第7話「わたしの彼は左きき/たそがれに歩けば」
あの日から朝と夜を幾度か重ね、その日はやって来た。
高天原の一角にあり、普段は誰も近付かないその場所は若草の萌える緑の草原ではなく、薄桃色の霧、もとい雲が足もとに敷き詰められている。
その中心部には川…ではなく大きな裂け目がぽっかりと空いていた。
裂け目の遙か下はまばらな白い雲、そしてそれに覆われたドロドロとして、脂のようなものがものがプカプカと点在している海が広がっていた。
後に「葦原の中つ国」と呼ばれる世界だ。
そしてその大きな裂け目を繋ぐのは、一本の橋。
名前を、「天の
今日この場所には、ミナカヌシを始めとした全ての神々が集まっていた。
普段は勝手気ままに生きる彼らもこの日だけは違う。ある二柱にとっての門出の日だからである。それは兄弟である彼らにとっても重要な意味を持つのだ。
天の浮橋の前に立つイザナギとイザナミは、別天津神、神世七代の全てに祝福とともに見送られようとしていた。
皆が様々な形で激励の言葉を掛けて行く。
ウヒジニはイザナギに「レディーの扱い方を忘れるなよ」と肩に腕をかけて耳打ちし、スヒジニは「あんたらが下でどんなにあっつぅいパッションとラブを繰り広げたって!あたし達は負けないんだからねぇ!!」と目を見開いて迫り、謎の張り合いを繰り広げていた。
ツヌグイは「しっかりやるんだぞ」と簡素だが気持ちのこもった言葉をかけ、イクグヒは「元気でやりなさい」とイザナミの頭を撫でた。
オオトノヂは「いつか帰って来る時は美味いものをたくさん持って来てくれ」とだけ言って二人の肩を叩いた。この巨神の胴はイザナギとイザナミがすっぽり収まってしまう程なのだ。オオトノベはイザナミの手を握り「ナギくんとちゃんと仲良くやってくださいね?困った事があったら帰って来ていいからね?」と涙声でまくし立てた。
「心配しないでください、トノベ姉様。私達は…未来を信じてますから」
イザナミはオオトノベの涙を拭きながら笑った。
「…ううぅ…ぐすっ…」
さて、各々が前向きな祝福の言葉を投げかける中、一柱だけ後ろにひっこみ、泣きじゃくる女神がいた。
「ほらもう泣きやめよ、アヤカシコネ」
オモダルは別れを惜しむ妻神アヤカシコネの背中をさすりながら宥めている。
「だってだって…可愛い弟と妹がいなくなっちゃうんだし仕方ないじゃないの!」
普段、オモダルを尻に敷いている彼女からは考えられない弱りぶりだ。それを必死で慰めている彼が他の神々には、珍しくとても大きく見えることだろう。
「二度と会えなくなるわけじゃないんだから…ほら涙を拭けって!笑って見送る約束だったろう?」
「うっさいわね!涙が出るものはしょうがないっつってんでしょう!」
アヤカシコネは右手を大きく振り上げ、後ろにいたオモダルの顔にそれを勢いよく叩きつけた。
「ぐふぉっ!!」
彼女の拳はオモダルの鼻っ面にクリーンヒットし、彼に盛大に鼻血の弧を描かせた。
「け、結局俺はこういう時にもこんな目に…」
アヤカシコネはオモダルの必死の抗議の声を無視してイザナミに駆け寄る。そして有無を言わさずに彼女を抱き締めた。
「ね、姉様…苦しいですわ!」
「イザナミ…ごめんね、ごめんね…貴方達にこんな重荷を背負わせちゃって…私が代わってあげられたらどんなにいいか!」
「何度も言ってるでしょう?これは私達にしかできない事で、やりたいと思ってる事でもあるんです。姉様は悪くありません…」
イザナミは姉の美しい金色の髪を優しく撫でた。かつて自分自身がそうしてもらった時と同じような手つきで。
イザナギも彼女の肩に手をかけた。
「そうだ、シコネ姉さん。どうか信じてはくれないか?俺達の、この世界の内に眠る可能性を」
