第4話「エデンの夜に」

太陽が沈み、一日が終われば高天原にも夜というものが訪れる。青と白が一面に広がっていた空はやがて橙色に染まり、無数の星灯りを散りばめた黒に覆われる。

ミナカヌシは一人、草原の上を歩きながら夜の空を見上げていた。

この夜空だけは、高天原が作られる前とあまり変わっていない。

しかし、よく似た景色だとしてもその見え方も見た時の感じ方もまるで違っていた。当時はあのくらいの夜空が寂しく思えていたし、恐怖すらも覚えていた。

誰もいない絶望と孤独に心をさいなまれていたからかもしれない。

だが今では美しくて、幻想的で、愛おしくすら思える。

小さな星の一つ一つが、花々の艶やかさが太陽の光に反射して放たれる小さな輝きによく似ているし、それが夜の紺と黒の間に絶妙なコントラストを作り出している。


もちろんこれも要因の一つには違いないだろう。しかし一番は創世の時に満天の星空の中に加わった「それ」のせいかもしれない。

星達の中にひときわ大きく、飛び抜けて美しく輝く丸い球が浮かんでいる。

神々はあれを「月」と呼んでいた。

太陽が沈み、色を失った夜を手を差し伸べるようにそっと照らし、暗く沈んでいる心さえにも寄り添ってくれる、そんな存在感を持っていた。「主に夜に活動するものを除いて、多くの命がゆっくり眠りに落ちる事が出来るのはあの月のお陰なのかもしれない」とミナカヌシは考えていた。


やがてミナカヌシは足を止めると、視界に穏やかに流れる小川を捉えた。

水辺に近付き、しゃがんでのぞき込む。そこには月に照らされ水面に反射した自分の顔が映っていた。

ミナカヌシは誰よりも美しく、優しさと慈愛を湛えており、それはまるで母性に溢れた女性と誰もが一度は見間違える程であったが、その口から出てくる声は明らかに男性のそれだ。

彼の者は水をそっと掬い上げて一気に顔を洗った。

高天原の水は下界のドロドロとした海とは違って透き通っており、潜ってみた時の感触も全く違う。まるで心身共に清められているようだ。


「ようミナカヌシ、ここにいたのか?」

後ろから声をかけてきたのはアメノトコタチだった。

「ああ、アメトコか。どうしたんだい?」

アメトコというのはアメノトコタチのあだ名だ。

「どうしたもこうしたもねーだろ。もうすぐ会合が始まるって言うのにあんたがプラップラしてるからタカミムスビがおかんむりなんだよ」

「あれ、今夜だったっけな…」

アメノトコタチは眉間を押さえつつ溜め息をついた。

「おいおい頼むぜ?前から散々言ってたろう。原初の神がそんなんでどうする気だよ。もうクニトコもおトヨさんも揃ってる。全員あんた待ちなんだ。それにさっさとあんたを連れてこないと俺までタカミムスビにお小言を食らっちまう」

「分かったよ、私が悪かった。さ、行こうか」

ミナカヌシは母鳥の後ろのヒヨコのような足取りでヒョコヒョコとアメノトコタチについて行った。

歩きながら彼の者は再び夜空を見上げる。

思えば最近はこの夜空も一層賑やかになった気がする。見えているのは星や月だけじゃない。色んな形や模様をした天体が散らばっている。

木目のような模様をした星、大きな輪っかに囲われた星、赤、青、緑と色とりどりの星。どれも目を奪われるようなものばかりだ。

きっとこれからもこの空模様は時と共にガラリと変わっていくだろう。

今日の会合はその行く末を左右すると言っても過言ではない。それを思い出したミナカヌシは改めて襟を正される思いになり、足取りを直してキビキビと会合の場所へと歩いて行った。



