26:風と霧
どうやら通行人の女性が驚いた声を上げたようだ。
腰が抜けたのか、地面に座っている。
彼女の目線の先には俊敏に動き、こちらに向かってくる
通行人たちは意図しない動きを見せるそれに驚き、恐怖を抱き、声を荒げていた。逃げる者、好奇な目で見つめている者、何事かと店からわざわざ出て見にくる者もいる。
これは……非常にまずい。
シェラルドを含め三人は同じことを思っていた。
するとタイミングよく通信が鳴る。
『こちらエダン。奴は街の中を走り抜けるつもりだ』
「このままじゃ危ないですね」
ヨヅカが真面目な声色を出す。
相手の勢いが衰えない。人がいてもお構いなしなのだろう。通行人たちが避けているからまだいいものの、ぶつかるのも時間の問題だ。そして、怪我をするのはおそらくこちら側。
シェラルドはすぐエダンに伝える。
「人の誘導はこちらで行います」
『頼んだ』
通信が切れると、すぐに大声を出す。
「ここは危険です! 速やかに避難をお願いします! 店の人は外に出ないで!」
「両端に避けて下さい。店に入れるなら入って。左側にいる方は、こちらから逃げてください!」
ヨヅカも加勢し、状況を手短に伝える。すると通行人たちはこちらが騎士であることに気付く。夜なので藍色の制服はおそらく見えにくいだろう。だが灯りはあるため分かったのか、慌てて指示に従う。
人がまばらに散り出したが、姿の見えない風は真っ直ぐこちらに向かったまま。動きがまるで揺れているようにも見える。
と、彼の前に青緑色の光がふわりと飛んでいた。
(なんだ?)
よく見ればそれは蝶のような形をしている。どうやらその蝶の動きに合わせて彼は動いているようだ。まるで誘導されているかのようである。
少しだけ目を奪われている間に、思ったよりも早く彼はこちらを通り過ぎる。目で見えるよりも早いその瞬間移動は、姿さえも一切見せない速さだ。まるで突風が過ぎ去ったかのように感じた。
「待てー!」
勢いのある声に再度首を動かす。
すると同じ道を、今度は箒に乗ったヴィラが追いかけてきた。そしてその後ろには、見覚えのある長いプラチナの髪を持つ人物。シェラルドは思わず叫んでいた。
「フィーベル!」
「! シェラルド様!」
相手も気付いて名前を呼んでくれたが、あっという間に行ってしまう。むしろあの瞬間よくこちらの声が聞こえたものだ。姿も一瞬しか見えなかったが、燕尾服を着ていたのは分かった。ドレス姿じゃないだけほっとする。
「あ、ほんとに男装だ」
ヨヅカも分かったのか、遠くを見るように手を水平にして額の前に置く。
「なかなかにかっこよかったぞ」
ガラクはフィーベルの男装姿を見ているのだろう。腕を組みながら口元を緩めている。ドレス姿だけじゃなく燕尾服も似合うのか。後で見たい衝動に駆られた。
が、今はそれどころじゃない。
誘導できたのは今ここにいる通行人だけだ。まだ人は多くいる。それもそのはず。この時間は一番人通りが多い。ここら一帯を一気にまとめないと、被害が拡大するだろう。どうするか。考えを巡らせていると、すぐにガラクは通信を使った。
「こちらガラク。通行人たちを安全な場所へ誘導するのを手伝ってくれ」
すると通信から複数の「了解!」の声が聞こえてきた。シェラルドは思わずガラクを見る。子供のようないたずらっぽい目をしていた。
「こんなこともあろうかと、他の騎士と魔法兵にも頼んでおいた」
思わず眉を寄せる。
「この任務は少人数の方がいいのでは?」
最初にサポート役を頼んできたのはアンダルシアだ。今までも魔法兵と協力して仕事をしたことがある。ヴィラ隊がいい例だ。サポートを任されるのはそれなりに重要な仕事の場合が多い。そうでなければわざわざサポートはいらない。
