05_芙蓉湖へ


 一月二十日



 初雪が降った。

 

 とても激しく降るものだから、約束通りに来れないだろうと思っていた。

 

 芙蓉湖ふようこから東京までは遠い。きっと待ちぼうけをくらうだろうと。しかし、彼女と子供は時間よりも、ずいぶんと早くやって来ていた。

 

 子供の体がひどく小さいのが目についた。栄養状態が悪いのだろう。彼女の指を握る手が、骨ばっていた。

 

 金は十分に渡しているはずなのに、生活が苦しいのであろうか。彼女に、もっと金が要るかと聞いたが、ただ首を振るばかりであった。

 

 代わりに、この子を引き取ってくれと、彼女は言った。

 

 聞き違いとばかり思って聞き返したが、彼女は子供の背を押すだけだった。

 

 引き取るつもりはなかった。

 

 引き取るつもりはなかったのだ。

 

 だが、彼女が娘の顔を上げさせた時、この子を家に迎えようと、そう決めた。

 

 その娘は、とても美しい顔をしていた。あの子によく似た美しい顔を。

 

 



「長野県上水内郡信濃町かみみのちぐんしなのまち

 

 車の走行音にかき消されそうな、小さな小町こまちの声が耳をかすめて、思わず彼女の方を向く。助手席の絹をかぶせたような白いかんばせからは、家族の居場所が分かった高揚も、これから家族に会えるかもしれない期待も読み取れなかった。


「芙蓉湖――野尻湖のほとりなんて、ずいぶん素敵なところに住んでるね」

「祖父の別荘の一つだそうです」

 

 「ふうん」という小町の抑揚のない声には、無関心を通り越して、いっそ退屈すら滲んでいた。


 れいは、それを意外に思う。相続する美術品の名義と引き換えにするからには、家族に対して小町が何かしらの感情を抱いていると思ったのだ。


「あなたは」

「小町」

「……小町は、どうして家族を探したいんですか」


 小町は、礼の問いに沈黙で返す。いや、おそらく言葉を探しあぐねているのだろう。唇を開いて、何か言葉を紡ごうとしては閉じる気配がした。


 窓の外に雪がちらつき、礼が車のワイパーを動かし始める頃になって、彼女はようやく話し始めた。


重信しげのぶが死んだから、わたしには行く所がない」


 静かなその声は、走行音しかない車内にひどく響いた。


「祖父からは、誰かを頼れとか言われてなかったんですか」

「言われてた。でも、」


 小町の言葉が途切れるのに合わせて、車がトンネルに入る。ゆっくりと小町がこちらを向く気配がした。横目で伺えば、憂いを帯びた美貌が、またたくようにトンネルのオレンジの光に照らされていた。


「でも、あなたは、わたしが要らないんでしょう」


 暗に、小町が頼れるのは礼しか居ない――そう聞こえて、自分の耳を疑った。


 トンネルを抜ければ、小町の顔に一瞬浮かんだはずの憂いは、どこかへ立ち消えていた。そこには、いつもの彼女のしらじらとした表情が浮かぶのみだ。


「そういえば、この前の、間違ってるわ」

「……?」

「重信がただ一つ愛したものが絵画だって」


 小町は、猫のようにゆったり目を細めると、礼に告げた。


「重信はわたしも愛してた」


 「だからあなたにあげたのよ」という言葉を最後に、車内には雪を払うワイパーの音だけが積もっていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る