第3話 「Thousands Morning Refrain」

頬に風と光を感じる。

けれどそれは決して不快なものではなく、寧ろ子供の背を撫でる母親の手付きのような穏やかさと心地よさを孕んでいた。

ミナカヌシはもう少しこのまどろみを享受していたいと思いつつも瞼をゆっくり開き、目の前の景色を目の動きだけで見渡した。

眼前に広がる青い空、桃色の混じったまばらな白い雲。様々な色で飾られた花々と、若々しく萌えている緑の草原。

その中央にポツンと、しかし近くで見ると強い威厳を示すようにどっしり立っている樹がある。その下にミナカヌシと、共に生まれた二柱はいた。

ミナカヌシはそこで横になり、隣に座るカムムスビの膝に頭を乗せ、足をタカミムスビの太腿に乗せて眠り込んでいたようだ。


何度か瞬きをしたミナカヌシが首を動かすと頭上ではカムムスビが微笑みかけ、視線の先でタカミムスビは目を閉じて樹の幹にもたれていた。

「おはよう、ミナカヌシ」

カムムスビの挨拶にミナカヌシは「もう昼過ぎだけどね」と微笑み返した。

「まったく、貴方も随分な寝坊助だね。まああいつよりはマシだけど」

カムムスビが指でタカミムスビを示しながら小声でほくそ笑んでいる。

「聞こえているぞ、そして俺はとっくに起きている」

タカミムスビは片目を開いてわざとらしく少し大きい声で言いながらカムムスビの方を睨み付けた。


「随分、懐かしい夢を見ていた気がするよ」とミナカヌシが反芻するように呟く。

「また、あの頃の夢か?最近多いんじゃないのか」

「うん、何でだろうね…」

そう言いながらミナカヌシは体を起こすも、ゆらゆらと揺らしながら何度も瞼を閉じそうになってしまう。

「あーもう!またおねむしそうになってるぞ」

カムムスビはミナカヌシの頬をぺチぺチと叩いて彼の者を此方の世界に引き戻した。

「まったくこいつら進歩と言うものがないな…」

タカミムスビはため息をついて被りをふった。


あの時、ミナカヌシを含めた五柱の神々はこの「高天原」の創造に成功した。

全てが混然一体としていた混沌の雲海には今じゃ美しい植物と果実と透き通った水、そして生命の香りに満ち溢れていた。それまでは星が瞬き、明かりを作っていたとはいえ暗い色だった空も青々と澄み渡り、創世以前の名残を示すように雲があちこちに散らばっていた。

さらには花々の生み出す蜜や土の栄養を糧とする虫、小さいながら力強く羽をはばたかせて飛ぶ鳥等、様々な姿と生き方を見せてくれる生き物も生まれ、その数や多様性は今も広がり続けている。

様々な姿を見せてくれているのは生命だけではない。ミナカヌシ達の目に映るこの景色も同様だった。

1日が始まればキラキラと瞬く無数の星よりもひときわ輝いている太陽(と、神々は呼んでいる)が空を支配し、世界をぐるりと一周して隅々まで照らしていく。後でわかったことだが正確にはどうやら世界そのものが太陽の周りを周っているためそういうふうに見えるらしい。

やがて太陽は空の彼方へと消えていくと、青々とした空は美しくも切なさと寂しさを匂わせる橙色に染まり、創世以前のような暗い空…夜と呼ばれる世界に代わる。

そして時が経てば、太陽は登り…世界はそんなサイクルで動き続けていた。

また、不思議な事に様々な生き物たちもそれに合わせて行動を変えていた。

朝が来れば待ってましたと言わんばかりに動き始め、夜が来れば棲み処に戻って眠りにつく…。


最初の内はこれら一連の事象を観察する日々を送っていたミナカヌシたちであったが、それはとても幸せな日々だった。

ミナカヌシは目に映るものすべてに心を躍らせ、タカミムスビとカムムスビは様々なものを注意深く観察する。

ウマシアシカビは動植物の美しさをたたえては二言目に「コレヲ生ミ出シタ俺スゲー」だの「俺カッコイイ」だの「モット俺様を称エロ」だのそんな自分大好き的なセリフばかり吐いている。