そして、人数が多ければ多いほどいいわけでもない。大勢の者が動くとそれなりに仕事が捗りはするが、知らなくていいことまで広まる可能性がある。アンダルシアからもくれぐれも内密に、と言われていた。それなのになぜ。
シェラルドが訝しげに見たからだろう。
相手は苦笑する。
「心配せんでも、普段見回りや警備についている騎士と魔法兵を使っただけだ。魔法具もこの機会に使ってもらおうと思って渡しておいた。『何かあれば頼むな』って言えばあいつらはしっかり仕事をしてくれる。してもらうのも誘導だけだ。詳しい話をする必要もない」
「……後で説明を求められたらどうするんですか」
「それは上手くかわせ。お前ならできるだろう?」
鼻で笑われながら言われる。
シェラルドは若干むっとした。
ガラクの機敏な判断、行動力はさすが隊長クラス。今までの経験や実績の賜物だ。無駄話を大きい声でして細かい仕事は人に押し付ける、と思えば、案外人を見ている。おそらくその騎士と魔法兵も普段から会話をしているのだろう。だから急な頼みも引き受けてくれるのだ。
仕事自体は負けていないと思っている。それなりにこなしているし、こちらも隊長という役割を与えられている。他の隊長より歳は若い方だが、それでも他の隊長に追いつけるように精進しているつもりだ。が、やはりこういうところで差がある。仲間との連携を取るために、日頃から色んな人と接することをガラクはしている。
シェラルドは皮肉交じりに伝えた。
「ガラク殿、ほうれんそうを知ってますか」
「ああ知ってるぞ。緑色の美味しい野菜だな」
ヨヅカが小さく噴き出した。
「…………」
半眼で見るが相手は大きい声で笑うだけだ。
ガラクは割と突拍子のないことをする。せめて「報告・連絡・相談」はしてほしいという意味だったのだが。まさかベタなボケを返されるとは思っていなかった。
シェラルドは息を吐く。
「誘導できる者がいるなら、俺はここを片付けます」
彼が通り過ぎた後、風が起こったからか街が散乱していた。ごみが転がり、ベンチも倒れている。お店でも被害があったのか、数人が店を囲って何やら話している。すべき仕事はぱっと目を向けるだけでいくつもある。
「俺は話を聞いてくるね」
ヨヅカは小走りで店の者に話を聞きに行く。
シェラルドも動こうとした。するとガラクに呼ばれる。
「なんですか」
「今フィーベルは男装だ」
「? はい」
「つまり」
「つまり?」
「いつもより密着してハグができるな」
ぐっと親指を立ててきめ顔をしてくる。
「は?」
意味が分からずそう返してしまう。
するとなぜか笑われた。そして。
「お前のそういう実直なところが好ましいな」
と言われる。急になんだ。
「ガラク殿に好かれてもそんなに嬉しくありません」
「ほぉ? ならフィーベルはどうだ?」
「さっさと動きますよ」
いつまでも何か言ってくる上官を無視し、シェラルドは走り出す。ちなみに先程の問いに対しては、誰に聞かれても同じ態度になっていただろう。
フィーベルはヴィラの背中に掴まりながら箒に乗っていた。
霧で追っていたところヴィラと合流したのだ。箒に乗るのは初めてなのだが、かなり早い。横髪も揺れ、風の勢いに目を開けるのも一苦労だ。それでもなんとかしがみつき、前を見る。ルミエールは最大速度で移動していた。あれだけの傷を負っても動ける体力は、一体どうなっているのだろう。
途中シェラルドに会ったが、姿までは分からなかった。それでも声だけは聞こえた。なぜここに、という思いと、ここにいることがバレて後で叱られないか少し気になった。するとヴィラも気付いたのか「ごめん」と短く謝ってくる。フィーベルはすぐに苦笑しながら「いいえ」と伝えた。
「あいつ、なかなか速いね。こっちもそれなりに出してるんだけど」
