第10話 初授業

 月曜日。綾香が担任の大岩教諭と並んでホームルームを行う。

 学級委員の大場義信が挙手をして起立した。

「はい。模擬店関係の連絡です。飲食店をやるにあたっての保健所からの通達の件で、今日の午前中に検便キットが届くそうです。クラス全員、保健室に行って検査キットを受け取って、3日以内に保健の先生のトコへ提出してください。」

 ちょっとクラスがざわつく。

「出ないひとはどうなりますか?」

 ふざけた質問にクラスから笑いが起きる。

「根性ででも出してもらわないと、その人は飲食店参加不可になります。それと保健の先生から、『容器いっぱいにする子が必ず一人は出るから、ちゃんと検査キットの説明を読んでください』とのことです。」

 いやーっと言う声にクラスが湧いた。


 別件で学校関係の連絡事項を大岩教諭が話す。

 生徒たちの前に立つことにもかなり慣れて来て、クラス中を観察する余裕も出て来た。

(あ、あの子は今の話、聞き流してたわね。もっと興味を引く言い方を考えたほうが良いわね。)

 そしてやはり章浩のほうが気になる。

 二人きりの時のやんちゃな表情は無く、真面目な顔をしてこちらを見ている。

(カレのあんな顔見られるのは私だけ。)とか思うと妙に嬉しくなった。


 ホームルームが終わるとすぐ、女子生徒が綾香に手招きして自分たちの環の中に引き込んだ。

「せんせせんせ。ちょっとコレ見て。」

「なあに?」

 机の上に差し出されたスマートフォン画面にはライトアップされた木立ちの列と夜景の街並みが写っていた。

(うわおぅっ!)

 拡大された画面に中折れ帽を被った男の子と、彼に並んで歩く、ジャケットを肩に羽織ったガンクラブチェックのキャスケット帽の女性が写っていた。

 キャスケット帽の女性の顔は影になっていて上手く写っていない。

「エミが緑道公園前の大通りからライトアップを撮影したんだって。その一枚にコレがあったの。」

「先生。どう思います?」

「どどどどどどおって?」

「これ一色くんに似てません?」

「そっそう言われれば似てないこともないけど、ちょおっと遠いから何とも言えないわよねぇ。」

 綾香は懸命に動揺を抑えようとした。

 六華も真剣に画面を覗き込んでいる。

(マズイマズイ、これ絶対バレちゃマズいやつっ。)

「い、一色くんは、何て?」

「『僕、カノジョいないもん。』って言ってたけど。」

「本人がそう言うんならそうなんじゃない? ほら、他人の空似ってよくある事だから。」

「そういうもんかなぁ。」

 ちょっとつまらなそうに女の子がつぶやく。

「そうよ。実物ならまだしも、写真だし、遠景だし、夜景でメインのピントがライトアップの方になってるでしょ?」

 綾香は悪い汗をかきながら熱弁を振るった。


 『研修室』に戻った綾香は机に突っ伏した。

「どうしたの村崎さん?」

 穂莉が声を掛ける。

「・・・今朝で今日一日分のエネルギー使い果たした気分。」

「? そんなんじゃ、今日の初授業、もたないわよ。大丈夫?」

「あ、そうか。」

 綾香はがばっと起きて、昨日一日かけて作成した現国の資料の詰まったファイルを引っ張り出した。

 内容をざっと見直す。

「秋山さんは『生物』だっけ?」

「うん。PC室使わせてくれるって言うから甘えちゃった。資料はパワーポイントで作ったの。」

「そうか、画像とかが多い分、そういうやり方があったね。現国はどうしてもアナログになっちゃうな。」

 クラス全員分のプリントアウトした資料の束に目をやって肩をすくめる。

 穂莉がちょっと身を屈めて綾香を覗き込んだ。

「どう、緊張する?」

「これで緊張しないひとが居るなら会ってみたいわよ。」


 4時限目。綾香が教壇に立ち、本日の日直さんが号令を掛けて初の授業が始まった。


「では、今みんながやっている『夏目漱石の「こころ」』を取り上げて授業します。先ず、資料を配布します。」

 綾香はファイルからプリントの束を取り出した。

 

