古事記・日本書紀無伝「Human's Daybreak」
鬼澤 ハルカ
第0話「夜半の月」
暗い部屋にてーーーー。
その男はたった一つのろうそくの灯だけを頼りに机に向かって何かを書き記していた。
この部屋にすし詰めとなった無数の記録や書物に囲まれた彼の仕事、それはこの世界の始まり、そしてこの国の建国の記録と近代の歴史を無数の記録から紡ぎ出して書物にすることであった。
天地の開闢…国土の創造…神々のドラマ…英雄譚…
どれもこの国に今でもいきづく胸躍る物語ばかりだ。男は帝から命じられたこの仕事に誇りを持って取り組んできた。
連日、朝から晩までこの部屋に籠っては仕事をし、眠り込むだけの毎日。その日もいつもと同じように仕事に熱心にこなし、ひと段落を付け、大きく伸びをしてカチカチに固くなった体をほぐしていた。
「今日はいつもより多く進んだかな?」
そう言うと男は独り言が出てしまうとは自分も年を取ったものだと内心苦笑する。何しろ他の舎人や役人達と違って自分は表に出ることが殆どない。
お陰で外部からは自分を女性と間違える者もいると聞く。
「稗田阿礼の正体がこんな地味なやせっぽち中年男だと知られたら、僕に幻想を持っている人達には申し訳ないかもな…」
稗田阿礼を名乗った男はしばし、頭上の窓から漏れる月明かりに目をやった。
「さて、今日も彼女は来るのかな…?」
そう呟いた瞬間、机の真後ろに淡い光が灯る。阿礼は気付いていない。
その光からゆっくりと人影が現れ、徐々にその姿がはっきりしてくる。
現れたのは不思議な衣装に身を包んだ妙齢の女性らしき者だった。
目元には影がかかっており、その表情をうかがうことはできない。
彼女は口元に笑みを浮かべゆっくりと歩を進めた。
足音を殺しゆっくりゆっくりと阿礼の背後に近づき…静かに手を広げた。
その背中からは白く美しい翼が生え、大きく広がって辺りに羽根を舞い上がらせた。
「悪いけどあんまり散らかさないで貰えるかな?掃除するの大変だから」
阿礼は机に向かったまま答えた。どうやら気付いていたらしい
「あらら、ばれてたのね。貴方がそんなに勘がいいとは知らなかったわ」
翼の女は柔らかい声で笑った。阿礼とも親しげな様子でまるで旧知の友人であるかのようであった。
「君の悪戯の手口は一辺倒すぎるんだよ、僕の記憶力はしってるだろ?」
振り向いた阿礼は得意げな顔で指で自分の頭を叩いた。
「ハイハイ降参よ、次はもっと上手い手を考えなくちゃね」
翼の女の悪戯っぽい笑みに阿礼は肩をすくめた。どうやら普通に来るという選択肢はないらしい。
「で、どんな調子かしら?」
「そうだね…もう今日の分は終わってそろそろ休もうかと思ってる頃さ」
「なーんだ、せっかくのお楽しみが台無しだわ」
彼女は口をとがらせる。
「あのね、人が大事な仕事に取り組んでる時に眼鏡を奪ったりちょっかい出して作業妨害するのが楽しみなんて悪趣味にも程があるよ?」
「いいじゃない、進捗は十分なんだから」
「誰かさんのお陰で免疫が付いたのさ」
彼女が阿礼の下に現れるようになったのは「この仕事」が始まってから程なくしての頃だった。
阿礼はそれまで人ならざる存在、ましてや神格を持つ存在に出くわしたことなど一度もなかったため始めは混乱したものである。
それ以来、頻繁に現れては阿礼をからかったり、色んな事を教えてくれたりとそれなりの腐れ縁となっている。
一度、神であるならばと古事記の編纂に役立ちそうな真実や知識を思い切り聞き出してやろうと質問攻めにしたこともあるが体よくかわされてしまい、何の収穫も得られなかったのを彼はよく覚えている。
そもそも彼女自身、そんなに知ってる事も多くないようではあるが。
「言っとくけど今日は真面目な用事もあるんだからね?」
「ほう、珍しい。どんな用事?」
すると突然、彼女の声色が険しくなった。
「そろそろ話す時が来たみたいなの」
阿礼は少しぎょっとした。いつも奔放でおちゃらけた様子の彼女がこんな真剣な様子を見せたことは殆どなかったからだ。
「話すって…?」
「語る事を許されなかった歴史、誰からも忘れ去られ存在を失ったある神の話よ」
「とある…神…?」
「そう…他の神々の誰よりも愛に満ちて、みんなで幸せになりたいと願っていた神様のお話」
そう言った彼女の声はどこか寂しげだった。
「この物語は私とミナカヌシ様を含めた、ごく一部の神様しか知らないの…だって、この物語はどの本にも記されていないし、これから先、永遠に記されることもないんだから」
「どうして、それを僕に話そうと?」
「ミナカヌシ様から頼まれたからよ、直々にね」
おずおずと訪ねる阿礼に彼女は微笑みながら答える。
「今、人間達の中でこの物語を渡せるのはあなたを置いて他にいない…貴方にこそ、知って欲しいの」
それを聞いた阿礼はゆっくり立ち上がると、ろうそくの灯りを持って部屋の一角へと歩を進め、何かを探して始めた。
「何をしてるの?」
「いや、どうやら夜は長そうだからね。何か飲みながらの方がいいんじゃないかなって」
阿礼が取り上げたのは一本の酒瓶だった。
「あら、たまには気が利くのね」
「以前安万侶が不比等のところから失敬したのを貰ったのさ、口止め料としてね」
阿礼は二つの盃に鮭を注いだ。そこには窓から見える月が映り、幽玄な雰囲気を醸し出している。
「さて…話してくれるかい?」
彼女は優しい笑みを浮かべると静かに語り始める。
「じゃあ早速、これは遠い遠い昔の事…この国と共に生まれ、誰よりもみんなへの愛を持ち、誰よりもみんなを守ろうとし、誰よりも悲しいさだめを背負い楽園を追われた、もうどこにもいない、誰からも忘れ去られた、一柱の神様のお話…」
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