが質問した。


「結婚して間もないそうだね」

「……ああ」

「でも夫婦になったのなら、ちゃんと見てあげないといけないよ」

「……ああ」

「あんた、この子のことは好きかい?」

「……あ、は?」


 流れのままに言いそうになったが、唖然としてロマを見る。

 すると彼女は首を傾げた。


「好きじゃないのに結婚したのかい?」

「……いや、その」


 シェラルドはちらっとアンネを見る。


 なぜこちらを見る。アンネは訝しげな目で見返してしまう。すると彼は居心地が悪そうに視線を逸らした。ロマは二人を交互に見ながら聞く。


「どっちでもいいけど、心配はしてるんだよね?」

「もちろん」


 これには即答だった。

 するとロマはふっと笑う。


「ならいいよ。彼女の側についてやりな。タオルと水も置いておく。世話は任せたよ。私も暇じゃないからね」


 緊急ということでロマは最優先で治療してくれた。

 そしてわざわざ個室にもしてくれた。


「忙しい中、助かりました。感謝します」


 シェラルドは頭を深く下げる。

 ロマはひらひらと手を振りながら言った。


「これが私の仕事だからね。あんたに度胸があるなら、その子を自分の肌で温めてあげればいいさ」

「え」


 シェラルドの顔が引きつった。


 アンネは自分の顔に手を当てたくなった。それを本人に聞かせないようにフォローしたのに。だがロマは楽しそうに笑っていた。分かってて言ったのだろう。




 シェラルドはフィーベルを先ほどから見つめ続けていた。


「私は外で待ってます」

「え、いや」


 慌てて止めようとしてくる。


「アンネ殿がいた方がいいだろう」


 思わず苦笑する。


「そんなことないですよ。シェラルド様がいてくれたら、きっとフィーベル様は安心します」

「だが、」


 シェラルドは迷うような素振りを見せた。そして真面目な声色で伝えてくる。


「俺が、何かするかもしれないだろう」

「何かするんですか?」

「……いや、そういうつもりはないが」


 じゃあなんで言った。

 思わず心の中でツッコミをしてしまう。


 なんとなく気持ちが分からなくはない。ちゃんと世話ができるのか、とか、フィーベルからすれば同性のアンネといた方がいいんじゃないか、とか、おそらく色々と考えてしまったのだろう。


 だが、アンネはふっと笑う。


 真っ先にフィーベルを運んだのは彼だ。エダンから連絡を受けて飛ぶ勢いで来たと聞く。先程も心配していると即答していたし、ちょっと心の準備ができていないだけだろう。


「何かあったら呼んで下さい。では」

「え、アンネ殿」


 アンネはさっさと部屋を出てしまう。

 シェラルドは取り残されてしまった。







「…………」


 静かだった。


 個室なのもあるが、フィーベルの呼吸の音しか聞こえない。シェラルドは少しだけ息をするのを忘れてしまいそうになる。よく眠っているからこそ、物音で起こしたくない。そう考えるといつの間にか止めてしまうのだ。自分でもちょっと気にし過ぎだと思った。


 ロマからは、疲れからかフィーベルはぐっすり寝ていると聞いた。確かに会話をしていた時、起きなかった。だから息をするくらいで起きたりはしないだろう。一度深い呼吸をする。思っていたより息を止めていた。


 熱があるからか、フィーベルの頬が火照っている。今額の上に冷えたタオルを置いているが、頃合いを見ては頻繁に取り替えた方がいいだろう。


 シェラルドは重々しい表情なっていた。客観的に見たら怖い顔になっているかもしれない。だけどここには二人しかいない。感情を表情に出しても問題ない。


 こんな時に、ただ傍にいることしかできない。

 それが歯がゆく思った。


 いや、それだけじゃない。ちゃんとフィーベルのことを見ていなかった。彼女が無茶をするのはなんとなく分かっていたのに。ヴィラに預けていれば、アンネが傍にいるなら大丈夫だと思っていた。自分がいなくても、問題ないと思っていた。花嫁だからといって、本物ではない。だったら傍にいる必要もない。フィーベルを縛りつける理由もない。