 夏目漱石著「こころ」は大正3年に発表された長編小説で、ストーリーテラーとしての「私」、「私」が「先生」と呼ぶ男性、「先生」の奥さん「お嬢さん」、「お嬢さん」の母親、そして「先生」の親友の「K」で構成された作品。

 「上」「中」「下」の3部構成となっていて、「下」の「先生」の遺書として綴られた、「先生」「お嬢さん」「K」をめぐる三角関係の回想録が有名な件(くだり)である。


「このお話しは、女の子が好きな三角関係のもつれを描く形で構成されています。」

 クラスからクスクスと笑い声が聞こえる。

「有名な作品なので、おそらく中学でもざっくりと教材として見たことがあると思います。ですからみなさんは、この話がどういう展開を見せるかは知っていますね。」

 綾香が登場人物の相関図を黒板に書き付ける。


 黒板に向かう綾香の視界の端に、章浩の真剣な視線を感じて別の緊張が走る。

「現代の三角関係を描いた作品と大きく異なるのは、ヒロインの心理描写が全くと言って良いほど描かれていないところです。『先生』と『K』との掛け合いや、その際の『先生』の物の捉え方で話が進んで行きます。では、教科書の本文を朗読してください・・・」

 綾香自身も意外なほどに、スムーズに授業が進んで行く。


「・・・では、文学作品的思考では無く、実際の恋愛感情から分析して見て、このお話しの流れに違和感を覚えた箇所をグループで話し合って発表してください。時間は10分です。」

 クラス内がざわざわし始め、あちこちで「Kが」、とか「先生が」とかの言葉が溢れる。

 綾香は討論の様子を眺めながら章浩の真剣な顔をチラ見していた。

 仲間内での話の合間にチラリとこちらを見る章浩と目が合って、慌てて他所(よそ)へ視線を向ける。


「先生がお嬢さんに対して、熱烈な恋心を抱いている様子があまり感じられない。」

「先生がお嬢さんへの恋心よりもKに対してのライバル心の方が強い。作品を通して受ける印象として、お嬢さんがモノ扱い。」

「出し抜くにしても直接お嬢さんに告らずに、そのお母さんに話をしている。『こころ』と言うタイトルにしては、お嬢さんの気持ちに向き合っていない。」

 学生たちの意見に綾香が頷き、黒板へ書きつけて行く。


「これらがこのクラスのみんなで感じたことです。人物相関図からも分かるように三角関係のお話しですが、この作品のテーマが純然たる恋愛の話では無いことが判りますね。ではこの作品の意図を考える手段として、この小説が誕生した時代背景について考えてみましょう。・・・・・・・」

 真剣に授業を受けてくれる生徒たちに、綾香は嬉しさを感じた。


 

