第10話「赤ずきんちゃんご用心」
その国を表現するための名称は決して少なくない。
神々や人を問わず、それらが生きる時代をも問わず、呼称する者の数だけその呼び名は存在すると言ってもいい。
ある異国の語り部は
後に日本と呼ばれるその国は四方を海に囲まれ、入り組んだ地形、豊かで美しい緑、陸海空を問わず多様性に富んだ数々の生き物に満たされている。
信じようが信じまいが、かつてこの地は一柱の男と、一柱の女によって生み出された。この雄大な自然も、彼らにとっては我が仔そのものなのである。
緑の木々が風によってざわめく森、そのなだらかな坂をその二柱は歩いていた。
男は女の手を引きながら、導くように歩いている。歩幅は小さく、あくまでも彼女のペースに合わせてゆっくりと森の中を進んでいた。
「足元に気を付けろよ、イザナミ」
「ええ、ごめんなさいイザナギ」
イザナミは地中から半分だけ顔を出した小石や木の根に何度かつまづいていた。
誰の手も加えられていない(加える者が存在しないから当然の事だが)森は道らしい道など無く、地面は石がゴロゴロと転がり、雑草も伸び放題。
そんな中でも二柱は手探りの状態でなんとか通れる所を一歩一歩踏みしめながら、目的地を目指して歩いていたのだ。
「もう少しで着くはずだが、疲れてないか?」
「ううん、全然。だってイザナギが見せてくれる場所なんでしょう?楽しみすぎて疲れなんて感じないわ。それに……ここまでの道のりで見えるものも全部が面白いものばかりだもん!」
イザナミの言葉に安心したイザナギはより一層強く大地を踏みしめて歩き続けた。今日までたくさんのことがあったが、この元気さが健在でよかったと思う。
やがて、前方から光が差し込むのが見えた。あの場所こそイザナギがイザナミを連れて行こうとしているとっておきの場所なのだ。
「さあ、もうすぐだ。頑張ろう」
「うん」
イザナギが彼女の手を強く引くとそれに呼応するようにイザナミもペースを上げ、やがて二柱は横並びになった。すると今度は二柱で呼吸を合わせて一歩一歩、木の幹から漏れる光に向かって歩いて行った。
そして坂の終わりまでたどり着き、生い茂る葉をかきわけると高く開けた、崖になっている広場に出た。眼前の光景に目を奪われたイザナミは一瞬で心を奪われ、イザナギを追い越して駆け出していった。
「おい、あんまりはしゃぐと危ないぞ!」
イザナギの制止も聞かず、イザナミはその光景をもっと前で見たいと言わんばかりに足を速めていく。
崖の淵まで着いたところでイザナミは立ち止まり、その景色に心までも奪われ、今度はよりしっかりと見据えた。
「綺麗…」
イザナミの隣に立ったイザナギは彼女の肩に手を置き、その簡単に無言で同意した。
もしこの時代に人類が存在したならば、その光景は誰の目から見ても「圧巻」と形容するほかなかっただろう。
眼下には青々とした緑の森、そしてサッパリとした黄緑の平原が日に照らされて広がり、遠くへ行くにつれて輝きを持っていた。周りを見渡せばこことは違う別の山々がいくつも連なるように寄り添っている。それを包むのは蒼穹の天蓋と、音を立てて流れる白い雲、そしてその切れ目から差し込み、柱のようになっている陽光だ。
「ねえあれ見て。鳥よ!」
イザナミが指さした先を見ると、ちょうど平原のあたりを真っ白な鳥が何十羽も群れを作って優雅に飛んでいた。
だがイザナギの注意は、鳥の方には向いていなかった。
「イザナギ!あれ、何と言う鳥だっけ?」
イザナミの質問によってイザナギは我に返った。
「ん?あ、ああ…何と言ったかな…忘れたかもしれない…」
歯切れの悪さにイザナミは首をかしげたが、新たに別の鳥の群れを見つけるとそちらに目を向けてはしゃぎ始めた。
そんな彼女を見ていたイザナギは多くの事を考えたが、頭に浮かぶのは漠然とした形容だけだった。
「あの頃より、綺麗になったな」
イザナギとイザナミが高天原を離れてから、長い月日が経っている。
あの頃少年少女だった彼らも、時の流れによって今では成熟した大人だ。