イザナギの言葉にアヤカシコネは抱擁を解くと涙を拭き、赤い目で不敵に笑った。
「しょうがないわね…ならこっちも言わせてもらうわよ!大言壮語を吐いたからにはしっかりやって…末永く幸せになりなさい。私達の誰よりも」
不敵な笑みは、優しい微笑みに変わっていた。
皆がずっと別れを惜しんでいたがっているが、その時は訪れた。
「そろそろ時間だ」
タカミムスビが告げると、皆一斉に静かになった。全員が神妙な顔つきでこの門出の儀式を見届けようとしている。
今日という日はひとつの時代の終わりであり、豊かな創造の時代の始まりでもあるのだから。
タカミムスビは彼らを一瞥すると一歩前に出て話し始めた。
「とうとう、この時が来た。お前達二柱はこれから、だれも踏み入れたことのない世界へ足を踏み出し、誰も成し遂げた事のない大きな役目を果たしに行く。我々にしてやれることはとても少ないが、せめて今は労いと、感謝と、祝福の意だけを贈らせてもらう」
そう言うとタカミムスビは小さく頭を下げた。
「お前たちの仕事には大きな意義がある。それはミナカヌシの意志を、ここに生きる全ての命の意志を繋げる事になる…引き合い、結び合い、新たな何かを生み出す力を宿す、お前達『誘う者』だからこそできる仕事だ。それを胸に刻め!いいか、思うがままに生きて、そしてそこで感じた想いを未来へと渡し続けろ…俺が言いたいのは、それだけだ」
威厳があって鋭いが、温かみに満ちた激励を聞いたイザナギとイザナミは表情を引き締めた。
「…はい!」
「ああ!」
すると今度はニヤリと口角を上げながらカムムスビが前に出てきた。
「まったく、相変わらずお堅いねえこいつは。さて、堅い話はこれ位にして…」
カムムスビがパンパンッと手を二回叩くと、アメノトコタチとウマシアシカビ、クニノトコタチとトヨクモノがそれぞれ何かを持って前に出てきた。
「あの、これは…?」
イザナミが不思議そうに尋ねた。
「あんたの嫁入り道具、みたいなものだよ」
カムムスビは歯を見せて笑うと突然、飛び跳ねてクルリと回って見せた。
「さあて、イカレた嫁入り道具を紹介するぜ!」
まずはウマシアシカビが前に出て差し出したのは何かの木の苗が入った鉢と、細長い木箱であった。
「ホレ、取ットケ」
ウマシアシカビはイザナギの腕にポンとそれを収めた。
「これは?」
イザナギの問いに答えるようにスヒジニが前に飛び出した。
「その箱はねえ!ダーリンがいつも淹れてくれるお茶に使う葉っぱの詰め合わせででぇ!木の苗はなんと!なんとぉ!」
スヒジニは両目を思いっきり見開き、イザナギの眼前に詰め寄った。イザナギはそれに若干引いてしまっていた。
「この茶葉と!!!桃が成る!!!!それはそれは珍しく、素晴らしい木なの!!!!!!よろしくって?????????」
「あ、ああ…十分分かったよ…」
「ツー訳ダ、トットトヒッコメ」
ウマシアシカビは話し足りないスヒジニの肩を掴む。
「あーちょっとまだ話足りないのよこの木とダーリンの素晴らしさを刻み付けるまでは終われないってテメエ後で覚えてやがれええええええええええ!!!」
スヒジニの心の叫びも虚しく、彼女はウマシアシカビに引きずられて後ろに下げられてしまった。
次に前に出たのはアメノトコタチだ。その手に持っているのは先程の桃の苗とは違うが、同じ植物には違いなかった。
「こいつはツヌグイとイクグイからだ。もし地上に降りたら、最初の場所にこいつを植えるんだ。そうすればこいつはみるみると伸びて、俺達に見えるまでになるだろうさ。お前らが元気だって事、見せてくれよ…と、ツヌグイが言ってたぜ?」
