第1部「 HEART OF SWORD 〜夜明け前〜」

第1話「眠りによせて」

 アメノミナカヌシ(天之御中主)は夢を見ていた。

とても懐かしい夢だった気がするが、それがいつのことだったかは思い出す事が出来ない。ついこの間の出来事だったかもしれないし、気の遠くなるような悠久の昔の思い出かもしれない。

 確かなのはこの夢が遠い遠い、かつての記憶のプレイバックである事だけだ。


 彼の者の生まれは世界の始まりとともにあった。

 原初よりも以前、無であり、有でもあった。


 時も空間も、ましてや生命も…何も存在しないようで何もかも全てが有り、混然一体としていた世界。

 無限の混沌がどこまでも続き、無限の虚無がいつまでも続いていた、そんな世界。

 そんな中にも一切合切が変化する瞬間が訪れる。

 ある時、世界は一つの小さな兆しの生まれと共に天と地に分かれた。

澄んで明るいものは上へ上へと広がり天となり、重く濁ったものは下へ下へと積もって地となった。


 天はある地点を中心として渦を巻き始め、そこから何かが成り上がるようにその姿を現した。それこそが、アメノミナカヌシだった。

 ミナカヌシは生まれたばかりで何も知らなかったが、同時に全てを知っていた。

 自らが所謂神と言う存在である事も世界には自分しかいない事も、分かっていた。

しかし、彼の者自身がいくら原初の神とは言えよちよち歩きもままならぬ生まれたての赤ん坊も同然であった事もあるが、やはりこの生まれたての宇宙自体もいかんせん混沌とし過ぎた世界なので思考がついて行かなかったのである。



 ここはどこなのだろう?

 自分は何をすればいいのだろう?

 どこへ行けばいいのだろう?


 考えては宙ぶらりんの疑問となり、知恵を働かせようとすれば行き詰まって頭を抱える。こんな事を一柱ひとりで繰り返している。

やがて彼の者こんな事も思うようになった。


ここには自分以外の存在はいないのだろうか?

どこに行けば会えるのだろうか?

誰かに会えれば何かが変わるのだろうか?


 疑問も試行錯誤も尽きないが何も解決策は見えてこない。

 それもそのはず。海の油がふわふわと浮かびどろどろと漂っているだけの地上ならともかく、天の世界の方も地上より比較的澄んではいるが、大概ごわごわとした雲が絶えず流動的に、無秩序に漂う場所であったのでミナカヌシはほぼ常時流されたように揉まれている状態だったのだ。

折角生まれ持った思索を働かせても混沌の波が体を打ち付けては集中を乱す。

地団駄を踏まんばかりに手足を動かそうとすれば混沌の波が押さえつける。

これでは行動を起こそうにもどうしようも出来ない。


ミナカヌシはひたすら混沌の波に揉まれていた。

流れに抗っては体を打ち付けられ、余計に遠くに流されて。

状況を変えようにも集中も乱れ頭も働かず、呼吸すら忘れてしまう始末。

そんな事の繰り返しが果てる事も知らずに続いた。

人の子の時間で幾数千万年か、幾数兆年か?それともほんの数時間の事か?

否、時も空間も皆無な世界にこんな物差し自体が無意味なのかもしれない。


 とにかくずっとずっと、一人でもがき、苦しみ、流される。

 ミナカヌシはずっと一柱(ひとり)だった。

 生まれたばかりの彼の心の表面に、ネガティブな感情ばかりが芽生える。


 冷たい、冷たい、冷たい、苦しい、苦しい、苦しい……。


 ミナカヌシはそれまで他者を認識することなく生きてきた。

 生まれてこの方、この世界には自分しかいないーーーーー。

 そう言語化できていたかはともかく、そういう認識だった。

 しかしこの時、ミナカヌシは初めて、心の奥底で願った。


誰かいるならば、ここに来て――――――。

一柱ひとりのままにしないで―――――――。


 言葉には出来ない心からの願い。

 自分以外の誰かへの切望。ある意味では世界で初めてのコミュニケーションだ。

 しかし、いくら嘆いてもそれに答える者はいない。

 何度も投げかけられた願い、言の葉は虚空の中へ霞のように消えてしまう。

 そうしている内にいつしかミナカヌシは何もかもに疲れ果ててしまい「もう嫌だ、なにもしたくない」と思い、体を丸めて考えるのを止めようとした。

 もがいてもがいて苦しむくらいなら、もうずっと何も考えずにこのどこまでも続く混沌と虚無のまどろみの中で流されていた方がずっと楽じゃあないかと。希望も願いも、未来も要らない。

