17:痴話喧嘩
フィーベルはそわそわしていた。
昨日の今日だ。アンネには少し待った方が言われたものの、やっぱり早く謝りたいと思っていた。大体、何かあってそのままにするほど、神経は図太くはない。むしろ早めに謝って和解をしたい方だ。
過去に城に飾ってある高そうな壺を割ってしまった時も、すぐにクライヴに謝罪した。彼は笑って許してくれたが、マサキはかんかんだった(給料から少しずつ天引きすることで一応許してもらったが)。
いつまでも心が落ち着かないのはこちらとしても困る。仕事はあるし、今後もシェラルドの花嫁として動くのだ。関係が微妙のままでは、周りにも怪しまれてしまう。
ふと、フィーベルは歩きながら考えた。
そもそも今後も花嫁を続けるには、どうしたらいいのだろう。式典では、きちんと教養を身に着け、彼の隣でも相応しいように磨きをかけた。だが式典は終わった。花嫁としてシェラルドにできることとは何だろう。
「ぶっ」
曲がり角に人がいることに気付かなかった。
相手の胸元に顔をぶつけてしまう。
「!」
そこにはシェラルドがいた。
目を丸くしてこちらを見ている。
今日はいつもの濃い藍色の制服だ。
白い制服もかっこよかったが、やはりいつもの格好もよく似合う。改めて見ると、シェラルドは自分より頭一つ高い。肩幅も広く、がっしりしている。思わずあの夜を思い出しそうになる。
が、それよりも先にすべきことがある。
フィーベルはすぐに口を開いた。
「あ、あの、昨日は」
「言うな」
すぐに手を出されて止められる。
慌てて口をつぐむ。
「さっきクライヴ殿下に聞いた」
「あ……そう、ですか」
時刻はまだ早い時間だ。
今日は使用人も含め、城の者はゆっくり起床していいことになっている。フィーベルは目が覚めてしまったのでいつもの時間に起きたのだが、もう話したとは。早い時間に呼ばれたということなんだろうか。
シェラルドはなぜか深く息を吐く。
そして真っ直ぐこちらを見てくる。
その瞳は真剣で、思わず心臓が跳ねそうになった。
「昨日は、悪かった」
「え……」
「いくらなんでも、やり方が悪かった。嫌な目に遭わせた。すまない」
「そ、そんな。私こそ、馬鹿とか言ってしまって」
「いや、本当だ。あの時の俺は馬鹿だった」
「そんなわけないです! シェラルド様はかっこよくて頼もしくて、決して馬鹿なわけが」
「いやそういうことじゃねぇだろ……」
微妙な顔をされる。
眉間に皺が寄っていた。
怒っているのかと思って焦ったが、声に力はない。
どうやら怒っているのとはまた違うらしい。
「あの、私こそ、ごめんなさい」
「だからそれは」
「でも私も、失礼なことを言ってしまったことに変わりはありません。だから、ごめんなさい」
フィーベルはすぐに頭を下げた。
この際どちらが悪いという話ではない。どちらも悪いのだ。互いに意図していないことが起きた。そんな言動になった。なんだか最近シェラルドには謝ってばかりな気がする。
すると頭の上に、軽く手が乗る。
何度か少し乱暴に撫でられた。
そっと顔を上げれば、相手は目を逸らしていた。
少し気まずそうな顔になっている。
「もう、いい。これで、仲直りでいいか」
仲直り。なんだか優しい響きだ。
「は、はい」
「なら、よし」
「あ。シェラルド様」
「なんだ」
「ハグしますか?」
「…………お前な」
微妙な顔をされながら低い声で言われる。
だがフィーベルは満面の笑みで両手を広げる。
ハグは朝と夜にするのがいい。花嫁として何ができるか、と考えた時、これならとりあえず毎日できるな、と自分の中で太鼓判を押していた。
「昨日の夜はできませんでしたし」
「いやできないだろ」
冷静にツッコミされてしまう。
アンネと同じ反応だった。
「だ、だから、今日からまた」
「だからもうそれはいいって言っただろ」
「今後も花嫁ですから、これくらいはします!」
「これくらい……?」
信じられないものを見るかのような目で見られる。
……そんなに変なことを言っているだろうか。