トコタチはニヤニヤしながらツヌグイの方を一瞥すると、本神は焦ったように「ふん」と目を逸らした。
イクグイは「素直じゃない奴…」と失笑するだけだ。
イザナミはそれを受け取ると満面の笑顔でツヌグイを見た。
「兄様!ありがとうございます!大好き!!」
トドメの一撃が、鉄面皮と評されるツヌグイにクリティカルヒットを与える。ツヌグイはそっぽを向いたまま「んんっ」と何かを堪えるような小さなうめき声をあげた。
「なに悶絶してるのよ、このムッツリ」
「ぐふっ!」
イクグイの肘鉄もまた、ツヌグイにクリーンヒットした。イザナミの笑顔が精神的になら、こちらは物理的に。
「な、何故俺がこんな目に…こういうのはオモダルの役目だろうに」
脇腹を押さえながらツヌグイは不服の声を絞り出した。その脇で「え?俺何気にディスられてんの?」と言わんばかりの呆気にとられた顔をしているオモダルを差し置いて、である。
「まあ俺は、と言うか俺たち全員がお前らの壮健と幸せを祈ってるぜ?忘れんなよ」
トコタチはニカッと笑うと二柱の頭をわしゃわしゃと撫でた。
次に出てきたのは、神世七代の母ともいえるようなトヨクモノ、である。
「これはオオトノヂとオオトノベから…」
トヨクモノはイザナミの手を取ると、懐から何かを取り出して彼女の手のひらに乗せた。それは
「これは…?」
「これはね、セキレイって言う鳥をかたどった物よ。貴方達二人が仲良く暮らすための助けになるし、創世にとっても重要な意味を持つの。ね?トノベ」
「へっ?ああ…ええ…まあ、そうですね…」
トヨクモノに呼ばれたオオトノベは顔を赤らめ、明後日の方向を見て言い淀んでしまった。イザナミにはイマイチ理解できていないようで頭上に疑問符を浮かべている。
それにしびれを切らしたオオトノヂが前に出た
「何だ、言いにくいなら俺が言ってやる。そいつは―――――」
「わ―――――――!!!ダメですダメです!!!!まだ早いですから!!!」
オオトノベはオオトノヂの口を塞ぎ、言葉をさえぎってしまった。それを見たトヨクモノは「あらあら」と微笑ましそうに見ている。
「とっ、とにかく!!今はまだ言えませんっ!!然るべき時には役に立つ、とだけ言っておきます!!それまでは…えーと、お守りだと思ってください!!!」
オオトノベは息を切らせて言い終えた。
これを見ていたイザナギとイザナミは互いの顔を見て首を傾げ、トコタチはウマシアシカビとカムムスビの顔を見て必死で笑いをこらえ、タカミムスビは眉間にしわを寄せ「困ったもんだ」と唸っている。
さて、最後に出てきたのは神世七代の長、クニノトコタチだ。
「これはオモダルとアヤカシコネからの贈り物だ」
オモダルはそれを聞いて待ってましたと言わんばかりのドヤ顔をかまして無言のアピールを飛ばしていたが、アヤカシコネの「顔がうるさいわよ」と言うドスの効いた警告によって一瞬で小さくなってしまった。
それに気付かないクニノトコタチは説明を続ける。
「これは君達にとって最も重要な道具と言える」
そう言ってどこからか取り出したのは、とても大きく、長い棒に三角の鋭利な物がくっ付いた道具だった。
「
トコタチは天沼矛をそっとイザナギに手渡す。
手の上に乗せられた瞬間、ずっしりとした重みを感じたが、持てない程ではない。
矛そのものの重さよりも、そこにみなぎっているであろう莫大な神力がそう感じさせているのかもしれない。
「これで…地上の創世を…」
イザナギは矛を両手に握り、天にかざしてみた。刃が日の光に反射して凛とした光を放っている。それを彩るのは、矛に巻き付けられたいくつもの鮮やかな宝石と、柄に刻まれた複雑だが美しい紋様だった。
「全部、私達のお手製なのよ。綺麗でしょう?」
