第6話「わたしの彼は左きき/イザナミの楽園」

イザナギとイザナミの寝床となる部屋は神々の屋敷の外れにある。8畳程度の至って簡単な作りの和室であり、中央には布団が二つ並べてあるだけ。

アヤカシコネはもっと何かを飾って彩りを加えればいいのにと言うが華美をあまり好まない、と言うか関心を持たない二柱にはこれだけで十分だった。

イザナギは縁側に座り、宵闇の空、高天原が作られる前から輝き続けているという星々を眺めていた。

日が落ちて黒く染まった空を照らす無数の星々。それは日中、高天原に咲き乱れる花々の輝きをそのまま空に投げて散りばめたような光だった。


そんな光の砂漠に向かって手をかざしながら、手を握っては開いてを何度か繰り返す。それはいつの時代、どこの世界でも、遠くに何かを望むあらゆる老若男女が本能に導かれるように行う行為ではなかっただろうか。


イザナギは無意識にそれをしながら、今日一日の出来事を反芻していた。

イザナミ―—――。自分の半身ともいえる妹神。誰よりも大切なひと

いつものように彼女と行動し、一緒に戯れた。いつものようにふざけ合っていた。いつものように笑っていた。

そして、突如タカミムスビから呼び出された。そしたら今度はおったまげた事に地上へ降りて国を作れと命じられた。

地上の創造。

以前から神々の間でその話が持ち上がっていたのは小耳にはさんでいたが、こんなにも早く、しかも突然に事が進むだなんて思ってもいなかった。

極めつけが、自分達に創造神となれ、だ。



「創造、か…」


イザナギは思わず不器用な思考の果てにひり出された貧困な言葉を声に出していた。

あまりにも急な事だからこんなとりとめのない言葉しか出てこないし、いくら物事を冷静な思考のフィルターにかけてみても不安しかない。

それに輪をかけるようにのしかかってきた事柄が、イザナミとの婚礼。

婚姻。結婚の儀式。

結婚。夫婦になる事。

イザナギはとりあえず頭の中でこんがらがっている情報を一つずつ整理しようと試みた。しかし、思ったほどの効果はないようだ。

今度は余計なモヤモヤを少しでも排してみようと大きく息を吐いてみる。やはり効果はなく今度は心なしか頭が重くなったようだ。ああ、何をやっても焼け石に水。

しまいには無意識の内に顔を両手で覆っていた。それは心がいっぱいいっぱいになった者が自己を守るために取るように何者か構築プログラムした(きっとミナカヌシではないだろう、さらにその上にいるであろう存在(実際にいるかどうかは別として)とイザナギはぼんやりながら思っている)ものなのか。

証明しようがない、根拠すらない無意味で無駄な推測だ。



やがて、思考の霞を破るように後ろからふすまを叩く音が聞こえた。

「イザナギ?まだ起きてる?」

ふすまにさえぎられているがはっきりとわかる大切な彼女の声。いささか張りつめていた彼の心を緩ませるには十分すぎた。

「入って、そっちに座ってもいい…?」

イザナミはわずかに開けたふすまからそっと顔をのぞかせ、不安気な顔でこちらを見ている。

「ああ、勿論だ。こっちへおいで」

イザナギはあくまでも余裕のある優しい声色を作って彼女に手を差し出した。まるで迷い、教えや道標を欲する子を導く親、兄姉のように。実際に導かれたがっているのは自分自身だというのに、という自嘲を抑えつつ。

イザナミは兄の導きに応えるように部屋に入ると、親の顔を覚えたばかりの子鳥のようにひょこひょことした足取りで部屋を横切り、縁側のイザナギの横までたどり着き、ちょこんと座り込んだ。

「よいしょっと…」



しばらく、無言のまま並んで座っている二柱。それでも時は静かに、絶えることなく流れていく。

どこかで虫たちが鳴き声を響かせ、草木が囁くように擦れ、遠くの川で水が流れる。その場の空気を支配するように幾つもの音が重なっていた。

イザナギもイザナミも、音の層を破る一言を発せないでいる。どうしても最初の一言が見つからないのだ。長いこと共に過ごしてきた彼らだが、今日ほど会話に困った事は無い。何しろいつも快活で自分よりもずっと積極性に満ちた彼女が、目を伏せてこんなにも押し黙ってしまっている。