どうやら風の魔法を使っているらしい。
普通の箒ではこんなにも速くないようだ。
通りで。移動している間、ずっと顔が揺れて景色を楽しむ余裕もなかった(そんなことしてる場合でもないが)。これなら霧の姿の方が楽なのでは、と思っていただけに、それを聞いて納得する。
「どうしましょう。私の魔法で視界を遮りましょうか」
「いや、それじゃ逆に危ない。人にぶつかる可能性も出てくる」
窓から逃げたルミエールは進行方向を街へと向けた。それを狙って街の中に入ったのかもしれない。フィーベルは唇を噛みしめる。自分の魔法が役に立たないのが少し悔しい。
「動きさえ止められたら……」
ヴィラが呟くような声を出す。
それを聞いてフィーベルははっとした。
「もしかしたら」
「?」
「ヴィラさん、この方法はどうですか」
説明すると彼女はぱっと顔を明るくする。
そしてしっかり頷いた。
ルミエールは意識が朦朧とする中、瞬間移動を続けていた。イズミから食らった氷の矢は想像以上に身体を蝕み、血が止まらない。おそらく移動しながら血痕は滴り落ちている。
今彼が移動しているのは、目の前の蝶の形をした光を追っているからだ。……いや、追っているのか、それとも誘導されているのか、今の彼には分からなかった。
すると背後からよく通る声が二つ聞こえてきた。
「
「
はっとして振り返れば、大きい風の塊がこちらに向かってくる。建物一つを破壊できそうなほどに大きく、音も低く唸っている。そしてその傍には、まるで風を丸く包むように霧が存在していた。
ルミエールはさらに加速し、その場を逃げようとする。 が、風と霧が迫り、自分の身体に触れた。その瞬間、まるで繭のように包まれてしまう。逃げようとしても、どうなっているのか、逃げることができない。風があるからだろうか。まるで丸い空間に支配されたようだ。
息が、できない。
思わず足を止めてしまう。
ヴィラとフィーベルは箒から降り、その様子を見守る。ヴィラは上手くいったからか、「よし!」と短く声を上げる。フィーベルはまだ油断ならないと、じっとルミエールを見ていた。
以前シェラルドと初めて会った時に放った霧が、繭のようになった。ということは、繭のように閉じ込めることもできるのでは、考えたのだ。ただ繭の形にするだけじゃおそらく逃げられるだろう。だがその中にヴィラの風を入れてしまえば、身動きが取れにくい。おそらく、呼吸さえも困難だ。
すると箒に乗ったエダンとイズミが追い付いてきた。二人も箒から素早く降りて、息を乱さずに魔法を唱える。
「
「
イズミの目の前に拳くらいの円がいくつも現れる。淡い水色で、波のようにゆらゆら揺れていた。それにエダンが出した金色の粉が付着する。イズミは素早く手を動かす。金色に光る粉が含まれた水の塊が、ルミエールに向かった。
水の塊がゆっくり繭の中に入り、身動きの取れないルミエールに触れる。その瞬間、彼は膝から崩れ落ち、倒れた。フィーベルとヴィラは慌てて魔法を解き、近付く。
ルミエールの目は閉じられていた。
かすかに血生臭い。イズミの水の魔法にヴィラの風の魔法も浴びている。湿った身体を見て少しだけ同情したくなるが、それでも大人しくしなかった彼にも非はある。早く処置をした上で話を聞かなければ。そう思って彼を運ぼうとすると、いつの間にか目の前に長い青銀色の髪を持つ人物が立っていた。
音もなく現れたことに、びくつく。
「アンダルシア殿!」
ヴィラが驚いていると、相手は小さく微笑んだ。
「みんなご苦労。彼はこちらで運ぼう」
「しかし、」
「それぞれの働きは見ていた。このことは殿下にも報告する。それと」
ちらっとこちらを見られた。
女性のように美しい風貌に少しどきっとする。