 頭では分かっているのに、分かっていたのに、いざこうして眠る彼女を目の前にすると、胸が痛くなる。彼女は強い。一人でも平気だ。だから安心しきっていた。……本当は、片時も離れてはいけなかったのかもしれない。ロマから旦那呼びをされたが、そう呼ばれるほどのことは何もしていない。


 するとふっと、目が開く。


「! フィーベル」


 熟れたラズベリーの如く赤い瞳がこちらを捉える。


「……シェラルド、様」


 声が掠れていた。


 すぐに水の入ったコップを渡そうとする。起き上がろうとしたので、慌てて背中に手を添えた。眠そうな目のままフィーベルは受け取りつつ、ゆっくりゆっくり喉を潤した。


「……大丈夫か」


 こくり、と頷かれる。

 熱からか、だいぶぼうっとしていた。


「寝てろ」


 肩に手を置き、横になるように促す。

 だがフィーベルは予想外の言葉を出す。


「……は」

「?」

「ハグ、してません」


 シェラルドは目を丸くする。


 おそらく他に色々言いたいことはあるだろう。自分の状態とか、追っていた男の詳細とか、なぜシェラルドがここにいるのか。だがそれよりも先に出てきた。フィーベルが向けた視線を見れば、窓の外はだいぶ暗くなっている。おまけに二人きり。昼間に会った時も、ずっとハグができていなかったことも気にしていた。だからか。


 シェラルドは苦笑しながら首を振る。


「そんなことはいい。休んでくれ」

「でも。私は、シェラルド様の花嫁だから」

「…………」


 こんな時くらい自分のことを考えてほしかった。


 だが、これがフィーベルなのかもしれない。自分のことよりも、相手のことを優先する。従順なようで、大胆。大体これに振り回される。だが今は、その健気な様子に、別の意味で胸が痛くなった。


「……そうだな」


 思わず口をつく。

 すると相手は少しだけ口元を緩めた。


 シェラルドは「ちょっと待ってくれ」と言った後、自分の制服に手をかける。それをフィーベルは不思議そうに見ていた。シェラルドは制服の上着を脱ぎ、座っていた椅子の背もたれにかけた。制服の下はシャツだ。魔法兵の制服も同じなので、フィーベルも見たことがあるだろう。


 座り直したシェラルドは、フィーベルに身体を向ける。毛布を腹部辺りに置いている白いネグリジェ姿に少し緊張した面持ちになりながら、そっと手を伸ばす。


 まず彼女の髪に触れた。


 柔らかくて艶のある髪に何度か触れ、遊ぶように手を動かす。そしてそっと横髪を耳にかけてあげた。今度は頬に触れる。柔らかくて、やはり熱い。シェラルドとフィーベルは見つめ合った。フィーベルは熱で頭があまり働いていないのだろう。ただぼうっとしていた。


 だがシェラルドは、引き込まれていた。


 こちらを見つめる瞳が半分閉じそうになりながらも、それでも真っ直ぐに向けられている。髪と同じプラチナの色の睫毛は長い。それを初めて知る。下ろしている髪を見るのも初めてかもしれない。プラチナの髪がきらきらと光っていた。まるで、月の女神。


「……シェラルド様?」


 フィーベルの声にはっとする。

 ずっと見つめていた状態になっていた。


 慌ててそっと、彼女を引き寄せる。

 ぴったりと身体を合わせた。


 すると、思ったより互いの肌が感じられ、少しだけ動揺してしまう。フィーベルは薄い寝間着であるし、シェラルドもシャツ姿だ。いつもなら制服のまま抱きしめるのだが、フィーベルはこの状態だ。制服だと触れたときに固いんじゃないかと思い、わざわざ脱いだ。身体の柔らかさが直に感じられ、少し身体を離そうとする。


 が、フィーベルがシェラルドの首の後ろで腕を絡ませた。


「!」

「あったかい……」


 呟くような声が聞こえた。


 フィーベルの身体は冷えていた。顔は熱いのに、身体は氷のように冷たい。だから思わず漏れた言葉なのかもしれない。それを聞いて腕に力が入る。フィーベルが痛いと感じないように気を付けながら、隙間なく密着させる。少しでも熱くなった自分の体温が、相手に伝わればいいと思いながら。


 二人はずっと抱きしめ合った。

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