イザナギは、この停滞した状況を打開する一歩を踏み出そうと決意した。

が、いざ喉を震わせようとしても気の利いた一言が全く頭に浮かばない。


「ずっと星を見てたの?」

遅かった。最初に声を発したのはイザナミの方だった。まったく男というのはこう言う時に情けなくていけない、とイザナギは敗北感と無力感を抱えながら自嘲した。

「ああ、ここから見る夜景は中々悪くないからな」

「それには私も大いに同意。ここから見える全ての色と物と音が何にも言わず、決して変わらず私達を見守って包み込んでくれる…そんな感じがするんだ」

「見え方や細かな部分は毎日それは少しずつ変われど、本質はいつも同じ。だからこそ美しく映るのかもしれないな。少なくとも俺達二柱の目には」


彼女の感性の、何と美しいことか。イザナギは物憂げな彼女の横顔に見とれながら思った。イザナミは物心ついた頃からその容姿の如く美しい精神の持ち主だった。

勿論、ミナカヌシら神々にこの上ない愛情を持って育てられたのもあるだろうが、根っこの部分は彼女自身が持って生まれたものだろう。

イザナミは何にでも美点を見出し、それを尊んだ。見るもの、聞こえるもの、感じるもの全てに。いつだったか、多分だいぶ幼かった頃だと思う。何気なく追いかけっこに興じていた時、勢いが余って派手に転んでしまい坂の下まで転がり落ちてしまった事がある。それこそ今日のように。一つ違うのは、雨上がりでぬかるんでいた地面に突っ込んで彼女自身の全身をドロドロに汚してしまったことである。

しばらくピクリとも動かなかったイザナミだったが、イザナギが駆け寄った瞬間ピンと跳ね起きて側にあった水辺をのぞき込んた。そして水面に映った自分の泥だらけの顔を見て大いに吹き出し、勝ち誇ったように笑っていたのだ。

「これはここまで逃げ切った名誉の勲章よ!」

と、顔中の泥を吹き飛ばさんばかりの眩しい笑顔をたたえていたものだ。

あれからどれ程か分からないほどの時が流れて、彼らもお互いに成長した。

考え方も感じ方も少なからず変わっているだろうが、今の彼女はどうなのだろうか。

何しろこれからまだ見ぬ新世界へ降り立ち、自ら育てようというのだ。自分はいざ知らず、イザナミはどう変わってしまうのだろう。


「地上に降りても、こんな景色が見られるのかな」

ここで本題を切り出したか。イザナギは思った。

「さあ、どうだろうな…俺には想像もつかんよ。地上だの創世だの言われても全然しっくり来てないしな。まったく自分の発想の貧困さが嘆かわしいくらいだ」

「イザナギっていっつも物静かで色んな事考えてそうで案外ボーっとしてること多いし、何にも考えてないもん」

「それは…違うぞ?違うからな?」

イザナギは少し必死そうに否定した。

「否定するならもっとハッキリ言えばいいのに、きっと図星なのね」


イザナミが厳しい一言を言うと、少し間を置いて二柱ともほぼ同時に吹き出した。

音の中に、男と女の笑い声が加わった。

「ところで」

イザナギが話題を変えようと切り出した。

「ん?何?」

「地上行きを承諾した時、お前は何か言いたそうにしてたけどあれはどういう意味なんだ?」

「あー、やっぱそこを突いちゃうか…」

イザナミは気まずそうに頬をかいて視線をそらした。

「さっきの仕返しだ。このぐらいいいだろ?」

イザナギの表情はいつもより意地の悪そうな微笑だった。こういうのを所謂してやったり顔、ドヤ顔と言うのだろうか。イザナミは「こいつこんな表情も出来るのね」と内心意外に思いつつ、反撃に出ることにした。


「ねえイザナギ」

突如、イザナミの真剣な眼差しがイザナギを捉え、彼の頬をそっと柔らかな両手で包み込み、互いの鼻が触れるかどうかの距離まで顔を近づけて囁いた。

「わたし、あなたの事が好きよ、大好き」

「…急にどうしたんだ?イザナミ」

イザナギは右手でイザナミの右手に触れつつ、あくまでも宥めるような声で言った。しかしそこにはわずかながら動揺の色が見られた。イザナミは構わずに両手を彼の頬からずらし、指先で唇に触れてから顎を伝わせ首筋を撫でるとそのまま腕を首の後ろに回した。

「ここを離れて地上に降りた後でもずっと変わらずにそうある事が出来るかしら?」

「何故そう思うんだ、そんな事は論ずるまでもない。出来るとも」

イザナミはイザナギを見つめていた視線を下ろすと、額を彼の肩口にそっと埋める。そして、指で彼の首元の襟を掴んだ。

それはまるで表現しようのない内なる、見えざる何かを絞り出す代替行為のように。

「私ね、あの時『地上に降りればイザナギとずっと一緒にいられるから』って言おううとしたの。流石に不謹慎かなーって思って言わなかったんだけど。それにね…」

イザナミはそう言いかけて少し間を置いてから思い切るように話した。

「一瞬、不安にも思っちゃった。そんな保障どこにあるんだろうって。ただでさえ最近は色んな事が変わって来てしまっているのに」

イザナギは一瞬首を傾げた。

「ここから見える景色ならいつも変わっているじゃないか、…違うのか?」

「そうじゃない、もっと根本的な部分がよ。例えば…あなたへの想いとか」


言うまでもなくイザナミは、イザナギの事が好きだった。それは生まれた時からずっと変わっていない。だがそんな曇りなき無色透明な感情も最近では複雑な文様を描くようになっていたのだ。それこそ今日の昼間に戯れていた時に覚えた高揚感にも似た違和感のように。