よく見ればかなり歳が上のようだ。騎士も魔法兵も短髪の人が多い。こんなにも長い髪がよく似合う男性がいるのかと、思わず感心してしまう。
「君がフィーベル?」
「は、はい」
「私はアンダルシア。ヴィラと同じ隊長の一人だ。……顔色が悪いが大丈夫か?」
「え?」
予想しない言葉に呆けた声が出てしまう。
すると相手の顔が少し歪んだ。
「気付いてなかったか。全身濡れているし手も震えている。早く着替えた方がいい」
「わ、ほんとだフィーベルさん。顔が青白いよっ!」
ヴィラが慌てた様子で頬に触れてくる。
手が温かい。つまりそれは、身体が冷えていることを証明している。そういえば移動中、頭痛と胸の苦しみを身体が訴えていた気がする。だがそれに気付かなかった。いや、そんなことを考えている場合じゃない、と自分で判断してしまったのかもしれない。
ヴィラの温かさのおかげか、瞼が重くなる。
そのまま意識を手放した。
「フィーベルさんっ!」
倒れたフィーベルを皆が囲む。エダンはすぐに通信でシェラルドに連絡した。ヴィラはおろおろしながら持っているハンカチでフィーベルの顔を拭く。髪がしっとりと濡れている。燕尾服も多くの水分を吸っている。重く、身体にも負担がかかっていたことだろう。
合流したのが暗い場所で彼女の様子など見ていなかった。しかも全速力で箒を飛ばしたため、身体が濡れていることにも気付かなかった。今までヴィラの隊には女性がいなかったこともあり、突然のことにヴィラは慌てるばかりだ。
「あの時……」
イズミは思い出すように呟く。
「え、なに?」
「俺の魔法を浴びたんです。多分その時に濡れたんだと」
「は!? ならなんでさっさと乾かさないのっ!」
イズミが水を蒸発させる魔法を使えることは知っていた。半ば怒るように言うと、彼はすぐに魔法を唱え、フィーベルが着ている服と髪を乾かせる。先程よりはましだろうが、それでも身体は冷えたままだ。
通信が終わったのか、エダンはすぐにフィーベルの額、そして頬に触れる。次に口元に耳を寄せた。浅い呼吸だからか、すぐにタイを外し、シャツのボタンを何個か開ける。
「ちょ、ちょっとエダンくん何するの!?」
ヴィラはぎょっとする声を出す。
するとエダンは気付く。
「ヴィラ。もしかして彼女、何か圧迫してるか?」
「え? ……あ、男装だから、さらしを巻いてる」
「そうか。多分それも関係してるな」
エダンはすぐに同じ隊の二人を見た。
「シェラルドたちがすぐに来る。ヴィラ、ここに女医がいるか探してくれないか。お前が行った方が状況を正確に伝えられるだろう。俺が処置してもいいが、女医の方が彼女にはいい。イズミ、お前は毛布を借りて持ってきてくれ」
「う、うん!」
「分かりました」
素早く二人が駆け出す。
エダンは再度フィーベルを見た。額に触れると少し熱があった。さらしのせいで苦しくて呼吸もしづらいだろう。そしてイズミの魔法は水の量が多い。大量に浴びたまま箒に乗っていたのだとしたら、身体はすぐに冷える。色んな条件が重なってしまっていた。
「さすが、医師なだけあるな」
アンダルシアがルミエールを担いだ。自身の制服が汚れようとも気にならないようだ。そのまま運ぶつもりらしい。
「後は任せたぞ」
「はい」
するとアンダルシアはふわっと浮いて空へと飛んでいく。彼の個性魔法は「浮遊」。自身だけでなく人や物も軽々浮かせることができる。
エダンはフィーベルに目を戻す。
身体が冷えているのなら早く温めなければならない。特に女性は冷えに弱い。彼女にとっていい方法は……と考えていると「エダン殿っ!」と呼ばれる。
呼吸を荒げながら、シェラルドが到着した。
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