ぐちゃぐちゃになればいいのに

名南奈美

ぐちゃぐちゃになればいいのに(1)




 お母さんとお父さんはどうして結婚したの、って私が初めて両親にきいたのは七歳の頃、都内に引っ越す最中の車のなか、渋滞に巻き込まれて景色が変わらないままで退屈だったとき。両親はのどかな人だったから、渋滞のストレスで荒れたりはしていなかった。だから私が突然そんな質問をしても、穏やかな調子で答えてくれた。

「お父さんはお母さんのことが好きで、お母さんはお父さんのことが好きだからだよ」

 そう言って笑うお父さんは、なんだかこの話題がとても楽しいものであるかのように、嬉しそうだった。

「お互いのことが好きだったら、結婚しなくちゃいけないの?」私はまたきいた。

「そういう訳じゃないよ」とお母さんは言った。「結婚しなくちゃいけないから、結婚した訳じゃない。結婚したいなって、ふたりとも思ったから結婚したの」

「どうして結婚したいなって思ったの?」

「それくらい、お母さんのことが好きだったからだよ」お父さんはにこにこしながら言った。

「なんで、そんなにお母さんのことを好きになったの? お母さんも、どうして?」

 私の問いかけに、両親はふたりして笑顔になって、

「ずっと好きでいたら、どんどん好きになっていっちゃった」

 と答えた。

 私はその回答で腑に落ちた。

 好きって気持ちは、お花とかハムスターのように育っていくのだ。『好き』はつまり生きていて、だから大きくなっていくのだ。

 納得して、それから渋滞が動いて、また流れ始めた景色を私は眺める。

 もう夏休みが終わろうとしていたけれど、夏はまだ帰り支度を始めていなくて、ぎらぎらと照りつける陽射しが、銀色のトラックや自動車をきらめかせていた。空は青くて雲が少なくて、綺麗に澄み渡っていた。

 そしてまた車が停まった。また渋滞が厳しくなってきた。

 助手席で暇になったからか、お母さんは「それにしても」と口を開いた。

「優芽(ゆめ)はどんな人と結婚するんだろ」

「私、誰かと結婚するの?」

「優芽はかわいいし、優しいからなあ」お父さんは言った。「きっと、誰かと結婚して、幸せになるよ」

「結婚しないと、幸せになれない?」

「そんなことはない。でも、誰かを結婚したいと思えるくらい好きになって、想いが通じ合って、結ばれることは、とても素晴らしくて、幸せなことだよ」

 私はどんな人を好きになるんだろう?

 物語に出てくるような、かっこよくて優しい人だろうか? それとも、成績がいい人?

 そもそも、好きってなんだろう? 私は保育園にいたときからずっと『となりのトトロ』のトトロが好きだけれど、それはお父さんとお母さんの間にある好きとは違う気がする。私はトトロと結婚したいだろうか? どちらかというと友達になりたい。毎日会いに行きたい。その気持ちが結婚したいにつながる可能性は、ちょっと考えられない。

『友達になりたい』って好きと『結婚したい』って好きがそれぞれ別々にあるのかもしれない。そして、私はまだ『結婚したい』に繋がる好きを知らないのかもしれない。

 いつか、私が私の知らない好きを知るときがきたら、私はその好きをちゃんと『結婚したい』まで育てることができるだろうか?

 育つといいな、と思う。

 だってそれはとても素晴らしくて、幸せなことらしいから。

 一点の曇りもない夏空の下で、車がまた動き出した。



 地方の小学校の男の子は馬鹿だった。都会の男の子は違うのかな、と思ったらやっぱりだいたい馬鹿だった。どうして男の子って、どこで生まれてもウンコとかチンコとか叫んだり女の子にちょっかいかけたり授業中に騒いだりするんだろう。結婚というものは女の子と男の子でするらしいけれど、どうして男の子のことなんて好きにならなきゃいけないの? って本気で思いながら、私は新しいクラスで数人の友達を作って馴染んでいく。

 授業中、給食の時間、休み時間、帰りの会、どこをとっても馬鹿じゃない男の子なんて見当たらない。うるさい男の子とつまらない男の子と何も特技がなくていじめられている男の子しかいない気がする。