シェラルドは額に手を当てる。
はぁ、と息を吐いた。
「俺の苦労はなんだったんだ……」
「え?」
「いや、」
シェラルドはすぐに自分を守るかのように腕を組む。こちらが両手を広げて待っているというのに、それに応じる気はないらしい。その姿は意志の強さを表しているようにも見えた。
「これからのことだが、花嫁だからといって何かする必要はない」
「え」
「式典の時は人の目もあったし両親に紹介する必要もあったが、あれはあれで無事に終わった。今後は普段通りの生活をしてくれ」
「で、でも、今後も花嫁を」
「しないといけない必要が出てきたら言う。それ以外は俺と一緒にいる必要もない」
「それって花嫁って言うんですか……?」
行動を共にしないなどと、そんなの夫婦ではない。
フィーベルは結婚したことがないが、夫婦は共に暮らすことだと思う。さすがにフリなのでそんなことはできないが、いつもバラバラで過ごすのは違うのでは、と思ってしまう。
シェラルドはさらに眉間の皺を深くした。まるで睨んでいるかのように。明らかに花嫁に対して向ける表情ではない。
先程よりも強めの口調で言われる。
「必要ない、と言ってるんだ。俺の言うことを聞け」
「でも、」
「でもじゃない」
「私は、シェラルド様の役に立ちたいです」
「もう十分だ」
「嫌です」
「嫌じゃない。ていうかなんだ嫌って」
「じゃあせめてハグくらいはして下さい!」
「そこに戻るのか」
これだけは譲れない。
思わずフィーベルは自分の胸に手を置く。
「確かに私は、シェラルド様にとっては何の役にも立たない小娘かもしれないですが」
「……いやそこまでは言ってない」
フォローされるが聞こえなかったことにする。
譲れないのは、それだけじゃない。
これはフィーベルだけの願いではないからだ。
「少しは身体も休めて欲しいんです。少しは役に立ったって、前に言ってくれたじゃないですか。それに、クライヴ殿下からも頼まれたんです」
仕事人間のシェラルドを休ませてほしいと。
そのための花嫁だと。
クライヴはフィーベルに期待している様子だった。そんな風に言われたら、元々絶対忠誠を誓うフィーベルのやる気もさらに上がるというものだ。
クライヴの名前を出せば、渋い顔をされる。
「それくらいは、したいんです」
花嫁として何ができるだろうと考えてみたが、今の自分にできることはそれくらいしかなかった。何もする必要がない、というのは、フィーベルの助けなんてなくても、シェラルドはやっていけるからだ。それは分かっている。
シェラルドは騎士団の一つの隊の隊長であるし、城での生活も長い。歳だって上だ。フィーベルにできることなど、かなり限られている。
だからこそ、少しでも助けになるのなら、何かしたいと思うのだ。花嫁という立場を与えられたのなら、花嫁らしいことをしたい。それが今のフィーベルの願いだった。
するとシェラルドは黙り込む。怒っているような、悩んでいるような表情だった。だがしばらくすると一度溜息をつき、ゆっくりとこちらに近付く。
そして軽く抱き寄せられた。
今までで一番優しい力だった。
「これでいいのか」
頭上から声が響く。
少し諦めた物言いだった。
だけど力が優しかったので、その声もどこか柔らかく聞こえる。今のフィーベルは、顔からシェラルドの胸に飛び込んでいる状態だ。頭を少し動かし、彼を見る。シェラルドは前を向いていた。少し開き直っているようにも見えた。
フィーベルは思わずふふ、と笑う。
「なんだ」
少し不機嫌そうな声になる。
「なんでもないです」
微笑んだまま、抱きしめ返す。少し力が入ったせいか、シェラルドは少しだけ身体を強張らせた。だがそれは一度だけで、苦しくない程度にまた抱きしめてくれる。昨日ぶりの体温が、なんだか嬉しい。
シェラルドのためにしているはずが、自分のためにしてもらっているような感覚だ。人の体温の温かさを一度知ってしまうと、いつの間にか求めてしまう。もっと、包まれたくなる。
「わぁあああどいてー!」