「さて、これで全員そろったか」

暗い部屋――。そこには中央の炎の灯りを囲うように7柱の神々が鎮座している。

別天津神の5柱に加えて、新たに2柱の神がこの場に加わっていた。

彼らの集まっているこの屋敷は高天原創造の直後、初めて彼らが集った脂の足場があった場所に設けられた。

世界を導く拠点であり、自分達が歩んだ道標、記念碑モニュメントのような意味合いも込めて―――――。

美しく、荘厳でありながらある種の禁欲的な部分も孕んだ建築様式は、高天原でもひときわ目を引くポイントになった。


「今回、この集まりを開いたのは他でもない。我々と、この世界の今後について、改めて真摯に話し合うためだ」


会合を取り仕切っているのはタカミムスビだ。創世以来、彼が神々における実質的な指導者リーダーとしての役割を担っている。

厳密に言えば彼は元来、ミナカヌシに続く№2のはずだった。

しかし当のミナカヌシは所謂カリスマ、発言力こそあれど主体性や行動力には乏しいと言わざるを得なかったのだ。

だが決して無能と言う訳ではない。彼の者はただ優しすぎたのだ。今では特権と言うものを行使しようとしない、後の世で言う『象徴』と言える立場に収まっていた。


カムムスビもまた無能と言う概念とは無縁である。かと言って、指導者の座に躍り出るようなタチでも無かった。彼女はあくまでもタカミムスビの補佐、アドバイザー、相談役と言える地位でいる事を望んでいる。

本神曰く「力ある者の首に縄を付けているのが楽しい」とのことだった。


「俺達はかつて世界と共に生まれ、今日まで同じ時間を過ごしてきた。そして今では我々の作り出したこの高天原も大きく発展を遂げた」

タカミムスビが部屋の中央に向かって指を鳴らすと、灯りの上に幻影が現れる。

幻影の上部には円盤のようなもの、下部には球体が映し出されている。


「そこで今回は、この問題の提案者であるクニノトコタチ、トヨクモノに参加してもらっている」

タカミムスビが腕で指し示すと、そこにいた2柱の男女神は立ち上がった。


「皆さん、まずはこの場への参列をお許しくださったことを感謝します。少しでも大いに有意義な会合になるよう努めていく所存ですわ」

真っ先に立ちあがって朗々とした声でお辞儀をしたのは7番目の神、豊雲神トヨクモノだった。

アヤカシコネのような成熟した女神より少し貫録を被せたような威厳を持ちつつ、長い髪を後ろでリボンでシンプルに留めただけの素朴さを持った雲の女神だ。

挨拶を終えたトヨクモノが座ると、今度は隣に座っていた青年が口を開く。

「あー、うん…ご紹介に預かりましたクニノトコタチですー…ってみんなとっくに知ってるか…」

クニノトコタチの言葉はどうにも歯切れが悪く、頼りなさげだった。


「オイオイ、今日ノ主役ガソンナンデドウスンダヨォ?オメェサン、チャント『タマ』付イテンノカ~?」

「いやぁ申し訳ない、私はこういう場所が不慣れでね…ハハハ…」


ふんぞり返ったウマシアシカビの茶々をクニノトコタチは軽く笑って流し、タマはあってないようなものなんだけどな、と心の中で付け加えた。

「ッタクヨォ…オトヨサン、アンタモコイツの『ツレ』ミタイナモンダシシッカリと『タマ』握ットクベキジャアネーノカ」

ウマシアシカビに話を振られたトヨクモノは笑顔を崩さずに答える。

「あらぁ、ウマシアシカビさま。いけませんわよ、ここには淑女レディもいらっしゃるんですから…」

次の瞬間、トヨクモノは左の拳を開き、パキポキと音を鳴らした。


「おイタが過ぎるとカビのレベルまで粉々に握り潰しちゃいますよぉ?」


表情は笑顔に違いなかったが、目は冷たく、全く笑っていなかった。

もっとも、ミナカヌシを始めとした「別天津神」も「神世七代」の代表たるクニノトコタチ、トヨクモノも「独神どくしん」であったため、現在で言う男女という括りもほとんど意味を成さないのであるが。


彼らのやり取りをタカミムスビのわざとらしく、殆ど咆哮にしか聞こえないような咳払いが打ち消した。

もはやいつものように説教をするのも面倒になってきたようだ。

「さて、クソみたいな茶番はこれ位にして本題に入ろうか?え?」

イライラしていることが丸わかりな声色で会合を取り仕切っている彼の裏で必死に笑いをこらえているカムムスビの声が微かに混じっていた。

当然タカミムスビは聴こえていたが、必死で心を無にして話を進める。


「先ほども述べたように今回の議題を提唱してくれたのはクニノトコタチだ。早速説明を頼む」

「はい、タカミムスビ様」

タカミムスビに促されたクニノトコタチは待ってましたと言わんばかりにすっくと立ち上がった。

部屋の中央にともされた灯りに歩み寄ると、その上の幻影を指示して話し始めた。


「まずはこれをご覧ください。これは現在のこの世界を簡単に示した図となります。上部の円盤がこの高天原。下部の球体が…我々の足元のはるか下にある、地上の国です。」

クニノトコタチの喋り方は先程の頼りなさげなそれとは打って変わって、丁寧かつ簡潔なものでここにいる面子にその耳を傾けさせた。

目つきも瞼を半分閉じているように見えてその瞳は遠くを見通し、なおかつ足元をしっかり見据えているように透き通っていた。


「我らが高天原はその黎明期と比べて、大いに豊かな国へと発展しました。空は彩ら彩られ、動植物のような生命にも満ち溢れて神々の数も増えました。しかしながらあの地上をご覧ください。未だにあの地上はかつての高天原のように混沌としています。おまけにアシカビなど、一部の植物を除いて生命の姿も影もないまま」