アメノトコタチはどちらかというと生命そのものよりも、それらが織り成す情景や時間に目を奪われているようだった。

空の動きは勿論の事、鳥が花の周りを飛んだり、木の枝に止まったりする様や揺れる木の葉の間から漏れる日の光を楽しんでいるのだ。

見方や感じ方は五柱それぞれだが、彼らなりにこの世界を思い思いに観察していた。

やがてそんな生活もひと段落がつき、今ではこうして変わりゆく世界をそれぞれがのびのびと過ごしており、かなりの時が経とうとしていた。

ミナカヌシ達、後の世に「造化三神」と呼ばれる者達に至ってはこうして大きな木の下で日がな1日ゴロゴロと過ごすことが増えていた。


「今でもよく覚えているよ。あの頃感じていた恐怖、孤独、苦痛、絶望…そしてその果てに手にした温もり、幸せ、希望を」と体を起こしながら囁いたミナカヌシ。その両手は空に向けられ、そのままタカミムスビとカムムスビの手の上にゆっくりと下ろされた。

「今、こうしていられるのも全部君達のおかげだ、ありがとう」とミナカヌシは満ち足りた顔で何度言ったかもわからない言葉を囁いた。



すると、ミナカヌシ達のいる樹の周辺を隔てる川にかけられた橋の向こうから誰かが走ってくるのが見えた。

「……ミナカヌシ様ァ――――――!ミナカヌシ様ァ―――――!!!大変です、大変です―――――――!!!!」

走ってきたのは一柱ひとりの少女だった。

長い髪を後ろ左右で二つに結び、肩の少しはだけた衣服と膝より少し上までしかないスカートを身に纏っており、顔には両目に垂直になるように上から入れ墨のような紋様が走っている。