大声が聞こえてそちらに顔を向ければ、箒に乗った女性がすごい速度でこちらに向かっていた。慌ててフィーベルとシェラルドが離れると、その間を通り過ぎる。箒が止め、女性がこちらを振り返った。見覚えのある紫色の頭だ。
「ヴィラ!?」
シェラルドが名前を呼ぶ。
フィーベルもすぐに分かった。
風の魔法を使う魔法兵、ヴィラだ。
式典で初めて会ったが、明るくて気さくな性格の持ち主だった。初対面とは思えないほど打ち解けたことを覚えている。同じ魔法兵なのもあり、フィーベルも話しやすいと思っていた。
ヴィラはこちらを見てほっとするような顔をする。
「なんだぁ。シェラルドにフィーベルさんかぁ」
安心したような声を出す。
そっと箒を降りてこちらに駆け寄ってきた。
「おい。ここではその魔法は禁止のはずだぞ」
シェラルドが厳しい口調になる。
一般人も使用する廊下では、空を飛んではいけないことになっているのだ。「基本魔法」が使える人は、場所を問わず、魔法で空を飛べることができる。だが空を飛ぶ魔法はそれなりの速度が出るため、ぶつかってしまう危険性もある。そのため、禁止となっている。
「うっ。今日だけは見逃してくれよ……」
ヴィラはばつが悪そうに肩をすくめた。
式典の時は明るくて元気なイメージだったのに、今日の彼女はどこか弱々しい。するとシェラルドも気付いたのか、半眼になりながら聞いた。
「……もしかして、また逃げてるのか」
「だって私が机仕事嫌いなの知ってるでしょ!?」
「ガラク隊長みたいなこと言うなっ。大体いつも手伝ってもらってるだろ?」
「だって今日は手伝ってくれないんだもんっ!」
「だったら自分でやれよ」
「無理だよ~!!」
容赦ないほどにばっさり言いきったシェラルドに対し、ヴィラは子供のようにいやいやと首を振っている。二人は同期のようだ。だから互いに思っていることをはっきり言えるのだろう。
すると後ろから、よく通る声が聞こえてきた。
「ヴィラ隊長!」
「うわっ」
素でヴィラが声を出す。
振り返れば、そこには一人の青年がいた。
同じ魔法兵団の証である濃い緑色の制服に身を包んだ彼は、シェラルドより少し背が高かった。
焦げ茶の短い髪色に、ブルーベリーのように深い藍色の瞳。顔は優しげな顔立ちをしているものの、今はかなり険しくなっている。
「報告書をまとめて下さいっ! 俺も会議には同席していましたが、あなたがまとめないと意味がないんですよ!」
「だから、エダンくんがやってくれたら」
「いつまでも俺に頼ってどうするんですか! あんた隊長でしょう!」
「私は魔法が自由に使えたらそれでいいもん! 机仕事は君に任せる!」
「どんな隊長だよっ!」
ぎゃあぎゃあとその場で言い合いが始まった。
フィーベルはぽかんとしながらそれを見つめる。
シェラルドは真顔で補足した。
「エダン・ルーシー殿。ヴィラの隊の副隊長だ」
「あ、もしかして式典の時にもいた」
そういえば式典の時にヴィラを呼んでいた人物がいた。背が高いことは覚えていたが、エダンだったのか。シェラルドは頷いた。
「そしてヴィラのお守り役だ」
「お、お守り役」
「あいつの机仕事嫌いは昔からだ。まだ新人だった時の教育係がエダン殿で、ヴィラの相手はエダン殿にしか任せられないと周りも判断して、副隊長になった」
「へぇ……」
シェラルドでさえ世話がしんどいと言っていた。そして今も匙を投げているかのように何もせず見ている。一方、今もなおヴィラの対応しているエダンは、説得を続けている。その粘り強さは確かに周りが任せたくなる気持ちが分かる。
と、シェラルドの言葉で気付く。
「教育係ってことは」
「エダン殿の方が年上だ」
「でも立場はヴィラさんの方が上ってことですか?」
ヴィラが隊長でエダンは副隊長。ならば自然と立場はヴィラの方が上ということになる。女性初の隊長とも聞くし、やはりヴィラはかなり優秀な女性のようだ。
するとシェラルドはぼそっと呟く。
「今はな」
