ぐちゃぐちゃになればいいのに(2)
小学四年生になって、平(たいら)創輝(そうき)くんと一緒に遊ぶようになった。私は彼を何故かすんなりと受け入れることができた。新しいクラスにもその隣のクラスにも加藤くんがいなくてほっとしていたせいもあるかもしれない。あるいは同じクラスになった斎藤さんが、去年のうちに先に仲好くなっていた安心感もあるだろう。私の友達の友達なら、そこまで変な性格の人はいないだろうな、という先入観。
実際に創輝くんは男の子にしてはまともな部類だ。下品なことも言わないし叫ばない。悪目立ちもしない。漫画も読むしテストも点を取るし体育の授業ではサポートが上手い。そして何より笑い方が爽やかなので、不快な要素は特に見当たらない。
ある土日に斎藤さんを遊びに誘ったとき、創輝くんも一緒でいい、と言われる。別にいいよ、と答えると斎藤さんは私に誘われたときより嬉しそうで、ちょっと友達を取られたような気分になる。斎藤さんは瑞希ちゃんよりは心の距離が遠いけれど、それでも付き合いは長いのに。
十分くらい遅れる、と斎藤さんからラインが来て、わかった、と返す。ついでにスタンプも送って、スリープモードにしたスマホをバッグにしまった頃に創輝くんがやってくる。六月、日曜日、駅前の銅像前にあるベンチで、私と創輝くんが並んで座る。
「まだ六月なのに、暑いよね。埜中って、夏と冬どっちが好きなの」
「冬が好きだよ」
「どうして」
「もうすぐ春だから。春休みに、毎年おばあちゃんの家に行くんだ」
「ふぅん。僕は夏が好き。夏生まれだから」
「何月何日生まれ?」
「七夕」
そんな感じの会話をしながら、斎藤さんを待つ。今日はカラオケに行ったあと、文房具屋さんを見ることになっている。この町に越してきて、もう二年も経った。駅前なんて、庭のようなものだ。
「埜中は? 誕生日、いつ」
「ホワイトデー」
「へえ」
「バレンタインデーが誕生日の友達がいないから、不均衡なんだよね」
「不均衡、って?」きょとんとした顔で創輝くんがきく。
「バランスが悪いってこと」
「ああ、そういうこと。そんな言いかた、よく知ってるね。埜中って頭いいよな」
「別に、普通くらいだよ」
「だって、僕が知らない言葉を知ってることが多いから。僕が馬鹿なのかな」
「知っててもしょうがないよ。テストに出ないんだから」
昔から、図書館やお母さんの本棚でよく読書をしていたから、周囲より言葉を知っている、らしい。実際にどの程度、周囲と差があるのかは解らない。ごく自然に話しているだけなのに、子供からは不思議がられて、大人からは無駄に持ち上げられて、正直うんざりしている。
斎藤さんがきて、時間こそ遅れたけれど予定通りに遊んで、そのまま各自の家に帰る。次の日に三人で下校したり、途中で創輝くんの家に寄ったりして、どんどん仲が深まっていく。
創輝くんの誕生日に斎藤さんの提案でケーキを作ることになって、ふたりで協力してチーズケーキを焼いて、創輝くんと分ける。楽しい会になる。そうやって過ごしているうちに夏休みも目前に近づいて、終業式が終わって教室に帰る途中、三奈美ちゃんと少しだけ話す。
そう言えば最近、私と瑞希ちゃんと斎藤さんと三奈美ちゃん、という感じで遊んでないよねって話になる。夏休みの初日、四人で買い物に行くことにする。
お小遣いをはたいて、新しい靴とかスマホカバーとか色々買う。けっこう貰ったはずのお年玉が、もう残りわずかだ。喫茶店に入って、各々で飲みたいものを注文する。三奈美ちゃんがカプチーノを頼んでるのが大人っぽく感じて、でも他の子はそのことを気にしていないようなので、もしかしたらカフェインが飲めないのは私だけかもしれない。
夏休みの予定とか、自分のいるクラスの人間関係がややこしい話とか、話題が二転三転していくうちに、「ぶっちゃけ好きな男の子っている?」という議題が誰からともなく持ちあがる。
私がびっくりしたのは、私を除いた全員がそういう対象に見れる男の子がいるらしいという事実に対してだった。瑞希ちゃんまでもが、「最近実は遠くから眺めてる男の子がいる」と告白した。三奈美ちゃんは今の担任の先生が格好良くて落ち着いていて贔屓もなくて好きと言っていて、斎藤さんは、なんと創輝くんが好きらしい。
「え? 創輝くんなの、斎藤さん」