「ああ、オオトノベか。何かあったのかい?」

オオトノベと呼ばれた少女は息を弾ませながら、ミナカヌシ達に駆け寄る。

「そんな悠長にしてる場合じゃないんですよ!また…」

「またあいつらが揉めてるのか?」

タカミムスビが横から割り込んできた。まるでオオトノベが何を言い出すのか最初から分かっていたかのようだ。

「え?あ――、まあ実際にまるっきりそうなんですけど…ていうかよく分かりましたね。私が何を言おうとしたのか」

「そりゃあもう見慣れた光景だからねぇ、こいつもすっかりみんなと心を通わせられるほどに順応したんだろうさ」

今度はカムムスビが悪戯っぽく茶々を入れるが、タカミムスビは「別に通わせてない。学習しただけだ」と強調するように訂正した。

「あらあら、まーたムッツリ仕草を繰り返すのかな?やっぱり相変わらずドスケベなんだねえ、タカミムスビさんは」

「お前の煽りも衰えてないようだな、なんならその喧嘩を買ってやってもいいぞ」

二柱の険悪な空気がピークに達しようとする頃だった。


「あ―――――もう!そんな事言ってないで早く来てください!このままじゃぜんっぜん収拾付かないんですから!!」

業を煮やしたオオトノベは二柱の手を掴むとその腕を引いてさっさと駆けて行ってしまった。

「あれ…私は…?」

気が付くとミナカヌシは周りに誰も居なくなっていた事に気付いた。

こんな事が最近はよく起きるのだが本神はいつも全く気にしていないかのように「まあいいか」という態度を取る。

この日もご多分に漏れず、ミナカヌシは「今日もみんな元気そうでいいなあ」と思いつつ彼らの後を追いかけていったのであった。




「くおらああああああ!!!!!!このバカダルゥゥゥゥゥゥ!!!!!!!いい加減に観念せんかあああああああああ!!!!!!!!」

「誤解だアヤカシコネェェェェェェェェ!!!!俺は無実だァァ!!!!!」

そこには数名の神だかりができていた。

ここは彼らのたまり場のような場所で、どこにいようが最終的にはここに集まるのが常であった。

そんな場所の中心地で一組の男女の神が争っていた。否、争っているというよりは追う獣と追われる獲物という構図に近い様子だった。


「諦めなさいよクソダル。あんたがクロだってのは分かり切ってるんですからね?吐いちゃいなさいよアホダル」

「なんでチョイチョイあだ名が増えていくんだ…」

「あぁんっ!?何か言った!?!?!?」

「いえっ、なんでもございません!!!」

この一組の神、男神の方をオモダル、女神の方をアヤカシコネと言った。この中では新参者の部類に入る。

二柱とも美しい容姿であり、衣服には華やかな装飾品をいくつも輝かせている。


「あ、お三方こちらです!」

「何を騒いでいる!下がれ」

オオトノベに連れられて現れたタカミムスビが一喝する。

「まったくお前らはまた騒ぎ立てて…」

「あ―、おほん、白熱している所悪いんだけどさ、何?また揉め事かい?」

カムムスビがタカミムスビを制するような柔らかい口調で問いかけた後、「ま、大体想像はつくけどね…」と小声で付け足した。


「カムムスビ様、タカミムスビ様…いやねぇ、そこでガタガタ震えてるクソ旦那がね、私が大事に取っといた桃を食いやがったんで制裁を加えてやってたんですよ」

アヤカシコネの告発にタカミムスビは「そんなこったろうと思った」と言わんばかりの顔で眉間を押さえつつため息をついた。

「だからそれは誤解だって言ってるじゃあないか!そりゃあ前科は…えっと…ひぃ、ふぅ、みぃ…多少はあるけれども…」

対するオモダルの弁解は徐々に消え入るような声色こわいろになっていった。

このような出来事は今に始まったことではない。

つい最近の出来事だと、約束しておいた逢引デートをすっかり忘れて他の神と酒盛りに興じた末、二日酔いのまま爆睡していた、預けておいたお気に入りの装飾品を無くされた…(これは後でちゃんと見つかった模様。カムムスビにうっかり又貸ししていたようだ)

こういった具合でオモダルは神々きっての容姿端麗の割に抜けている所があった。


「そうよねえ?普段の行いが悪いからこのザマになってる訳よ。分かってんの!?あぁん!??これ以上隠し立てするなら…」

「わ―――!!!待った待った!!!話す!白状するよ!!確かに俺は君が取っておいた桃を食ってしまった。でも!でもだ!!何も俺は食欲に身を任せたわけでも、君を怒らせたかった訳でも無い!」

オモダルは突然雄弁になった。

「俺があの桃を見つけた時、それは既に熟れすぎて腐りそうになっていた。そのまま置いておいた所で君が食べる時点では完全に腐ってしまっていただろう。そうなれば…言っちゃ悪いが君はちょっと腐ったものでも平気で食べてしまうきらいがある!だから俺は自らが腹を下すリスクを背負って手厚く処分しようと…」

「ふーん…私のために、ねえ?」

アヤカシコネの目はとても冷たく、一切の慈悲を宿していないようだった。

「んじゃ、覚悟はいい?」

アヤカシコネが制裁の構えを取るとオモダルは顔面蒼白になった。

「待った!待った!まだ話は終わってないんだ!えーと…えーと…」

オモダルは必死で辺りを見回して「その者」を見つけた。

「そうだ、スヒヂニ!オオトノヂ!あいつらだ、あいつらが勧めたんだ、俺はあいつらにそそのかされたんだよ!あいつらだって何かしらお咎めがあるべきだ!おい、そうだよな、あんたら!?」

オモダルが彼らに向き直った。

当のスヒヂニと呼ばれた女神は我関せずと言わんばかりに夫神であるウヒヂニの淹れた紅色の茶の味と香りを楽しんでいた。二柱とも白と黒を基調としたシンプルな衣服を身に纏い、それぞれ片方の眼球が黒く輝いていた。