 いじめられている子を助けようとは思わない。誰もそんなことをしていないし、友達も「流石にかわいそうだよね」と言うだけで実際に助けたりしないしそんな空気にもならないから。それと、前の小学校で、いじめられている男の子を助けた女の子が、すぐに次のターゲットになったところを目の前で見ていたから。

 しょうがないんだ、色々と。実際、いじめのターゲットになっている子はだいたいどんくさかったり他の子とズレすぎてて見ててもやもやするし、だからその子を叩いたりする気持ちも、私は理解できる。そんな子を守ろうとするなんて変だ、って気持ちも解る。

 勿論いじめ自体は悪いことだっていうのも解るから、私はいじめに参加しない。友達と喋っているときに話題に出たら、「ちょっとやり過ぎだよね」とか言ったり、ずぶ濡れのかわいそうな状態で教室に入って来た子を笑わないであげたりする。

 そんな風に見過ごしてきたある日、十二月の初旬に、加藤(かとう)涼太(りょうた)という男の子がいじめられっ子達を守り始める。加藤くんは普段はそこまで騒がしくないし、かと言って日陰でもないので「男の子のなかではマシなほうだなあ」と私は思っていた。だから加藤くんが正義感を出し始めて目立ちだすと、やっぱり男の子って馬鹿だな、と思った。

 でも私の友達の三奈美(みなみ)ちゃんは加藤くんを格好良いと言い出し、しまいには恋をしたと報告してくる。

「加藤くんって他の子にはない優しさとか、勇気とか、強さとかあっていいよね」

 三奈美ちゃんはそればっかり言うようになる。言われた私達は友達だから、まあそうだね、たしかに他の子とは違うよね、とか肯定的に言うけれど、少なくとも私は心からの共感をしてあげられなかった。

 他の子はどうだろうか? 斎藤(さいとう)さんは三奈美ちゃんのいない場所では「加藤くんみたいな目立ちかたする子って、一緒にいると変な冷やかされかたしそうで怖いよね」と言っていた。瑞希(みずき)ちゃんは「加藤くんはうちも嫌いじゃないし、いいことしてるんだからいい子なんだろうけど、遠くから見ているのが一番な気がする」と言っていた。つまり三奈美ちゃんほど強く肯定はしなかった。かと言って、三奈美ちゃんに「やめときなよ」とかいちいち言ったりもしなかった。ただ、三奈美ちゃんの恋はどうなるんだろうとたまに気にするくらいだった。

 そんなあるとき、私が掃除の時間にバケツの水を床に盛大にぶちまけた際、その場に居合わせた加藤くんが雑巾で拭くのを手伝ってくれたことがあった。

 他の男の子は、「あーあ」だの「何やってんだよ埜中(のなか)」だの言って囃し立てるだけだった。そんな空気のなかで私を助けた加藤くんに対しても囃す声はあったが、彼はまったく気にせず、

「大丈夫? 服とか濡れてない?」

 とこちらを気遣ってくれた。

「大丈夫、ありがと」

 私は雑巾でなるべく加藤くんより多めに拭きながら、やっぱ男の子のなかでは一番優しい子だな、と思った。

 廊下を拭き終えると、加藤くんはほとんど水の入っていないバケツを持って水道のほうに向かった。「それは私がやる」と止めようとすると、「またこぼしたらどうすんだよ。埜中は掃除の続きやってて」と言って私に雑巾を渡した。廊下の雑巾がけが終わって、加藤くんが水を注いだバケツに雑巾を持っていくと、加藤くんは何故か代わりに雑巾を洗ってくれた。そこまでしてもらえるとは思わなかったので、私は戸惑いながら教室に戻った。

 そして次の日から、三奈美ちゃんは私を無視するようになった。

 斎藤さんと瑞希ちゃんも次第に私から距離を取るようになってきて、私は三奈美ちゃんによって独りぼっちにされようとしていると気付いた。

 どうしてだろう、と思っているうちに私の上履きが消えたり給食のときに机をくっつけてもらえなくなったりしていって、これはいじめられてる? と感じたときにはすでに加藤くんも気付いていた。二年生最後の大掃除で、掃除ロッカーに班員分あるはずのほうきが何故か一本足りなくて私だけ掃除ができなくなる。「何サボってんの?」と三奈美ちゃんに大きな声でなじられているときに、加藤くんが「カーテンの裏にあったよ」と私にほうきを渡してくれる。それから三奈美ちゃんのほうを向いて、「なあ、なんで埜中のこといじめてんの?」と言う。