どういう意味だろうと聞き返そうとしたが、それよりも先にエダンの方が吠えた。「いい加減にしろ!」と大声を上げる。思わずそちらに注目してしまう。
「俺はいつまでもあんたの副隊長じゃない!」
するとヴィラの顔色が変わる。
その場が一瞬、しんとなる。
どうなるのだろうと、フィーベルさえも息を止めそうになった。すると先程まで少し距離を取っていたヴィラが、エダンに近付いた。そっと彼の腕に触れる。
そして――輝いた笑みになっていた。
「そうなの!? ついにエダンくん、私より上の立場になるの!?」
「……なんで嬉しそうなんですか」
エダンは一気に嫌そうな顔をする。
だがヴィラは掴んだ腕を何度も動かした。
「だって私より実力が上なのにずっと副隊長だなんて信じられなかったもん。それがやっと上の立場に……! わぁおめでとう~! え、移動はいつ? 早くイズミくんにも伝えないと。あ、みんなでお祝いしよっか!」
「ヴィラ隊長……」
「え?」
エダンはヴィラの襟元を掴み、顔を近づけた。
至近距離で微笑む。口元だけ。
「楽しい机仕事、しましょうか」
「え――!? やだ、やだー!」
「駄々こねないっ! あと俺しばらく移動ありませんから」
「え――!? なんで!? 嘘つきっ!」
「やると言って逃げたあんたの方が嘘つきだろうがっ!」
再度言い合いが始まりそうだった。
フィーベルはおろおろしてシェラルドの方を見る。
「ど、どうしましょう」
「いつものことだ。放っておけ」
「完全に他人事……!」
シェラルドは素知らぬ顔をしている。
この件に関して手を出すことはやめているらしい。
今度は大声でヴィラが叫ぶ。
「やだよっ! 私絶対やらないからっ」
「今日はいつもより強情な……ちゃんと隊長の仕事してください!」
「やだっ!
急に魔法を発動させる。
突風をエダンに向けて放ち、距離を取った。
式典の時に見た時より確実に風の威力が強い。ヴィラは相手を睨んでいる。魔法の威力は感情にも左右されているのだろうか。だがそれよりなにより。
「そんなに机仕事嫌ですか……!?」
「そんなにだ」
唖然としたフィーベルにシェラルドは平然と答えた。
事務的な作業はどうしても細かいことが多かったり、確認することが多かったり、確かに大変だと感じる人も多いだろう。だがこんなにも嫌がる人を見るのは初めてかもしれない。
ヴィラはまた箒に乗ろうとする。
するとエダンも魔法の呪文を唱える。
「
すぐに小さい光の粒のようなものがヴィラの元へ一斉に移動する。だがヴィラはまた風の魔法を繰り出し、その光の粒を跳ねのけた。
ヴィラが得意げにふふふ、と笑う。
「エダンくんの魔法じゃ分が悪いよ! こっちは風だからね!」
かっこよく決めているように見えるが、やっていることは少しかっこ悪いかもしれない。と、さすがにフィーベルは言えなかった。だが隣にいたシェラルドは遠慮なく「阿呆だな」とツッコんでいた。
さらに風の威力が上がり、エダンだけでなく周りも風で吹き飛ばされそうになる。フィーベルもどうにか踏ん張った。するとすぐにシェラルドが肩を掴んで支えてくれる。
式典の時に見たヴィラの魔法は、優しくて繊細な風だった。だが、本気を出せばこんなにも威力を上げることができるとは、やはり腕は本物なのだろう。隊長という名は伊達ではない。
だが、少し暴走しているようにも感じた。
エダンも風の力で押され気味だった。
威力が強すぎて、後ろに下がりそうになっている。
「あの、大丈夫なんですか!?」
風に負けないようにシェラルドに聞く。
すると彼も大きめの声で返した。
「大丈夫だ。止めてくれる」
「でも、」
幸い今は朝が早く、周りに人がいないから成り立っている。空を飛ぶ魔法を使ってはいけないだけで、廊下で他の魔法は使っていいことになっている(緊急事態のことを考えてだ)。だがこのままでは他の人も怪我をしてしまう。
フィーベルは思わず魔法を使おうとした。
が、エダンの方が早かった。
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