彼女はイザナギに対してどうしようもなく心を奪われていた。時には高天原や、他の神々をも忘れてしまう程に。同時に、彼に全てを捧げてもいいとも思っていたし、彼を自分だけのものにしたい、もっと深くつながっていたいとも思った。

件の呼び出しの後、イザナミはカムムスビにこのことを相談しに行った。彼女はそれを「恋」と教えたがイザナミ自身にはピンと来なかった。寧ろ余計に彼女の思考により大きな荷物を背負わせる結果となっていた。

当のカムムスビは「いずれ貴方達にも分かるさ」と微笑んでイザナミの頭を撫でるだけだったという。


「もう訳が分からなくなって、自信がなくなってきちゃった…。こうやって何もかもが変わってしまって…」

イザナミの声は次第に涙声になっていった。

「大好きなものも大事なものも全部変わって、いずれは終焉おわりが来て無くなっていっちゃうのかしら…って」


イザナギは彼女の胸の内を理解し、それと呼応するように胸を痛めた。同時に自分の無力さを無言で責め、嘆いた。

イザナギは彼女の背に腕を回し、これまでに無いほどに強く抱いた。彼の内には腕の中にいる愛する者の苦しみを遠ざけてやりたい、それが叶わないのならそのすべてを肩代わりしてやりたい、それでもだめならその半分だけでも預かって共有してやりたいという想いが泉の水のように湧きあがってきた。これから先、ずっとそうしたい。そうしなければならない。


「イザナミ」

兄は妹の耳元で囁く。

「たしかにお前が考えている通り、世界のあらゆるものは変わっていくかもしれない。けど、変わりはしないものもあるはずだ。さっきも言っただろう」

イザナギの指で顎を摘まれ、顔を上げられたイザナミの瞳は涙に濡れ、外の星空に似た模様を描いていた。

「この景色のように細かな部分は変われども、本質は変わらないと…地上でもきっとそうだと、少しでも信じてみようとは思わないか?」

二柱は再びこの夜景に目を移した。

「みんなと離れることになろうが、少なくとも俺は絶対にお前の側にいる。約束してもいい。これで一つ変わらないものが出来た。お前の俺への想いだって、何だかんだ言っても根底は同じだろう?これで二つ」

再びイザナギはイザナミに向き直った。


「それに、これから先何がどう変わろうと、それは失うことや無くなる事じゃない。何もなかった場所に新しいものが生まれてくるだけの話だ。この高天原が創造された時のように!ミナカヌシ達は、今日までの瞬間瞬間を肯定して、未来をも信じているはずだ」

涙に濡れた目をイザナミは指で拭い、微かに微笑んだ。彼女の心に立ち込めていた霧は静かに晴れ、肩に乗っていた重荷は下ろされようとしていた。

「俺達もこの現在いまを肯定し、何があろうと未来をあきらめずに信じて生きて、次に繋げて渡せたならば…きっと」

一呼吸おいて、イザナギは言い切った


「お前の愛するこの世界は、きっと美しく在り続ける、と思う」


「うん…イザナギ、ありがとう」


既にイザナミの目から悲しみの色は消え、希望と喜びの色に変わっていた。

「イザナミ、今までお前の不安を解いてやれなくて済まなかった。だが俺達はまだ何も終わりはしない」

兄は立ち上がり、妹の手を取る。

「ううん、まだ始めてもいない!」

妹は兄の手を取って立ち上がる。



「きっと、これからが始まりなんだ!」

そして、二柱は見つめ合い、互いを抱き締めた。

身体だけでなく想いも、願いも、夢も、全てを抱き締めた。



この夜、二柱はひとつの布団でずっと抱き合っていた。

そして夜通し語り合った。地上の事を、地上に生まれる全ての事を。


「ねえイザナギ、地上ではどんな花が咲くかしら?」

「きっと見た事もない色の花だろうな」

「じゃあ、地上ではどんな鳥が飛ぶかしら?」

「きっと見た事もない翼の鳥だろうな」

「じゃあ、地上ではどんな音が聞こえるかしら?」

「きっと聞いたこともないような音だろうな」

「じゃあ、地上ではどんな匂いが嗅げるかしら?」

「きっと嗅いだこともない匂いだろうな」


じゃあ地上では…。

きっと…。

じゃあ地上では…。

きっと…


そんな問いかけと答えをずっと繰り返していた。イザナミはきっと、この夜を永遠に忘れはしないだろうと思った。

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