 ただ一切を波に任せ、永遠を漂い続ける…ミナカヌシはそう思い、目を閉ざした。


 それからどれ程経っただろうか。

 彼が目を閉ざして全てを投げだしてからほんのわずかの間か、それとも忘れてしまう程に長い間か。ミナカヌシは既に意識を持つのを止め、手足を投げだして天に舞う混沌の雲海に浮かんで漂い続けていた。

動くことも考えることもせず、ただひたすらに流されていくだけ。


しかし、またしても変化は訪れる。


水平線の上をまっすぐに流されていたミナカヌシはある時、自身が突然下へと引っ張られるのを感じた。

いきなりの事に慌てて意識を呼び覚まし手状況を確認しようとするミナカヌシだったが時すでに遅し。

彼の者の身体は混沌の雲海の中に沈み込んでしまっていた。

波に揉まれていた時よりも体の自由が全く効かず、呼吸すら一切できない。

そして何より周りが真っ暗闇だ。

必死にもがいてもがいて、下へ下へと落ちる重力に逆らい続けている内に彼の者の真っ暗だった視界がぼんやりと明るく開けてきた。

するとミナカヌシは敢えて重力に逆らうのを止め、その明かりに向かって進む。

そして明かりがハッキリしてきた時、彼の者の身体はフッと軽くなった。


そこは天と地の狭間、完全なる虚空だった。

ミナカヌシは雲海の底を突き破り、地へとつながる空間に放り出されていたのだ。

何が起こったのか一瞬理解できなかったミナカヌシだったが、この残酷にもハッキリとした現実を虚空に流れる大気を身に浴びて実感していた。


そして、初めて彼の者の心に「恐怖」が芽生え、目から初めて涙を流した。

このまま落ちて行ったらどうなるのか。

地のどろどろとした海へと沈んでいったら、またどこまで沈んでいってしまうのか。

それを考えるだけで胸がグッと締め付けられ、叫び出したくなるような狂気に覆われてしまいそうだった。


地の重力に引きずり込まれ、ちょうど天と地の中間に差し掛かったころ、ミナカヌシは両手を天に向かって伸ばしているはずもない自分以外の誰かに心で叫んだ。


助けて―――――――、と。


次の瞬間、ミナカヌシの眼前に赤と緑、二つの淡い光が現れた。

光は薄れると形となり、ミナカヌシとよく似ているようで違う姿になった。

ミナカヌシ以外の存在がこの宇宙に生まれた瞬間である。

その二柱ふたはしらは姿を現すなり、ミナカヌシの手を片方ずつ握る。

そしてそのまま彼の者をグイッと引き上げ上へ上へと戻っていった。

この時、ミナカヌシは突如現れ、初めて感じた自分以外の存在を確かに感じ、言葉も出てこなかった。そもそも何か言葉を口に出したことすらないが。



雲海の底から一気に浮上していった三柱さんにんは水平線から飛びあがると、近場に固まった脂粕のような足場を見つけ、そこに舞い降りた。

二柱ふたりが手を放すと、ミナカヌシは力が抜けてその場に倒れ込み、何度も息を吸っては吐き、大きく咳き込んだ。


無理もない。波に揉まれては流され、その次は重力に体の自由を奪われて地上へ、いや奈落の底へと落ちそうになり―――――。

何よりミナカヌシは生まれてこの方、地に足を付け、立って座り落ち着くという経験自体がなかった。

呼吸もだいぶ落ち着き、ゆっくりになってくるとようやく心の方も穏やかになったミナカヌシは、自分を救いあげてくれた何者かをゆっくりと見上げた。


一柱ひとりは紅衣を纏った丈高く力強い、首からは勾玉をかけ、それと同じ輝きと凛々しさを秘めた瞳を持つ茶髪の「男神」。

一柱ひとりは緑衣を纏った白い肌と豊かな胸を持ち、同じく首から勾玉をかけ、それと同じ妖しさを孕んだ金髪の「女神」。


二柱ふたりの姿を認識したミナカヌシは口を開き、唇を震わせて何かを言おうとした。

しかし、一度も声を発したことがないその口からは不安定な息だけ。

何度も体と喉を震わせて、声もなく苦しみ喘ぎながら、その末にミナカヌシは初めて言葉を口にした。


「君達は、だあれ?」









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