「は? いじめてないよ。加藤くん何言ってんの」

「だって河合(かわい)、さっきわざわざカーテンの裏に一本だけ置いてたじゃん。埜中以外の当番に配ってたし」

「は……? 何それ。証拠あんの」

「河合がほうきを配ってたのはたしかだろ。そうだよね、斎藤さん」

 急に水を向けられた斎藤さんは、「あ、うん」と頷く。

「それで埜中のほうきだけカーテンの裏にあったんなら、河合がやった可能性高いじゃん。埜中がカーテンの裏に隠しにいく訳ないし」

「いや、優芽のぶんはもともとロッカーになかったんだけど」

「そうなの? じゃ、埜中が掃除できないの当たり前じゃん。サボりじゃないじゃんか。なんで責めてたの」

 加藤くんが三奈美ちゃんを詰問すると、三奈美ちゃんは「何それ」と漏らした。

「優芽のこといじめてなんてないし、加藤くんが関わってくる理由が解んないんだけど。何? 優芽のこと好きなの?」

「埜中のことは普通だけど、誰かをいじめてるやつが嫌いなだけだよ」

「はあ? なんなのそれ! いじめてないっつってんじゃん! イケメンぶってんの? 気持ち悪いんだけど!」

 加藤くんに怒鳴り始めた三奈美ちゃんの瞳には涙の膜ができていて、ああこれそろそろ止めないといけないのかな、と私は思うけれど動けなくて、結局駆けつけてきた先生が加藤くんと三奈美ちゃんと私を別の部屋に連れて行く。三奈美ちゃんも私も入ったことのない準備室だったけれど加藤くんは慣れているのか、一番最初に口を開いた。経緯の説明。ときどき三奈美ちゃんが怒り気味に否定しようとするけれど加藤くんはそれを黙らせた。私はたまに本当かどうか確認されて、それに肯定や付加を述べたりした。一応、三奈美ちゃんにも先生は色々と確かめるけれども、三奈美ちゃんは自分のやったことへの否定しか言わず、そのたびに加藤くんが冷静に訂正するので、先生も三奈美ちゃんはあてにならないと感じたようだった。

「ねえ、河合さんはどうして埜中さんにそんなことしたの?」

 先生はあくまでも優しい口調で三奈美ちゃんにきいた。三奈美ちゃんは何度も否定したが、信じてもらえないと解ると観念して、「優芽が悪いの」と言う。

「埜中さんが、何かしたの?」

「優芽が、加藤くんと仲好くしてたから」

「は?」と加藤くんが声を上げる。「別にしてないんだけど。なあ埜中」

「まあ、別に仲好くはしてないけど」

「してたじゃん!」三奈美ちゃんは声を荒らげる。「加藤くんに優しくしてもらってたじゃん! 私、加藤くんのこと好きって言ったよね? なんで近づこうとすんの!」

「ええ……?」というかそれは加藤くんのいる場で言っていいの?

「河合さん、落ち着いて?」

 と先生はなだめようとするけれど、

「ごめん河合、俺は河合のこと好きじゃない」

 なんて正直に加藤くんが言うから、それが起爆剤になって三奈美ちゃんが泣き出す。

 かわいそうだな、と思う。思うだけだ。

 最終的に三奈美ちゃんが私に謝って場が収まる。反省しているかどうかはさておき、少なくともこれで私への嫌がらせがなくなってくれるなら万々歳だ。とはいえ今までの扱いで三奈美ちゃんへの友情も冷めていて、今更一緒に帰る気にはならない。だから私は三奈美ちゃんよりあとに帰ることにする。