アヤカシコネが腰に手を当て、誇らしげに笑っている。オモダルもこの時ばかりはボケることを忘れ、誇らしげに、優しく笑う。
「ただ強大なだけの力じゃない。細部に至るまでお前たちへの想いがこもっている」
「ああ、恩に着るよ。兄貴」
するとイザナミは矛を握っていたイザナギの手に自分の手を重ねた。
「イザナミ?」
「これは、私とあなたの二人で持っていきましょう?国を生むための道具なんだから、二人で分かち合うの」
イザナギは頷き、片手を彼女の手に乗せた。
全ての贈り物が渡され、今度こそ別れの時がやってくる。
ミナカヌシが前に出て二柱に門出の言葉を贈るのだ。
「いよいよだ。私から言えることは…あまりないね。もうみんなが十分に代弁してくれたから…でもいくつかだけ言わせてほしい。まずはこんな大役をまだ若い君達に任せてしまう事を許して欲しい。だからその代わりと言うのも何だけど、せめてもの手向けとして、この贈り物達を君達に渡した。どうか忘れないで?君達は二柱だけかもしれないが、決して孤独ではない事を。私達が、みんなが、みんなの想いがきっと助けてくれる、守ってくれるはずだから…だから…」
そこで言い淀んだミナカヌシは二柱に近付き、その両腕で彼らを抱き寄せた。
「だから、安心して生きて欲しい」
そう二柱に囁いた。
大丈夫、私達が側にいる、たとえどんな苦難が襲って来ても。
どうか二柱とも、この世界を愛して。幸せになって。
「愛しているよ」
ミナカヌシのこの上なく優しい言葉が、イザナミの頬に涙を伝わせた。
「ありがとう…ミナカヌシ様」
ミナカヌシが長い抱擁を終えると、イザナギとイザナミは意を決したように彼らに背を向け、それぞれ片手で矛を持って、天の浮橋に向かって歩き始めた。
橋を渡り、ちょうど真ん中のあたりまで来ると、裂け目は音を立ててゆっくり変化していった。対岸からは引き離され、橋の先は宙ぶらりんになった。
すると今度は橋そのものが音を立て、向こう側が変形し、下に向かって伸びていった。ある程度の長さまで伸び、足場となる雲まで届いた所で止まった。
「行こう、イザナミ」
「勿論よ、イザナギ」
二柱は地上に向かって歩を進めた。
一歩一歩、踏みしめるように歩いて行った。その度彼らは慣れ親しんだ高天原を離れ、まだ見ぬ地上へ近づいて行く。
「ところでイザナギ?」
「何だ?イザナミ」
「あなたって、もしかして左利き?」
イザナミからの唐突な質問にイザナギは首をかしげる。何故突然利き腕の話を始めたのだろう。
「前から気になってたのよね。みんな右で道具を使うけど、イザナギは左で使うから…この矛だって、さっき左手を軸に持ってたでしょ?」
「そう言えばそうだな…気付かなかった。それにしても、俺が左でお前が左か…」
「わたしの彼は左きき、か…」
「ああ、それにしても…」
「ん?どうしたの?」
イザナギはフッとほほ笑んだ。
「いや、なんでもない…」
まるで互いを補い合っているようだ、と言いかけたイザナギだったが「あえて言う必要はあるまい」と思い、言葉を微笑でかき消してしまった。
「それよりほら、あれを見ろよ」
イザナギが背後を見るように示した。
「行ってらっしゃい!」
「頑張れよ!」
「いつでも帰ってきていいぜ!」
「元気で!!」
背後からは、自分達に全てを託してくれた愛すべき者達の見送る声が。
イザナギとイザナミは振り返ると、手を振って彼らに無言で答える。
神々は一組の男女に向かって手を振り、祝福の言葉を贈り続けていた。
彼らが見えなくなるまで、いつまでも、いつまでも…。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます