第12話 弓道場での告白

「早朝の業務研修」と言う名の雑用で、綾香は体育館の女子更衣室とそれに隣接するシャワー室の点検を行っていた。

 ロッカーの破損の有無やシャワーの具合をチェックして「チェック表」に押印し、不心得者がCCDカメラなんかを設置していないか見て回る。

 更衣室のロッカーには現在体育館を使っているバレー部とバスケ部の生徒の荷物が突っ込まれてあり、ジャージで登校して来た彼女たちの畳まれた制服が、学生カバンの上に置かれている。

「私もこんなんだったなぁ。今から思えば、母さん、毎日畳んでくれてありがと。」

 一通りチェックを終えた綾香は、ドリブル音や円陣トスの掛け声を背に体育館から外へ出た。


 体育館の隣には通用路が走り、その道を隔てて弓道場が建っている。

 綾香が教育実習に来た初日にはスズランのような小さな白い花をつけていたドウダンツツジの生垣が、花を散らして青々とした葉を茂らせている。

 生垣越しにパツンっと的の弾ける音が聞こえた。

 そおっと生垣の端に移動して白洲が敷かれている射場の横から中を覗く。

 中には学生ズボンに、タイトな白い長袖の弓道着を着た男子生徒が弓に矢をつがえていた。

 こちらからは後ろ姿だが、綾香はその男子生徒が誰かすぐに判った。

(章浩くん・・・)

 流れるような所作で大きな和弓が打ち起こされ、鹿革の三つ指弽の右手が額の高さから、口の高さの肩と顔の間の空間に収まる。

 左腕は真っ直ぐに的

まと

に伸び、人差し指が力むことなく前を指す。

 弦がキリキリと静かな音を上げ、やがてタンっと軽やかな弦鳴りが響く。

 右手は流れるように後ろへと振られ、的場の霞的がパツンと音を立てた。

 ふぅと軽い息遣いが聞こえるほど、凛と張り詰めた空気が満ちていた。

 射を終えて礼をした章浩はそのままくるりと振り返った。

「あ、先生。おはようございます。」

「お、おはよう、あき・・・一色くん。今日は独りなの?」

 章浩は弓を弓置きに立て掛けて、射場の端に歩いて来た。

「うん。今日は自主練みたいな感じ。そろそろ文化祭だから放課後はほとんどクラスの用事で出て来られないから。ちょっとは引いておかないと腕がなまっちゃうだよ。」

「はは・・・」

「なまっとんのかいっのツッコミが欲しかったな。」

 にっこり笑うと、章浩は裏手の出入り口の方からサンダル履きで駆けて来た。

「矢を回収するから先生も来る?」

 ドウダンツツジの横を通用路沿いに駆け、生垣が切れた的場の横に立つ。

 柏手

かしわで

のように二度手を叩き、声を上げた。

「入ります。」

 小走りに的場に躍り出ると、霞的に刺さっている四本の矢を抜き取って、さっと元居た場所へ戻って来た。

「回収にも作法があるのね。」

「うん。手を叩いて声を上げるのは射場の人に注意を喚起するため。無言で入ったら最悪、射殺されちゃうよ。」

「そうよね。元々は狩猟用具だもんね。それにしても、四本とも的に当てたのね。やっぱり上手いんじゃない。」

 綾香は黒い矢羽根の矢を携えた章浩を見上げた。

「でも、まだ中央付近からはブレてるんだ。もっと安定させないと。」

 ちょっと嬉しそうに手元の矢を掲げた。

「そっと覗いてたつもりだったんだけど、気づかれちゃったわね。気が散った?」

「そんなこと無いよ。射の時、ぼくの視野じゃ背中側は見えないから。」

 章浩は義眼の左目をウインクして見せた。

「射の後の『残心』の時に綾香さんの香りが風に乗って来たから判ったんだ。うん。この香り好き。」

 章浩は綾香の髪に顔をぽふっと当てた。

 熱い息が感じられる。

「うわ。あ、その、え?」

 思わず半歩後ずさる。

 いたずらっぽい笑顔を浮かべた章浩が綾香を優しく見つめる。

「赤くなってる綾香さん、かわいい。」

「もう。こういう所では、そんな風にからかわないっ。」

 照れ隠しに、腕を組んで章浩を睨みつける。

「はい。すみま、せん。あ、そう言えば、先生はこんなに早く何してたの?」

 ドウダンツツジの生垣の横を並んで歩きながら章浩は綾香を見た。

「あ、そうだ。雑用の最中だった。さっきは女子シャワー室の点検してたの。」

「ああ、毎年一回は隠しカメラが発見されて騒動になってるからね。他はどこ当たるの?」

 弓道場の入り口でサンダルを脱いで、上がり框

かまち

を跨いだ。

「あとは特には。あの、良かったら見てて良い?」

「うん良いよ。上がって。あ、そうそう。射場では正座が基本だから。良い?」

「ええ。そんなにすぐには痺れ切らさないと思うから。」


 射場に上がった綾香は弓置きの前で正座をして章浩を見つめる。

 巻き直した弽に矢を二本携えて的前に礼をする。

「綾香さんが見てるから、座射をするね。」

 章浩はしずしずと歩を進める。

 霞的の正面に立ち、すっと腰を下ろして左膝を突く。

 矢を自分の正面に並べ、人差し指にその矢の板突(いたつき)(鏃 やじり)を沿わせて拾い上げ、弓を携えた左手の人差し指と中指でその矢を挟む。

 矢を繰くり、矢筈を弦にはめる。

 三つ指弽の弦枕の溝を弦に沿わせ、矢筈から矢羽根にかけてのシャフトを人差し指に沿わせて手首を軽く捻って矢を固定する。

 射場の床に弓の地を立てたまま左手の「手の内」を整える。

 的を正眼に見据えたまま、大きな和弓が打ち起こされる。

 斜面打ち起こしの型にて左腕は伸びたまま掲げられ、キリキリという弦の鳴る音が静かな射場に響きながら弓が引き絞られる。

 弓の曲線美、弦の真っ直ぐな緊張、それを支える人の所作と気迫が調和し、一つの芸術作品のように見えた。

(うわ・・・やっぱり章浩くん、かっこいいよ・・・)

 タンと弦が鳴り、すぐに的場からパツンと音が響く。

 左手の甲の方に返った弦を、弓をくるりと手の中で戻した章浩は、体の前に置いているもう一本の矢に手を伸ばした。


 射を終えた章浩は礼をして戻ると綾香の方へと歩いて来た。

「どうでした? こういう場面は見る事無かったでしょ?」

「うん。間近で見たのは初めて。静かな動きなのに、どきどきしちゃった。」

「へぇ~。それって弓に? 僕に?」

 ニヤニヤしながら章浩の顔が近づく。

「う、意地悪な質問にはお答えしませんっ。」

 顔の温度が上がっているのは解っていながらも、綾香は彼の顔を睨んだ。

「綾香さん。」

「うぅ、学校では『先生』でお願い、できる?」

 正座したままであまり身動きが取れない綾香は、近づいて来る章浩にちょっと体を仰け反らせた。

「綾香さん、好きです。」

 真っ直ぐ見つめる目が綾香の心の中まで射抜く。

「!」

「綾香さんはどう思ってるか、聞かせてもらえると嬉しいです。」

 心臓が早鐘を打ち、耳まで熱くなっているのが判った。

 視界が潤んで、唇も微細に震える。

「あ、あのね。その、私、実習中とは言え、先生だから・・・」

「だから?」

「あの、だから、今、その、どうこうって言うのは、良くないと思うのね・・・」

 ちらりと顔を上げて章浩を見る。

 真剣な顔がそこに有り、綾香は慌てて目を逸らせた。

「そのね、章浩くんのこと、キライとかそんなんじゃない事だけは、解って、ほしい、です。」

 自分の中でも感情がぐちゃぐちゃになって、たどたどしく言葉をつないで、またチラリと章浩の方を見る。

 章浩はニコリと笑ってぽふっと綾香の頭に手をやった。

「うん、分かった。先生の実習が終わる文化祭後にもう一度告るから、その時に答えて?」

(こっ、ここここ告るっって・・・)

「あ、あのっ。わ、わたし点検するトコ思い出したからっ。そ、それじゃ、またねっ。」

 綾香はばたばたと駆け出して大慌てで靴を履く。

「そっそれじゃあっ。」

 しゅたっと手をかざした綾香は、真っ赤な顔のまま通用路を校舎の方へと駆けて行った。


(びっくりしたびっくりしたびっくりしたっ)


 半ばパニックになった彼女は登校して来た生徒の挨拶に返す余裕も無く、教職員用女子トイレに駆け込んで行った。


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