「うん。いいじゃん創輝くん。一緒にいて落ち着くし、楽しいし」
たしかにそれは私も思うけれど、だからってそのまま恋愛感情に直結するものなの? と私は思うし、何かの勘違いなんじゃないかと言いたくなるけれど、こらえる。
斎藤さんのほうが創輝くんとは長くいるのだから、私の知らないエピソードや経緯があるのだろう。
「そっか。なんか、みんなに先越されちゃった気分」と私はため息をついた。
「先越された、って何が?」
「いや、私は初恋まだだからさ」
「うちは初恋じゃないよ?」と瑞希ちゃんは言う。
「私、三人目くらい」と斎藤さんも言う。
「え、斎藤三人目? 私はまだふたり目なんだけど」と三奈美ちゃんは驚いた顔をする。
でも一番驚いたのは私だ。
詳しくきいてみると、斎藤さんは幼稚園で同い年の男の子と付き合って別れて、瑞希ちゃんは三奈美ちゃんが加藤くんに夢中だったときにはすでにひそかに失恋していたらしい。三奈美ちゃんが三人のなかで一番最後だったのは意外だったけれど、それより知らない間にそうやって友達が恋愛経験を積んでいたという現実が、私をちょっと焦らせる。
「まあ、焦る必要はないんじゃない?」と三奈美ちゃんは言う。「優芽、別に彼氏欲しいとかはないんでしょ? なんか、興味ありそうでなさそうな雰囲気あるけど」
「彼氏……か」
たしかに、恋人が欲しいと思ったことはない気がする。友達と遊んでいればそれで十分というか、彼氏という存在がいたと仮定して色々なことを想像しても、別に欲しくはならない。小説や漫画で読んで、いい話だとは思っても憧れはしない。
ただ、『結婚したい』に繋がる好きが実際にどういうものなのかは気になるけれど。
色んな人の話をきいてみても、なんだかしっくり来ないのだ。
「たぶん、今の私にはまだ必要ないんだと思う」
「それでいいんじゃない」と斎藤さんは言い、それから、「でも、なんか安心した」と漏らす。
「安心? 何が」
「いや、埜中も創輝くん好きだったら三角関係でぎくしゃくしそうだなって。正直、その可能性はなくもなかったからこの話題になったときひやひやしたんだよね」
「ないない。創輝くんはいい子だけど、普通の友達だから」
「だよね、本当に安心した」
斎藤さんがそう言って胸を撫で下ろすのを見て、斎藤さんの恋が成就したら私はどんな立ち位置にいればいいんだろう、なんてことを考えた。
夏休みも私と斎藤さんと創輝くんは遊んだ。創輝くんのお父さんと私のお母さんの監視下で花火をしたり、三人でプールに行ったりした。プールのとき、泳げないフリをして創輝くんに泳ぎを教えてもらっている斎藤さんを遠くから見て、笑いそうになった。せっかく友達と泳ぎにきたのに独りで離れて泳がないといけない理不尽は、あとでジュースを奢ってもらってちゃらにした。縁日にも行ったし、一緒に宿題を手伝いあったりもした。そのときも斎藤さんはわざと解らないフリをして、そこそこ頭のいい創輝くんに勉強を教えて貰ったりしていた。
そうして過ごしてきた時間が結実したのか、夏休みの最終日、創輝くんは告白した。
「埜中、好きだ。僕と付き合ってくれ」
その日はちょうど斎藤さんが風邪を引いて、ふたりで公園で夕方まで遊んできた帰りだった。
「……え、私? 斎藤さんじゃなくて?」
「なんで斎藤が出てくるの」
「あ、いや」斎藤さんのほうがアプローチしてたから、じゃなくて。「斎藤さんのほうが、可愛いし」
「僕は埜中のほうが可愛いと思ってるんだよ」
「ええ、やめといたほうがいいよ、そんな性格よくないし。斎藤さんのほうがいいよ」
「斎藤が僕のこと好きだったのは知ってる」創輝くんは真っ直ぐ私と目を合わせる。「この前、告られたし。でも振った」
「は? ……なんで」
「気付いたんだ。僕はずっと、埜中のことが好きだったんだって」
「…………」
この状況をどう切り抜けよう? というか、私のほうが好きって、斎藤さんに言ったのだろうか? きっと言ったんだろう。だから斎藤さんは諦めたんだろう。もしかしたら、今日来なかったのも夏風邪じゃなかったのかもしれない。私はどうするべきだ?
大前提として、私は別に創輝くんのことは好きじゃない。異性としては。友達としては、とても過ごしやすい子だと思う。そのまま言おうかな? 友達としか見れないって? でも、そうしたら創輝くんとも気まずくならない?
「……ちょっと、すぐには答えられない。その、夏休み明けたら返事するから、待ってて」
「……解った」
創輝くんはそう言うと、自分の家の方向に駆けて行った。夏の夕暮れ空、名前を知らない色に染まった雲をぼんやりと眺めながら、私は自分が、全然どきどきしていないことに気が付いた。
家に帰って晩ご飯を食べてる間、返事をどうするべきかずっと考えていた。両親に相談してみようかと思ったけれど、でも関係ないしな、と考え直した。誰かに告白をしたことがないからよく解らないけれど、こういう話は無関係な人に話さないほうがいい気がする。それに、両親に意見を求めたら、その意見にそのまま流されてしまいそうだ。きっとそうなる。なんとなく、それはよくないと思う。
ひとりで考えるべきことっていうのがあるのだ。
そう思って、悩みながらベッドのなかで本をめくっていると、スマホがメッセージを受信した。斎藤さんから。私は通知のところに『今日、創輝くんに何か言われた?』と表示されているのを見て、ちょっとびっくりした。
『うん。なんか、告られた』私は緊張しながら返信した。
『やっぱりかー』すぐに受信。『創輝くん、次に埜中と会うときに告るって言ってた』
『そうなんだー。斎藤さんも知ってたんだね』
一拍遅れて、『なんて返事したの?』と斎藤さん。
『考えさせて、って言っちゃった』
『なんで』
『どうすればいいか解らなくて。明日、返事するって言った』
『今はどっちにしたいって思ってる? 付き合うか断るか』
少し考える。どっちにしたいって思っているんだろう?
考えてる、じゃなくて。
『まだ解んない……』
すると斎藤さんは、すぐに返信してくる。
『お願い、OKして』
私はしばらく目を疑う。斎藤さんが何を考えているのか解らなくなってくる。
『なんで?』
『それが一番じゃん。私が創輝くんに告って振られて、創輝くんが埜中に告って振られたら、もう終わりじゃん』
終わりって何? って、私達のことか。たしかに、そうなったらもう、三人で遊ぶなんて気まずいにも程がある。その気まずさが私達の関係を終わらせてしまう。それだったら、私と創輝くんが付き合ったほうが、斎藤さんも混ざりやすい、かな。創輝くんと気まずくても、私の近くにいる体で三人組を続ければ、もしかしたら気まずさもなくなるかもしれない。どうにもならない可能性も十分にあるけれど。でもそうしたら、斎藤さんはすごく辛いんじゃないの? それとも、案外耐えられるものなの?
『斎藤さんは、本当にそれでいいの?』
『いいよ。創輝くんと付き合ってる埜中となら、まだ仲好くできる気がするから』
斎藤さんの真意は本当によく解らない。どういうこと、とききたいけれど、その前に、斎藤さんから続けざまにメッセージがくる。
『ごめんね』
その謝罪の意味も解らない。
『別にいいよ。じゃあ付き合うことにしてみる』
『本当に? ありがとう』
可愛いウサギが感涙しているスタンプが送られてきて、いえいえと手を振るネコのスタンプを返す。それから、明日の予定についての雑談をして、日付が変わる前におやすみと送る。
電気を消して、スマホを充電器にセットして、タオルケットで身体を覆って、目を瞑る。扇風機の音と、両親のどちらかが廊下を歩く音と、夜の虫の声がきこえてくる。後頭部と背中とお尻と脚の裏とかかとが、シーツにじわじわと沈み込んでいくような感覚。
眠りに落ちそうになったとき、空気を読まない脳が思考を始める。
本当に、付き合っていいの? 私、創輝くんのことは友達としか思っていないのに?
別にいいじゃない、と私は胸のなかで呟く。
もしかしたら、創輝くんと恋人として接していたら、男の子として好きになれるかもしれないし。『男の子として好きになる』って、正直全くぴんとこないけれど、それが『結婚したい』に繋がる好きと同じものなら、そのチャンスを逃したくない。
みんなが経験してきた、幸せで素晴らしくて、でもコントロールできないとぐちゃぐちゃになって誰かを傷付けてしまうかもしれないというその気持ちに、そろそろ私もなってみたい。
そのとき私が上手くやれるかどうかは解らなくてちょっと怖いけれど、何事も挑戦が大事だって、誰かが言ってたし。
次の日、帰りの会が終わってから創輝くんを校庭のすみっこに呼び出す。
「昨日の件だけど……」
「うん」
「いいよ、付き合っても」
「い、いいの? ありがとう! よろしくね!」
と、創輝くんはすごく嬉しそうに手を差し出してくる。私は応じる。まだ夏休みが終わったばかりで、気温は相変わらず高いらしくて、創輝くんの手はしっとりと汗ばんでいる。きっと私もそうなんだろうな、と思いながら、握った手を軽く振ってみたりする。
ふたりで帰ることになって、私は斎藤さんを待ちたかったけれど先に帰ってしまったことを思い出す。並んで歩いていると、創輝くんはよほど嬉しいのか、にやにやしながらこちらをちらちら見てくる。なんか自然公園のときの久賀っぽいな、とちょっとだけ思ってしまう。たぶん、男の子ってみんなそうなるんだろう。
「ねえ、埜中」
「何」
「手、繋ぎながら歩いていい?」
「なんで?」
「なんで、って……」
「いや、別にはぐれそうとかもないし」
「そんなの、繋ぎたいからだよ」
「ふぅん。まあいいよ」
許可を下すや否や、創輝くんは私の手を握ってくる。ちょっと痛い、と言うと力を弱めてくれる。そのまま坂を降る。
そう言えば会話がないことに気付いて、私は創輝くんに話題を振る。
「創輝くんさ」
「うん」
「斎藤さんとは、気まずい?」
「別に。……埜中に告るって言ったら、応援してくれたし」
「そっか。じゃあ、また三人で帰ったり遊んだりできるよね」
「……ん、まあ」
と創輝くんは歯切れが悪い。「どうしたの?」
「いや、その。できれば、埜中とふたりで遊ぶのも増やしたいなって」
「なんで? やっぱ気になるの? 斎藤さんがいないほうが気楽?」
「そうじゃなくて」創輝くんは、何故か少し呆れの混じった表情で言った。「せっかく付き合うんだから、デートとかしようよ」
でも三人で遊んだほうが楽しくない、と言おうとして、楽しいかどうかは別問題なのかなと口を噤む。お父さんとお母さんだって、たまに私抜きでデートに行ったりしているのを思い出しながら。
「……埜中って、こういうの疎いの?」
「こういうのって?」
「こう、付き合ってるふたりと言えばこんな感じ、とか。ムードとかさ」
「ああ、そうだね。知識として、ない訳じゃないけど……。今まで誰かを好きになったこともないし」
「……僕のこと、好き?」
「普通に好きだよ」
「その、普通に、って何?」
「結婚したいと思える好きじゃないって意味」
私が正直にそう言うと創輝くんは悲しそうな顔をしたので、「でも、付き合ってるうちにそういう好きになればいいなって思ってるよ」とフォローした。
それから三人で話し合って、斎藤さんを交えて遊ぶ日と創輝くんとふたりで遊ぶ日を同じくらいの割合にした。三人でいても特に気まずい空気は流れずに、和気藹々と楽しめた。十月の運動会のとき、創輝くんがリレーでアンカーを走るのを斎藤さんと一緒に応援した。創輝くんはクラスを一位に導いた。
私が創輝くんを大きな声で応援していたことや、ふたりで遊園地に行っていたという目撃情報によって、私と創輝くんが付き合っているんじゃないかときかれることがあった。仲好くもない男の子からの質問は「関係ないじゃん」とあしらっていたが、瑞希ちゃんからきかれたときは、正直に答えるほかなかった。
「やっぱり、そうだったんだ。なんで教えてくれなかったの」電話越しに、興奮気味の声で瑞希ちゃんは言う。
「なんでって、きかれなかったから」
「なんで付き合ったの? たしか、前に友達って言ってたのに」
「私はそう思ってたけど、創輝くんから告白されたから」
「へえ、平くんからなんだ。OKした理由は?」
「だって断ったら気まずくなるじゃん。私と斎藤さんと創輝くんの三人組、結構居心地がよくてさ」
「へえ……それだけ?」
「うん。あとまあ、斎藤さんがOKしてって言ったから」
「あ、そうなんだ……。斎藤さんはどんな風なの?」
「どうって……」私は三人で遊んでいるときの斎藤さんを思い浮かべる。「まあ、普通な感じ? 私に対しても創輝くんに対しても。創輝くんへのアピールみたいなのはしてないけど」
「えー。なんか、優芽ちゃんは不安にならないの? 斎藤さんも平くんのこと好きだったんでしょ?」
「解んないけど、もう諦めたんじゃない? 振られたんだし」
「そうかな……。平くんとは、どこまで行ったの? 夏休み明けからってことは、もうそろそろ二ヶ月でしょ? キスした?」
「キス? してないよ」
「えー、そうなんだ。平くん、あんまりガツガツしてないんだね」
「ガツガツこられても困るけどね。別にキスとかしたくないし」
私がそう言うと、「え、そうなの?」と瑞希ちゃんは意外そうな声を出す。
「うん。別にそういうのいらなくない?」
「まあ優芽ちゃんは初彼氏だから、実際にしてみたら好きになるんじゃない?」
と言うことは瑞希ちゃんはキスが好きなタイプなのか。私は瑞希ちゃんが誰かとキスをしているシーンを想像して、なんとなくげんなりする。
その電話から五ヵ月後、私の誕生日に創輝くんを部屋に招いたとき、ベッドのうえで並んで座って話していると、創輝くんは言う。「優芽、僕達そろそろ付き合って半年経つよね」
そう言えばそうだな、と私は言われて気付く。
「もうそんなに経つんだね」
創輝くんの手が私の手を捕らえ、指と指を絡めてくる。
この繋ぎかたはあまり好きじゃないって何度も言ってるのに、と思いながら手を揺らすと、ちゃんと普通の繋ぎかたに変えてくれる。
「優芽、キスしていい?」
真っ直ぐこちらを見据えて、創輝くんは絞り出すような声で言った。
私は、ここで「なんで」ときいちゃ駄目なんだろうな、と思った。どうせ、手を繋ぐ理由とかと同じなんだろう。感情的なものなのだ。したいからするのだ。どうしてそう思うのか、今でもよく解らないけれど。でもきっと、そういうものなんだろう。
「いいよ」
創輝くんの顔がゆっくり近づいてきて、少し怖くなる。でもお父さんとお母さんもやってたことだ。キスをしたからって骨が折れる訳でもない。
私は距離がいつもよりずっと近い違和感に耐えながら、キスがやってくるまで待つ。
創輝くんの鼻息が、私の鼻梁にかかって熱い。
そしてキスが私のところに到達した途端、私は創輝くんの肩を押してしまった。
その生温かさ、息苦しさ、創輝くんのぶにっとした唇が気持ち悪くて、なんだか背筋が寒くなって、反射的に跳ねのけてしまう。目の前に大きな虫が飛んできたときと、同じような感情を抱きながら。
ベッドの上で胸を反らす格好になった創輝くんは、状況がまるで理解できない、と主張しているかのような、呆然とした顔をしていた。私が何か犯されるべきでない重大なルールにさらりと抵触した瞬間を目にしたみたいな、ぽかんとした表情。
自分が創輝くんからのキスを拒絶したのだと気付いたのは、その顔が悲しみに包まれてからだった。
やってしまった、と私は思った。創輝くんを傷付けた。
「……僕」創輝くんは、恐る恐る言った。「口、臭かった?」
なんで、そんなことをきくのだろうか? 息を止めていたから、口臭なんて知らないし、もし臭かったと言えば、ブレスケアでもしてから再挑戦するのだろうか? そしてまた、私はさっきの不快感を味わうのだろうか?
今度は我慢しないといけないのだろうか? 嫌だ。
だから、私は正直に告げる。
「ごめん。キスそのものが、無理だった」
「……優芽、僕のこと、まだ彼氏として好きになってなかったんだね」
「うん。……ごめんね。その、……なんか全然、友達気分で」
ずっと、創輝くんに対しては同じ気持ちだった。一緒に遊んだり、色々なことを話したり、遠くに行ったりするのは楽しかった。クリスマスパーティに呼んだのも仲が好いからだし、手を繋ぐのだって、慣れれば気にならなかった。でも、斎藤さんと三人で遊んでいるときのほうが楽しいし、たまに創輝くんに好きだよと言われても、他の彼氏持ちの子みたいに幸せにはならなかった。少女漫画や恋愛小説に書いてあったように、触れたいとか、触れられたいとか、そんな気持ちは起こらなかった。
私は創輝くんといる間、いつだって冷静だった。
ぐちゃぐちゃになんて、全然ならなかった。
「……嫌な気分にさせちゃって、ごめん」と、創輝くんは謝った。
「いや、気にしないで……」
「大丈夫。……でも、もう帰るね」
「……じゃあね」
ベッドの上からすっくと立ち上がり、私を見ずに部屋から出ていく創輝くんを、止める気にはなれなかった。ただ、どこまでも悲しそうな背中と足取りを眺めながら、失敗したんだな、と思った。
関係性を保つことにも、『結婚したい』に繋がる好きを知ることにも。
ゆっくりと閉じられたドアの向こうから、創輝くんとお母さんの当たり障りのないやり取りがきこえてきた。
少し皺の寄ってしまったシーツを、そっと直した。
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