 お昼休み、中館一階の廊下で綾香は章浩とばったり出会った。

「あら、一人でどうしたの?」

「あ、先生も保健室にう○こ容器取りに来たの?」

「はいっ! そんなキレイな顔がうん〇とか言わないっ。」

 掛け合いをした二人は並んで歩き出した。

「先生の授業、何か深かったね。普通の現国の授業にありがちな、指示語の用法とか行間の読みとかの授業とは違って面白かったよ。」

 章浩が綾香に笑いかける。

「ありがと。こういう授業スタイルが、私が本に興味を持つようになったきっかけだから。これでいろんなことに興味を持ってくれる子が増えると良いと思うの。」

「良いんじゃない? 考える力を付ける良い練習になると思うよ。」


 話しながら保健室の前に着いた。

「失礼します。」

 カラカラと保健室のドアを開ける。

 保健医の姿は無く、机の横に『二年三組』と書かれたA4用紙が張り付けてあるダンボールが口を開けていた。

『取った人は名簿にチェックを入れてください』と書かれ、いくつか印の付いた名前の表が添付されてあった。

「なんだ居ないのか。それじゃもらっておこう。」

 章浩はチェックを入れて検査キットをポケットに突っ込んだ。

「先生は?」

「私は教職員枠でもらってるから。・・・そうだ・・・あの、章浩くん。」

 綾香は周囲に誰も居ないのを確認して声をひそめた。

「土曜日の・・・写されてたね。大丈夫?」

「うん。ちょっと焦った。でも綾香さんの顔は写って無かったから、すっとぼけておいたけど。」

 ニヤリと章浩が笑みを作る。

「あの、だから今後は・・・」

「うん、今後は郊外にしようね。綾香さんの下宿先あたりで良いところ案内して?」

 首をちょっと傾げた章浩は、にっこりと微笑んだ。

「え、いや、あの・・・」

「もうデートしないなんてのは嫌ですよ?」

 綾香が何か言おうとした言葉を遮って、章浩は寂しそうな顔を向ける。

「う・・・」

 きれいに押し切られて綾香は口をもごもごさせた。

「綾香さん。」

「はい?」

「ふたりっきりですね。」

「え、な、なに?」

 章浩は周囲を見回して綾香の手を取った。

 綾香の手を取ったまま保健室の隅のジャバラカーテンの陰に誘(いざな)った。

 真顔の章浩が綾香の顔を見つめる。

「ちょ、ちょっと。あ、あき、ひろくん? あの、ここ、学校だし、その・・・」

「今日の授業。綾香さんの真剣な顔、すてきでした。」

 じりじりと近づく章浩に、綾香はじりじりと後退する。

「あ、あはは・・・あ、ありがと。」

「いつもかわいい綾香さんがキリっとした顔していて、新しい面を見つけた気分です。授業中、見惚(みと)れちゃいました。」

 薬品棚とカーテンの間の壁際に追い込まれた綾香は、近づいて来る章浩の顔に慌てながらも生唾を飲み込んだ。

 章浩が綾香の顔の横にそっと右手を突く。

「どんって音させられないけど、これでも良い?」

「しっ、知らな・・・い・・・」

 唇が触れそうな距離のささやきに弱々しく答えた綾香は、すっと瞼(まぶた)を下ろして顎を上げる。


「しつれーしまーす。」

 元気な女の子の声と共に、ガラガラッと扉が開く音がした。

『!』

「あれー、保健のセンセ、留守だよ?」

「ホントだ。あ、これにチェック入れたら良いみたい。」

 カーテン越しに二人の女の子のやり取りが聞こえ、綾香と章浩は『壁ドン』ポーズのまま固まった。

「どーする? う〇こ。」

「若いムスメがそんなこと言わないの。ウチは洋式だからショッピングモールのトイレに行こうと思う。」

「じゃあさ、今日一緒しない? 村崎センセの付けてた下着のお店も見てみたいし。」

「じゃ、放課後デートしよっか。ついでにタピる?」

「いいねぇ。」

 そんな話をしながら二人の気配が保健室から出て行った。


 息を殺すことしばらく。

「あ~、びっくりした。」

「ホントよ。だいたい、章浩くんっ。こんなトコでこんなコトするリスクを考えてよね。見つかったら大問題でしょ?」

「は~い。以後気を付けます。」

「なんか、緊張感無いわね。」

 雰囲気が壊れた二人は、苦笑いを交わして『壁ドン』ポーズから離れた。


 その時、ジャバラカーテンの向こうに位置するもう一つの扉がからからと音を立てた。

「あら? そこに居るのはだ~れ?」

 カツカツとパンプスの音が近づいて、綾香が真っ青になった。

「ありがとう先生。」

 章浩が明るく声を出して、左目に手を当てた。

 章浩が、すぐそこに来ていた保健医の前に立つと、彼女に向かって左手を差し出した。

「さっき検査キット取りに来たら、落として蹴っ飛ばしちゃったんです。村崎先生がちょうど居て見つけてもらいました。洗浄お願いできます?」

「あら、それは大変だったわね。ちょっと待って、コンタクト洗浄液とカット綿と生理食塩水、持って来るから。」

 保健医はパンプスを鳴らして隣室の準備室へ入って行った。

「ふぅぃぃ~。助かったぁ~。」

 綾香は後ろの壁にぽふっと体を預けて大きく息をついた。

「さっきはごめんなさい。綾香さんがあんまりにもかわいいから調子に乗っちゃって。」

「・・・それ、あんまり反省が伝わってこない。」

「反省してますよ。そうだ、一つ気になったんで聞いて良いですか?」

「うん? なあに?」

 章浩は左瞼を閉じて綾香を覗き込んだ。

「どんなすごい下着付けてたんです?」

「ふっ、ふつーのですっ!」

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