 図書室で三十分くらい時間を潰して、下駄箱に向かうと加藤くんと鉢合わせる。

「あれ? 帰るの遅いね」と私はきく。

「先生と話してたんだよ」加藤くんはうんざりした様子で言う。「なんか、あんまり他人の問題に変に関わらないほうがいいとか言われた」

「え? どういうこと?」

「知らない。先生も疲れてるんじゃない? この学校が問題多すぎるのが悪いんだよ」

「ふぅん」

「埜中も気を付けなよ。結構、よく解んない理由で騒ぎ起こすやつって多いから」

「わかった」

 勿論私は何も解っていないし、先生の言う通り加藤くんは色んな子を助けすぎてるとも思うけれど、早く帰りたいから言わない。

 家に帰るとお母さんに「今日、遅かったね。どうしたの」ときかれた。

「図書室行ってた」と答えた。

 自分の部屋でリュックを下ろして、ベッドに腰かけると、私はため息をつく。

 明日から三奈美ちゃんは私をどうするだろう。加藤くんと私の仲を、どこで間違えたのか知らないけれど疑って怒って、その結果として私をハブにしたり嫌がらせしたりしたのだから、誤解が解けた今はいじめの理由はなくなったはずだ。でも、また別の誤解というか、逆恨みで私をいじめたりしないかな? 不安はまだなくならない。斎藤さんや瑞希ちゃんが私を避けていたのは三奈美ちゃんがそうするように言ったんだろうけれど、じゃあ終わったからまた仲好くしましょうってできるかな? 解らない。そのふたりだけなら、私はまだ冷めてないし許せるけれど、三奈美ちゃんとだけ遊ばないっていうのは、いじめ返しみたいで嫌だ。ふたりだって気乗りしないだろう。もういっそ別の子と友達になろうかな。めんどくさい。でもしょうがない。

 そして、ふと加藤くんと友達になれないかという思考がよぎる。でもすぐに却下する。ここで加藤くんと仲好くし始めたら三奈美ちゃんがどんな顔するか解らない。三奈美ちゃんとの一件で私と加藤くんが仲好くなったなんて思われたらたまったものじゃない……。本当に、なんで三奈美ちゃんは加藤くんなんて好きになったんだろう? そのせいで大迷惑だ。

 そのとき、私は思う。そういえば、三奈美ちゃんの加藤くんへの『好き』って、『結婚したい』に繋がる好きだよね? 私のまだ知らない、いつか知りたいと思っている好き。私は、その好きは結婚とか家庭とか、そういう幸せなものしか生まないものだと思っていたのだけれど、今私を取り巻く問題だって、その好きが生んだものなんじゃないの? 『結婚したい』に繋がる好きが、誰かを不幸にすることもあるの?

 だとしたら、私がいずれ知ることになるそれも、誰かを不幸にしたり私自身を泣かせたりするのかもしれない。

 嫌だな、と私は思う。そんなんだったら知りたくない、とも思う。

 でも、きっと嫌でも知るときがくるのだろう。

 私がそのときできるのは、なるべく誤解をしないように気を付けるくらいだ。

 次の日、三奈美ちゃんの姿が朝から見えなくてどきどきするけれど、昼休みくらいにはちゃんときた。そしてそれまでには私と斎藤さんと瑞希ちゃんの仲は回復していた。一晩と半日の時間を置いて対面してみると三奈美ちゃんとも仲直りしてもいい気がして、実際に持ちかけてみるとちゃんと元に戻れる。前と同じ風には、勿論見れないけれど。

 終業式が終わり、二年生が終わり、春休みが始まる。すぐに明けて、三年生になる。

 クラス替えの結果、せっかく仲直りした三奈美ちゃんとも斎藤さんとも違うクラスになる。瑞希ちゃんが同じクラスになる。加藤くんは隣のクラスに入る。

 五月の遠足で市内の自然公園に出かける。出席番号順の席から決められた六人班のなかに瑞希ちゃん以外の友達がいなくて不安だったけれど、前日までには友達になれる。でも、一番話しやすいのはやっぱり瑞希ちゃんで、向こうも同じく思ってくれていた。

 広場で自然公園を管理する人の話を聞いて、お弁当の時間も済ませて、自由時間になる。三十分間。五分前行動なので二十五分間。

 瑞希ちゃんがトイレに行きたいらしいので、私もついていく。でも別に何も出ないのですぐに個室を出て、手だけ洗ってからトイレの前で瑞希ちゃんを待っていると、すぐそばの男子トイレの前に久賀(くが)が立っていた。

 久賀は私に気付くと、突然にやにやしだした。何だろう、と少し怖くなる。久賀は授業中にいつも寝ていてよく先生に怒られている男の子。授業を聞いていないから小テストの点数が信じられないくらい悪い。寝ていて怒られているときはにやけているのに、小テストが帰ってきたときには青ざめているから訳が解らない。

 馬鹿で、意味不明なのだ。私が嫌いなタイプの男の子。

「なー、埜中!」久賀は不意に、私に向かって叫んだ。「仁上(にかみ)って、今、トイレ入ってるの」

 私は無視をする。どうして久賀なんかに瑞希ちゃんのことを伝えないといけないのだろう? 仲好くするつもりはないし、話そうって気もない。瑞希ちゃんが出てきたらここから逃げよう、そう思っているとトイレから瑞希ちゃんが出てきて、お待たせ、なんて緊張感のない声で言う。私はその手を取って、広場を走り出す。

「え、どうしたの優芽」

「いいから行くよ」

 すると後ろから、

「ちょ、待ってよ!」

 と久賀の声。間もなく回り込まれ、進路を阻まれてしまう。普通の男の子くらいには速いらしい。

「なんか用でもあるの?」私は言う。

「う、うん。埜中じゃなくて、仁上のほうに」

「瑞希ちゃんに?」

 私は咄嗟に、瑞希ちゃんを腕でガードする。久賀は私の腕を払いのけて瑞希ちゃんの前に立つ。久賀に触られた、と嫌な気持ちになっている間に、久賀は瑞希ちゃんに言う。

「あの、おれ、仁上のことが好きだ」

 瑞希ちゃんはずっとぽかんとしていて、私も久賀の真っ赤な横顔を見て絶句する。

 え? 今、久賀が瑞希ちゃんに告白した?

「に、に、仁上はどうなんだよ。おれのこと、好き?」

 好きな訳ないじゃん、と私は思う。瑞希ちゃんと接点なんて全くないし、瑞希ちゃんが久賀を見ているところなんて見たことがない。

「え、待って何、急に。告白? なんで? え、困る。好きとか嫌いとか言われても……、うち、君が誰だか解んない」

 瑞希ちゃんは心底から怯えながら、私のシャツの裾をつまむ。

「だってさ。じゃ、どっか行って久賀」

 久賀は何も言えず、顔を真っ赤にして泣きそうになりながら、その場に立ち尽くしていた。

 私は瑞希ちゃんの手を引いて、広場のそばの細い道を歩く。

 ふたりとも、黙ったまま、静けさのなかで風を感じている。

 遠くに葉桜が見える。あまり広場から離れてはいけないので、道の端っこで桃と緑のそれを眺める。

「……大丈夫、瑞希ちゃん」私は言いながら、顔を覗き込む。

「……気持ち悪かった」

 私達は、気が済むまでそこにいたかった。でも、自由時間がそこまでないことにすぐに気がついて、恐る恐る広場まで戻った。広場に久賀の姿はなかった。集合時間になっても姿を現さない久賀を先生達は捜した。久賀はいつの間にか勝手にバスに戻っていた。座席に横たわって眠っていた。私達が体育座りで先生達を待っている間、ずっと。

 その日の一件から久賀をいじめる流れができた。元々、久賀の振舞いにムカついている子も少なからずいたのが大きかったと思う。というかだいたいのいじめがそういうものだ。前からちょっと変だな、いじめたいなと思われていた子が何か目立つ失敗をしたり、欠点を発見されたりして火が点いて始まるものなのだ。友達の多い人気者が同じ失敗をしたってそこまで咎められないし、そもそも人気になるような子はそうそう迂闊な失敗はしない。

 瑞希ちゃんが他の友達に、久賀に告られた件を話したので、その勢いはさらに増した。囁かれる悪口の種類は増えた。昼休みに寝ている久賀の机を思いっ切り蹴る子が出てきた。運動会のリレーで久賀が転ぶと放課後に体格のいい男の子達に連れて行かれたりしていた。先生が何人かを叱ったが、ほとんど馬の耳に念仏といったところだった。

 勿論、そんな状況を加藤くんが放っておく訳がなかった。加藤くんは久賀を守り、慰め、自分より身体の大きい男の子達を追い払い、落書きを消してあげた。そんなことしなくていいのに、と私は心から思った。久賀みたいな気持ち悪い子はいじめられでもしないと反省しないのに。でも加藤くんは、自分が正しいみたいな表情で久賀の味方をした。

 私達のクラスでは加藤くんに対する反感もじわじわと起こっていった。まあ、隣のクラスのいじめに、呼ばれてもいないのに飛び出てきた加藤くんは、私も正直に間違っていると思う。いじめは悪いことで、いじめを止めようとするのはいいことだってのはまだ理解できる。でも、わざわざ外から来て状況に口出しするのは正しいの?

 正しいんだろうな。加藤くんのなかでは。

 久賀に向けられるはずだった嫌悪感や敵意は、それを阻む加藤くんに進路を変える。放課後、隣のクラスの加藤くんの机が倒され、仰向けになった引き出しに泥水を注がれる。そのまま次の朝が来る。たまたま加藤くんが風邪を引いて休んだらしく、誰も机を直さないまま朝の会が始まると大問題になる。

 緊急の学年集会が行われ、犯人捜しになる。

「皆さん、目を瞑ってください。……加藤くんの机に泥水を注いでしまった子がこの場にいたら、正直に手を挙げてください。誰にも言いませんから」

 誰も手を挙げなかった。

 風邪が治まった加藤くんはしかし行いを改めない。同じような嫌がらせを受けてもなお久賀を助ける。集団で加藤くんを締め上げてみると、加藤くんは先生にそれを報告する。学級会になる。

 何をしても、どれだけ汚れてもどれだけ傷ついても加藤くんの心は全然折れなくて、だんだんみんな、久賀より加藤くんのほうが何倍も気味が悪く感じてくる。そして、三年の冬になる頃には加藤くんへのバッシングにみんな疲れてきて、久賀とセットで無視することに決める。最初からそうすればよかったんじゃないのと私は思ったけれど、私は状況の変化や苛烈をひそかに気にしている瑞希ちゃんのケアに忙しかった。

 二月頃には久賀が学校に来なくなる。

 加藤くんはいつの間にか別のクラスのいじめられっ子に手を差し伸べている。

 


 四年生になる前の春休み中に、地方のお父さんの実家に行くことになる。去年の春休みに行けなかったので、二年ぶりのおばあちゃん家。おじいちゃんは私の生まれるずっと前に亡くなってしまっている。

「正輝(まさき)さんは、本当によく働いて、どんどん出世して。この家を買えたのも、正輝さんのお陰なのよ」

 と広い広いリビングで私を膝の上に載せて、おばあちゃんは楽しそうに言う。おばあちゃんは、『おじいちゃんのいいところ』として『とても勤勉で、優秀だったこと』をよく挙げる。でもそれは本筋ではなく、

「本当によく働くから、すごく忙しい人だったんだけど……結婚記念日と、私や子供の誕生日には、絶対に忘れずに休んでくれたのよ」

 というエピソードこそが、おばあちゃんが本当に言いたいところらしかった。

 つまり、おじいちゃんの好きだったところ。

 他にも色々な『好きだったところ』をおばあちゃんは話すが、毎回繰り返し話してくれるのはこのエピソードだけだった。

 私はおばあちゃんからおじいちゃんの話をきくのが好きで、というかおじいちゃんの話をしているおばあちゃんの表情を見るのが好きで、よくせがむ。おばあちゃんは応えてくれる。そうしているうちにお母さんがお昼ご飯を作ってくれて、私とお母さんとお父さんとおばあちゃんの四人で食べて、食べ終わると私とお父さんで洗い物をして、それからおばあちゃんと散歩に行く。それを毎年やっている。

 でも今年は少し違って、おばあちゃんの家に知らない人がいる。背が高くて髪の毛が少し茶色い男の人と、長い黒髪が背中の大部分を覆っている女の人。

「あ、埜中さん家の方ですか。近所でよくお世話になってる、高松(たかまつ)勇気(ゆうき)といいます」と男の人が私の両親に頭を下げる。「南(みなみ)紗良(さら)といいます。お昼ご飯食べたら帰るのでおかまいなく」と女の人も頭を下げ、長い髪がホラー映画みたいに垂れ下がる。

「この子達、高校退学になっちゃって、共働きで暮らしてるのよ。まだふたりとも十六歳なのに頑張ってるから、私の家でたまにご飯食べさせてあげてるの。いい子達だから、安心して」

 とおばあちゃんが笑うので、私の緊張は少し解れる。

 男の人は私を目に留めると、「君がお孫さんの……優芽ちゃん?」と言って笑顔を向ける。

「はい。埜中優芽です」

「埜中さん……君のおばあちゃんの話によく出てくるよ。可愛くて、いい子だって」

「そうなんですか」

「もー勇気、あんた不良っぽいんだから怖がってるじゃんー」

 と言って女の人は男の人を肘でつつくが、私は別に全然怖がっていなかった。むしろ、この女の人の穏やかなのにどこか威圧感を抱かざるをえない雰囲気のほうがよっぽど怖かった。「あはは、平気ですよ」と言いながら、私はその人の目だけは直視できなかった。目を真っ直ぐ見たいと思えない人なんて生まれて初めてだった。お昼ご飯のとき、おばあちゃんと向かい合う喜びよりも、この女の人と向かい合わせにならなかった安心のほうがよっぽど大きかった。

 食事中の会話で、どうやらふたりがカップルだということが判明した。お母さんはそういう話が好きなのか、色んなことを楽しそうにきいていた。私はやり取りをききながら、ふと、

「あの、ふたりって結婚したいって思ってますか?」

 ときいてみた。

 すると、男の人は照れくさそうに、

「十八歳になったら結婚できるから、そのときにしようって約束をしてるよ」と言った。

「婚約指輪はもらってないけどね」と女の人が付け加えると、

「早く買ってあげなさいね」お母さんはそう言って笑った。「紗良ちゃん美人なんだから、早く輪っかつけておかないと逃げちゃうかもよ?」

「それはありえませんから」

 と女の人が言ったときの、凍てついたような声と表情が、私には時間を停める魔法のようにきこえた。

 お母さんが慌てて、「あ、ごめんね、そうだよね、愛し合ってるもんね」と謝ると、

「はい、ラブラブしてます!」

 と、女の人は隣の男の人の肩に頭を乗せて笑った。

 男の人も笑顔だったけれど、少しだけ引きつっていた気がする。

 男の人と女の人が帰って、おばあちゃんと散歩に行き、夕方にお母さんとお風呂に入った。一緒に湯船に浸かっているとき、お母さんは唐突にこんな質問をした。

「そう言えば優芽、学校で気になる男の子とかいないの?」

「え? なんで?」

「優芽もそういう年頃かな、って思って」

「んー、特にはいないよ。私の周りは好きとか嫌いとか色々あるけど」

「へえ。たとえば?」

「私の目の前で、私の友達が告られたことはある」

「そう。オーケーしたの?」

「してなかったよ。なんも接点なかったから」それから、私はふっと疑問を抱いた。「ねえ、なんでお母さんは男の子のことなんて好きになれたの?」

「え?」

「男の子って馬鹿ばっかじゃん。いい子でも悪い子でも」

「そうだなあ」お母さんは天井を見上げて、「まあ、女の子のほうが成長速いから、今のところは優芽のほうが大人びてるんだよ。そのうち、男の子も大人になってくるから安心して」

「ふぅん……」

 水面の向こうで揺れる自分の太ももを見ながら、私は加藤くんや久賀やクラスメイトの男の子達が自分より賢くなるのを想像してみるけれど、ちょっと無理があった。

 特に加藤くん、あの子は何歳になっても、ずっとずっと大きくなってもいじめられっ子を助けていそうな気がする。もはやその振舞いが、加藤くんそのものになっているような気がするのだ。

 次の日、朝早く起きた私は、郵便受けから新聞を取ってくるために外に出た。家のドアを開けてすぐ、昨日の女の人に出会った。郵便受けに封筒を入れようとしているところで、別に見られてもかまわない場面だったのだろう、朗らかに手を振られた。

「おはよう。えっと、優芽ちゃんだっけ」

「はい。おはようございます」

「優芽ちゃんは年上に敬語が使えて偉いね。まだ十歳くらいでしょ?」

「よく知らない大人と話すときは、丁寧語を使えば問題ないって、お父さんが言ってたから」

「いい教育だね。朝の散歩?」

「おばあちゃんがまだ寝てるので、新聞を代わりに取っておいてあげようと思ったんです」

「優しいね。……じゃあ、ついでにこれも、おばあちゃんに渡しておいてくれる?」

 女の人はそう言って、私に茶封筒を差し出した。受け取ってみると少し重かった。太陽に透かしてなかを見ると、いくらかの硬貨が入っているようだった。

「これ、なんですか」

「昨日のお昼代。近所だからってタダで食べさせてもらう訳にはいかないから。割引料金でしか受け取ってくれないけどね」

「解りました。渡しておきます」

「うん。それじゃあ」

 と言って背を向け、去っていこうとする女の人の背中に私は、あの、と呼びかける。

「ちょっと、ききたいことがあるんですけど」

 女の人は踵を返し、「何?」とこちらを見た。一晩経っても、苦手な瞳。

「あの、その」私は自分のききたいことを、ずっと抱いている疑問を、口ごもりながら頭のなかで形にする。女の人は何も言わずにちゃんと待ってくれる。

 ようやくそれらしい、間違っていない文章ができあがり、それをぶつける。

「好きって、結婚したくなるような好きって、素敵なものだってお父さんが言ってました。それなのに、どうしてその気持ちが誰かを傷付けたりするんですか」

 三奈美ちゃんの好きも、久賀の好きも、お父さんとお母さんの好きも、おばあちゃんとおじいちゃんの好きも。全部、『友達になりたい』じゃない、『結婚したい』に繋がる好きのはずなのに、どうして三奈美ちゃんや久賀の好きは私や瑞希ちゃんを傷付けたんだろう? 嫌がらせや無視を生むのだろう? 私達が未熟だから? 大人の好きは誰かをいじめたりしないの?

「それはね、好きが暴走したからだよ」女の人は、私に向かって、楽しそうに笑った。馬鹿にしてるとかではなくて、この世のとても楽しい物事について語っているような笑みだった。「好きって気持ちが、行き過ぎてたり、変な形だったりすると、誰かを巻き込んで、不幸にしたりするの。でもそれは、好きって気持ちがそうさせてるんじゃなくて、自分の抱いている好きについていけなくて、めちゃくちゃ混乱してるからそうなるの。好きが大きすぎて強すぎて、もしくは個性的過ぎて、正しさとか道徳とかが、その子の頭のなかでぐちゃぐちゃになっちゃった結果、好きって気持ちのために誰かを傷付けたりするの」

「じゃあ、お父さんとお母さんの好きは、そんなに強くないんですか」

「違う違う。まあよく知らないけれど、たぶん優芽ちゃんのご両親の好きは、強くて大きいけれど、ちゃんとついていけてるから平和なんだよ」

「どうしたら、自分の好きについていけるんですか」

「解んない。私も知りたいよ。でもまあ、そうやって恋だの愛だのでぐちゃぐちゃになって誰かを傷付けるのも、悪いことじゃないのはたしかだよ」

「悪いことじゃないって、なんでですか」

「だってしょうがないじゃん。めちゃくちゃ好きなんだったら、そのせいで誰かを傷付けちゃうのくらい許されるべきじゃない?」

 女の人はそう言うと、はい終わり、と手を叩いて、走り去ってしまった。私は新聞を片手に家のなかに戻り、机の上にそっと置いて、それからもう一度、顔を洗った。

 起きてきたおばあちゃんと一緒に散歩をして、帰って朝ご飯を食べて、食器を洗ったらもう家に帰る時間だった。

 おばあちゃんに、またね、と言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る