「うん、やっぱりダーリンの淹れたものが最高だわぁ、ずっと飲んでいたい…」

「お褒めに預かれていつも嬉しいよ、ハニー?」

完全に二柱だけの世界を築いていた。

また、オオトノジと呼ばれたひときわ大柄な男神はその辺に寝転がり、大きないびきを立てながらガーガーと眠っていた。

彼の目にもオオトノベと同じ二本の赤い線のような紋様が走っていた。


「あ、あんたら…裏切るのか…?」

味方を失ったオモダルは力なくその場にへたり込む。

「言い訳は終わったかしら…?」

すると後ろから、気味悪いほどに温厚な口調のアヤカシコネの声がした。

振り返るとアヤカシコネは先ほどとは打って変わって慈愛に満ちた微笑をたたえていたが、背中から発する怒りのオーラはどうしても隠しきれていなかった。

「ア、アヤカシコネ…?」

「大丈夫、今日は3発くらいで終わらせてあげるから…ね?」

言い終えた瞬間、アヤカシコネの顔は荒ぶる神のそれと化して同時にオモダルの絹を裂くような悲鳴が高天原に響き渡った。


「まったく、またこのパターンか…」

「もういい加減に見飽きて反応するのもめんどくさくなったわね」

その様子を遠巻きに見ていたのはツヌグイとイクグイだった。二柱とも緑衣を身に纏った容姿端麗の夫婦神で、その額からは植物の芽のような角が生えていた。



彼らは後の世に「神世七代」と呼ばれる神々である。

高天原が創造されて以来、その有り様を変えたのは世界だけではない。神々もまた同様だった。

高天原が作られてから暫く後、今ここにはいない二柱の神が新たに生まれた。

一柱は国之常立神クニノトコタチ。もう一柱は豊雲野神トヨクモノ

その後も後を追うように新たな神がつがいとして次々と生まれ、ミナカヌシから数えて神の数は既に十五柱にまでなっていた。


大地の混沌の名残りである「泥」から生まれた黒衣の神は宇比地邇神ウヒジニ須比智邇神スヒジニ

その泥に根を張り、力強く、鋭く伸び上がった生命の「芽」から生み落とされた緑衣の有角の神を角杙神ツヌグイ活杙神イクグイという。

その芽が伸び切り、それらがそれぞれのあるべき姿へと形を変えた時に生まれたエネルギーから化成した紅き痣の神が意富斗能地神オオトノジ大斗乃弁神オオトノベと呼ばれた。

そして彼らが今度は自らの意思で思い思いにその色合いや装いを変えていく時に生まれるエネルギーがいくつもぶつかり合い、摩擦を起こしてそこから形作られた美しき絢爛けんらんの神を淤母陀流神オモダル阿夜訶志古泥神アヤカシコネとして現れたのである。


彼らは皆生まれた時から己の名前と、自らがどのような神であるのかを薄らぼんやりとながら理解していた。

ミナカヌシはこの新しい神々達を歓呼としてこの高天原の仲間に迎え入れ、それから長い時が流れ神々はそれぞれのバラバラな個性や性格を存分に働かせつつ思い思いに暮らしてきた。


「お――い、何だか盛り上がってるみたいだね」

ミナカヌシが遅れてようやくやって来た。

「お前な…この惨状を見てよくそんな悠長な事を言えるもんだ」

タカミムスビが嫌みったらしく言う。

「そうですよ…ミナカヌシ様…俺のこの有様がいい証拠です…」

アヤカシコネの制裁を食らってすっかりズタボロになったまま転がっているオモダルが蚊の鳴くような小さな声で必死に訴えていた。結局3発では終わらせてもらえなかったようだ。

「あーあー、またアヤカシコネを怒らせちゃったのかい?君も相変わらずだねえ」

「ほんとですよまったく!しかもこいつ卑怯にも他神ひとに罪をなすりつけようとするし…」

「でも君達、その割に翌日にはすぐ仲直りしちゃうでしょ?それだけ仲がいいって事なんだよね」


ミナカヌシの言葉にアヤカシコネは一瞬呆気にとられたように目を丸くした。

すると今度は「まあ、こいつも根は何だかんだでいい奴だし…思った以上に優しいような気がしなくもなかったような…」と顔を少し紅潮させつつ呟いた。


「え、アヤカシコネ…それはもしやツンデレと言う奴…」

「あ?調子乗ってっと余計に痛めつけるわよボケダル」

「オオトノヂ様!いつまで寝てるんですかもう!」

「ぐがぁ…」

「どいつもこいつも呑気すぎてこっちまで気が抜けてくる…」

「あーら、どの口が言うのかしら」

「ああ、ダーリン!なんかもうすっかり火照ってきちゃったわ!あたしもう辛抱たまらないわァ!!!」

「おいおい、まだ真昼間だしみんな見てるじゃないかハニー」


みんなが思い思いに、好き勝手に動き回って笑っている。

すると少しの間を置いて、ミナカヌシは突然吹きだすようにクスクスと笑いだした。

周りの神がそれに反応して一斉にミナカヌシに向き直った。

「あの…どうしたんですかミナカヌシ様?」

オオトノベがおずおずと尋ねた。

「ん?いや、ちょっと嬉しくなっただけさ」

ミナカヌシはそこから一呼吸おいてひときわ大きな笑顔を見せた。


「こうやってみんなが自由に笑っているのって…」

その笑顔は、この高天原その物を表しているようだった。


「幸せだな、って」

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