二柱とも当時より比べ物にならないほど背が伸びたし、髪も長くなった。イザナギは山肌の巌の如く逞しくなり、森に吹く風のように落ち着いた思慮深い雰囲気をたたえている。イザナミは山の清水のように白い肌、良く熟した果実のように豊かな肢体の美しい女性に成長した。
思えば、高天原にいた頃から随分と変わったものだ。
国土の誕生から愛する我が子らの誕生と成長…。
オオトノヂとオオトノベからもらったセキレイの彫刻があってこそだ。空洞で思いの外軽かったあれには蓋が付いており、中には一枚の紙が封入されていた。そこに描かれていた内容こそが、創世のためのいわば「
あらゆる番の生命体が成す行為。だが、それを敢えて詳しく語る事はしない。
子供達も大きくなって手がかからなくなってきた今では、住まいたる島を離れては自分達の生み出した国土を歩いては探索、調査し続ける日々である。
遠征を何度も何度も続ける中で、彼らは沢山のものを目にした。
例えば、様々な色や形の木々、花々。これは高天原で想像していた以上の多様性で、イザナミはなんども足を止めては一つ一つ凝視していた。
例えば、様々な表情を見せる天気。この地上では基本晴れ続きの高天原と違って空の色だけでなく、天候までよく変わる。雲が天蓋を覆い隠す程に立ち込めたり、大小の水が大量に降り注ぐ「雨」に見舞われたり…。
特筆すべきは、そこに生きる様々な生命達であった。
高天原では見た事もないような珍しい生き物達とその生態にはいつも驚かされる。巨大な二本の牙と耳、器用に長い鼻を扱って水を飲んだり果実を食べたりする四足の巨大動物、神々より高い身体能力を持ち、器用に木々の間を移動する小さな動物。障害決して止まらずに泳ぎ続ける魚。豪奢な装飾品を見に付けたような姿をした鳥。
だが全てが手放しで喜べるようなものばかりではなかった。生命達が食べるのは何も植物だけではない。中には他の生物を殺し、喰らうものもいる。
あの海にいる無数の美しい魚も、一匹の大きなサメに飲まれる。
地を這う蛇はひっそりと忍び寄って、蛙に喰らい付く。
その蛙も、その長い舌を自在に操って宙を舞う虫を瞬時に絡め獲る。
狼なんぞは露骨に同じ地を駆ける鹿を追って、捕まえたら食らい尽くす。
あの白く美しい鳥、鶴だって虫でも魚でも貝でも何でも食べてしまう。
山に鎮座する大きな熊はあの体躯とは裏腹に素早い動きで魚や鹿を食う。
そしてカラスに至っては、これらの生物の屍肉を食らっているのだ。
これを見たイザナミはあまりいい顔をしなかった。しかし決して一枚岩ではなく単純でもないこのサイクルと構造は、この世界を、自然を動かすシステムなのである。
全ての動植物の原種たるウマシアシカビも生物たちがここまでの進化を遂げるなど思っても見なかったろう。今度高天原に帰った時に詳しく説明してやろう、とイザナギは思った。
「…あの子達は、向こうのどの辺りにいるのかしら?」
ふと、海の方を見たイザナミの声に翳りが差した。
「さて、どうだろうな…ここからじゃはっきりとは分からないが…多分あそこだと思う。ほら、あの辺の波が穏やかな…」
遠くまで来たものだけど、必ずしも良い事ばかりあった訳でも無かった。
結局のところイザナギにできることと言えば常にイザナミの傍らにいて、彼女の負担を
イザナギら神の一族が住まいとしている小さな島――――。それもあの日、天の浮橋から降りた二柱が天沼矛で海をこおろこおろとかき回して創り上げた島だ。
彼らはそこを第二の故郷、地上創世の橋頭保とした。そして此処でイザナギとイザナミは婚礼の儀を済ませ、子を成し、生み、育てていった。
彼らの住居、
日が傾きかけた頃、イザナギとイザナミが帰り着くと門の前に1柱の男が座り込んでいた。柵にもたれて昼寝を決め込んでいたようだ。
イザナギは肩をすくめると彼に近づき、その男を軽く揺さぶった。
「カザモツワケ、こんな所で寝てると冷えるぞ」
カザモツワケと呼ばれた男は目を開くとイザナギの顔をじっと見すえた。
「おう、親父にお袋か。もう帰ってたんやな」
カザモツワケは立ち上がると服の埃を払い、大きく伸びをして首をコキコキと鳴らした。
「あっ、頭にも葉っぱが付いてるわよ?」
イザナミがカザモツワケに駆け寄ると髪に付着した葉っぱを払い落とした。
「あ、こりゃ済まんのぅ」
それがこの男の正式な名前だった。現時点でのイザナギとイザナミの子供達の、家宅六神の末弟と言える存在である。
全ての国土の誕生の同時期、それを祝福するように生まれた子が
家屋の土台となる石を司る
家屋の土台となる砂を司る
家屋の門を司る
家屋の屋根にふく藁やら葦を司る
家屋の屋根そのものを司る
家屋の防風を司る
好戦的で性格に少々難があるが、れっきとした家屋の守護神たる彼らにはあるモットーがあった。
それは「
カザモツワケは末弟でありながら家の警備の全てを取り仕切っている(兄姉達の勤労意欲が些か低いのもあるが)ため、兄弟達の中でも「カシラ」のような位置づけになっているのである。
もっとも、まだ小さい末妹(家宅六神とは別の存在)の世話自体は家族総出でやっているのだが…。
「いつもすまないな、いつも家の事を任せっきりで」
「なに水臭い事ゆーとるんや。俺ら兄弟はこの家を守るっちゅーのが
カザモツワケの言葉には、彼の
「それになあ、産んでくれた親相手でも譲れへんもんはある。この家は俺らのシマでもあるんや。取られとうない…というのはワガママかいな?」
イザナギは左手でカザモツワケを制した。
「いや、いいんだ…。そういうことなら、それを尊重しよう」
そう言って二柱は家に入ろうと柵をくぐったが、途中でカザモツワケが「ああもう一つ」と言って呼び止めた。
「どうしたの?」
イザナミが呼び止めるとカザモツワケは言いづらそうにしつつも話し始めた。
「さっきは任せろゆーたが、ククリの事だけは…もうちょい見てもらってもええか?」
まだ小さく、はっきりとしている訳ではないが「物事を括る、繋ぐ」力を司っているらしい。
特に何か問題があるわけではないが、極端なまでに大人しく夜泣きやギャン泣きをすることも滅多になかったため、少し大きくなった今でも少なからず心配されている。
「あいつも嬢ちゃんゆーてもちょいとばかり大人しすぎるきらいがあるんや。俺から見ても何を考えているか分からんところもあるしな。オシオの兄貴も出来る限りは努力してくれるみたいやけど、やっぱり親がどうするかゆーのは大きいと思うで?まあ現状でも問題はないと思うが…ちょっとでもいいから、あの子に構ってやってくれや」
カザモツワケはそこまで言うと一度息を吸い「俺が言いたいのはそんだけ」と言って背中越しに手をひらひらと振った。
「…ああ、分かったよ」
イザナギにはそれしか言えなかった。
その日の夜、イザナギは中々寝付けなかった。
隣では、イザナミが胸を上下させながら寝息を立てている。それを一瞥しながらイザナギは今後の事を考えていた。
国土の創造は成った。様々な生物や植物も生まれた。そして子供達も生まれた。国造りの一応の土台は出来上がったと思う。問題はこれからだ。
国を作れと言っても、実際にこれからどうするか。まず一つ一つ情報を整理して、消去法を用いつつ考えていくしかないだろう。
国を実質的に作るにはもっと多くの命、それもあちこちにいる動物(もちろんこれらも必要だが)とは違う、我々神々のような高度な知性を持った存在が不可欠だ。
ならばイザナミに「もっとガンガン産んでくれ」と言うか?何を馬鹿な、彼女の負担を考えればそんな事言えるわけないし、そうでなくても言いたくもない。論外中の論外。絶対無理。
なら、高天原に行って兄姉達に「子供産んでこっちに寄越してください」と言うか?以下同文。というかそもそも今現在、神々で子を成せるのは自分達だけ。
早速思考が暗礁に乗り上げたイザナギは体を起こし、縁側の外、月と星の綺麗な夜空を見上げた。
「思えば、あの時もこんな夜だったっけな…」
イザナミと地上に降りることを決めた夜。
あの頃からどれだけのものが変わっただろう。どれだけのものが変わらずにいるのだろう。そしてあの頃二柱が思い描いた理想に、少しでも近づけているのだろうか?自分が吐いた大言壮語を、少しでも完璧に実行できているのだろうか?
そんな事を考えている内に、もう少しで夜が明けようとしている。
その時イザナギは夜の天宮に、あるものを見た。
「あれは…?」
東の空、太陽が昇るであろう方角に、今まで見た事もない星を見た。もう少しで空も白み始め星は見えなくなっていくはずなのに。それは無数の星々の中でもひときわ目を引くほどに、たった一つ、なおも輝いていた。
赤く、紅く、朱く。まるで何かを告げるかのように。
祝福か、警告か、それとも…。
夜明けの明るい星の輝きが一層強くなり、どんどん強くなり、視界が光に全て覆われて―――――――――
いつの間にか、イザナギは眠りについていた。
イザナギが目を覚ますと空は既に太陽が昇り、部屋には陽光が降り注いでいる。
「あれは、夢だったんだろうか…」
それにしては、随分と
かと言って夢じゃないと言い張るにもちぐはぐだった。
「気にしてもしょうがないか…」
ふと、同じ布団に収まっているはずの妻を求めて横を見るとイザナミはそこにない。もう既に起きているのだろうか。
部屋の外から騒がしい声が聞こえた。子供達も元気に活動を始めている。どうやら、今日は自分だけ一番の寝坊助らしかった。
家族の集まる居間に出ても、イザナミの姿はなかった。
「上まで散歩して来るってよ」
上とはこの山の頂上の事であろう。
そうヒワケに教えてもらったので、イザナギもそれを追いかけることにした。
山頂まで続く短い坂道、その終わり付近にイザナミの後姿があった。
声をかけてみるとイザナミは振り向き、変わらぬ笑顔を見せてくれる。
「あっ、お寝坊さんが来たみたいね」
「それを言うなよ。変な夢を見ちまったからな。東の空の赤い星がドンドン大きくなって…っておい!先に行くなよ!」
気付けばイザナミは既に駆け出していた。
「えへへ!昨日は手を引かれっぱなしだったし、今日は私が前に出るの!」
「まったく…そうはいくか!」
イザナミの挑戦を受け、彼女を追いかけていると程なくしてすぐ隣まで追いついた。
イザナギの足が速かったわけではない。イザナミが突然足を止めてしまったからだ。山頂の手前、イザナミはそこに立って目の前を見つめていた。
彼女の隣に立ったイザナギは、彼女の様子に気付かず息を弾ませていた。
「まったく…急にどうしたんだ?」
「あれ…何かある…」
イザナミは山頂の広い場所、天の御柱が立っている場所に何かを見つけたらしく、その一点を指さしている。
「ん…?」
イザナミの手を引き、恐る恐る御柱まで近付いてみる。柱の陰に、何かがある。
地面が少し盛り上がり、そこから「それ」が見えていたのだ。
二柱はゆっくりと近付き、御柱の陰から「それ」を覗いてみた。
「!?」
二柱は、柱の側の地面に半分埋まっていたそれを見て、驚愕した。
「何だ、こいつは…?」
そこに横たわっていたのは、一柱の眠れる神だった――――――。
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