「確かにねえ。ここがあまりにも居心地がいいもんだったから完全にその辺が抜けていたよ。私達も平和ボケしたもんだ」

聞き入っていたカムムスビが口を挟む。日頃からおちゃらけていたコイツがここまで真剣に参加しているなんて珍しい、とタカミムスビは横目に彼女を見ながら思った。


「あそこから生まれた我々としては…どうにかここのように豊かで美しい世界を創り上げたい…と愚考する次第です。どうでしょう、ミナカヌシ様?」


クニノトコタチはミナカヌシの方に向き直った。

元来、他者の意見をよく聞くことを旨としてあまり自己主張をしないミナカヌシはこの会合が始まって以来、普段の呑気さからは想像もつかない程にどっしりと構えてみなの言葉を聞いていた。

そんなミナカヌシはクニノトコタチに裁可を促されるとニッコリと微笑み「うん、結構な事だね。私も大賛成だ。是非ともそうしよう!」と答えた。


「…っ!ありがとうございます!」

クニノトコタチは半目気味だった瞼を大きく開き、喜びと謝意の意を込めて頭を下げた。

勿論、ミナカヌシもただホイホイとGOサインを出している訳ではなく、ちゃんとした彼の者なりの想いがあってのことだった。

クニノトコタチとトヨクモノら「神世七代」は高天原の純粋な生まれではない。


高天原の創造の直後、クニノトコタチは地上の混沌から別天津神らと同じようになりあがって生まれた。

幸い、彼はそれ程長く孤独に苦しむ前にトヨクモノやウヒジニ、スヒジニ達「神世七代」に出会う事が出来た。

しかし彼もミナカヌシと同じように、何もない場所で突然生まれたことによる孤独を味わったことには違いないため、一種のシンパシーを感じていたのだ。

ミナカヌシは原初神であり、最も地位が高い。しかしタカミムスビやカムムスビ、ウマシアシカビとアメノトコタチの助けがなければこの創造は無し得なかったという事を強く理解していた。だからこそ今度はかつての彼らのように創世を成す助けになりたい…そう考えたのである。


そしてミナカヌシの内に秘められた本能もまた告げているのだ。高天原の創造だけで世界の創世を成したとは言えない。地の世界をも豊かにしてこその創世だ…と。


「わかった。その件はよしとしよう。しかしそのための課題が残っている」

再びタカミムスビが進行を仕切り始めた。

「その地上の創世を誰がやるのか?いかにして行うか?この2つがハッキリしなくてはにっちもさっちも行かない」


カムムスビはクニノトコタチをしっかりと見据えて尋ねた。

「…もしかして、君らがやるつもりかい?」

「いえ、それは勿論考えたんですが…私じゃ不適格な事が分かりまして」

今度はアメノトコタチが尋ねる。

「ほう、そいつはどうしてだい?」

「私は地上の大地そのもの神、トヨクモノは雲の神。地上で生命を生み、育むには適性が今一つ足りないのです。それに…二柱とも独神です。それよりも寧ろ、高天原にいる生物のようにオスメスつがいである者達の方が適任ではないかと…」


「というと?」

「今、地上に国を作るということは我々の世界が転換期を迎えるということです。生物の有り様にも大きな変化があって然り。ご存じの通り、この高天ヶ原に息づく生命達の多くの種が雄と雌の二つに別れています。これはウヒヂニ達が生まれてから連鎖するように起きた現象ですが、これを地上にも反映させるのです」


「ふむ、理屈は分かったが…つがいという事はウヒヂニ達の誰かにやらせると?」

タカミムスビの問いにクニノトコタチは首を振る。

「違うだと?じゃあ誰に、どうやってやらせるつもりだ?」


「…ある二柱の神を、直接地上に下ろすんです」

「誰だ、誰を下ろすつもりなんだ?」


少し間を置いてクニノトコタチが口を開いた。



「…伊耶那岐イザナギ伊耶那美イザナミです」


その言葉に、神々の心はざわついた。












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